転移の感覚が消え、足元に学舎の園の舗装が戻ってきた。
「ただいまですの」
黒子は周囲を確認してから、ようやく美琴の手を離した。
離す直前、名残を惜しむように指先がわずかに引っかかった気がしたが、美琴は特に気にしなかった。
黒子も緊張していたのだろう。
それより、今は先に確認しなければならないことがある。
「お帰りなさいませぇ」
その相手は、少し離れた場所で待っていた。
食蜂操祈は日傘を肩へ預け、いかにも何も知らないという顔で微笑んでいる。
美琴は無言で歩み寄った。
「あんた、先生に何したのよ」
食蜂は、きょとんと目を丸くした。
「何か問題でも?」
「あの先生、首相相手にあんなずけずけ言う人じゃなかったでしょ!」
「生徒の安全を守るため、必要な要求を伝えただけではありませんの?」
「だから、その言い方をさせたのがあんたでしょうが!」
黒子が二人の間へ入ろうとしたが、美琴は一歩踏み出して食蜂へ顔を近づけた。
食蜂は後ろへ下がらない。
「先生が望んでいないことを、一つでも言わせまして?」
「そういう問題じゃないでしょ」
「では、どの要求が間違っていたのかしらぁ」
「軍や警察を勝手に入れないこと。生徒を勝手に連れ出させないこと。能力検査や身体検査を強制させないこと。支援を受けても、日本政府に従うと決まったわけじゃないってこと」
食蜂は指を折りながら並べた。
「どれを取り下げるべきでした?」
「取り下げろとは言ってない!」
「ならば、問題は内容ではなく手段ですわね」
「最初からそう言ってんのよ!」
「ですが、先生ご自身の考えを、先生ご自身の言葉で話していただいただけですのよ。私は国家権力を前にした遠慮力と、失敗することへの恐怖心を、少し軽くして差し上げただけ」
「それを操ったっていうの!」
「操ってませぇん。背中を押しただけです」
「能力で押すな!」
美琴の怒声にも、食蜂はまったく動じなかった。
「では、御坂さんが代わりに交渉を?」
「う」
「日本政府はきっと親切だから大丈夫、報道の方も少しくらいなら構わない、華央国のミサイルは高そうだから謝っておこう――と?」
「最後のはいいでしょうが!」
「ええ。それは非常に良かったですわ」
予想外の返答に、美琴の勢いが止まった。
「……は?」
「華央国への謝罪と直接対話を申し出たのでしょう?」
「申し出たけど」
ミサイルを撃たせたのは事実だ。
領空侵犯については、知らない世界へ突然放り出されたのだから仕方がないと思っている。学園都市にいた頃から、美琴自身、必要があれば他人の敷地や施設へ勝手に入っていた。
だがミサイルは違う。
あれは作るのにも撃つのにも金がかかる。しかも結果的に、何の意味もなく消費させてしまった。
だから謝る。
美琴としては、それだけの話だった。
「御坂さんのわりに、やるわねぇ」
「その言い方やめなさいよ」
「日本政府とだけ話していては、日本政府から見た世界しか分かりませんもの。華央国と直接話せるなら、日本側が教えなかった情報も照合できます」
食蜂は笑みを深くして周囲を歩き始める、美琴はその横顔から目を離せなくなる。
「相手が友好的でも敵対的でも、窓口は多い方が便利ですわ。顔を見られる人間も、話を聞ける人間も、ずっと増えますもの」
「覗いたり操ったりできる相手も、でしょ」
「まあ。御坂さんったら、人聞きの悪い」
「絶対それが本音でしょうが」
「情報収集の手段は多い方がよい、という一般論ですわぁ」
食蜂は何一つ否定していなかった。
「それに、御坂さんが先に謝罪を申し出たことで、華央国側も無条件にこちらを敵と決めつけにくくなりました。意図してやったなら褒めて差し上げますけれど」
「ミサイルがタダじゃないと思っただけよ」
「でしょうねぇ」
「腹立つ!」
美琴はもう一度、教師への介入を追及しようとした。
しかし食蜂は、すでにその先まで用意していた。
「手段に問題があることくらい、私も承知していますわ」
その声から、わずかに軽さが消えた。
「ですが、失敗したあとで謝れば済む状況ではありませんの。最初の会談で園内への自由な立ち入りを認めてしまえば、それを取り消すために、今度は明確な敵対行動が必要になるかもしれません」
「だからって、人の頭を勝手に」
「先生を尊重して、先生が遠慮するままに任せた結果、生徒たちが危険にさらされても?」
「それとこれとは……」
「別だと言い切れまして?」
美琴は口を開き、閉じた。
言い返したい。
食蜂が他人の心へ勝手に触れたことは、間違いなく問題だ。
だが、教頭が伝えた要求自体は必要だった。
首相や外務大臣を前にしても一歩も引かなかったからこそ、学舎の園側の立場を最初から示すことができた。
食蜂が何もしなければ、教師はもっと曖昧に笑い、政府側の「配慮します」という言葉に安心していたかもしれない。
「それに御坂さん、以前なら私の話を最後まで聞く前に電撃を飛ばしていたでしょう?」
「何よ、急に」
「口で勝てなくなったのではなく、私の話を聞くようになっただけですわ」
「なっ……」
「ほぉんと。成長しましたわねぇ」
「誰があんたのおかげで成長したっていうのよ!」
食蜂は口元へ手を添えて笑った。
美琴はその顔を睨みながら、胸の奥に嫌な焦りを覚えた。
――やばい。
ここんところ、こいつに口で勝てなくなってる……。
以前なら、食蜂の言うことなど初めから信用しなかった。
今は違う。
腹が立っても、やり方が気に入らなくても、こいつが何を考えてそうしたのか、一度は聞いてしまう。
そして聞けば、たいてい一理ある。
「お姉様」
黒子が、何かを言いかけた。
そのときだった。
広場の方角から、突然、大きな歓声が上がった。
「映った!」
「音も出てる! やりましたわ」
「ちょっと、押さないでください!」
美琴と食蜂が同時に振り返る。
「今度は何よ」
「少なくとも、私の仕込みではありませんわ」
二人は黒子を伴い、声のする方へ向かった。
+ + + + + + + + +
広場の一角に、数十人の生徒が集まっていた。
その中心には、長い金属棒と配線を組み合わせた即席のアンテナが立てられている。足元には工具箱、むき出しの基板、何本ものケーブルが広がり、学校備品らしい大型モニターへ接続されていた。
画面には激しい砂嵐が走っている。
だが、その奥には確かに人の顔があった。
『――政府は本日、海上に出現した巨大構造物の関係者と、初の公式会談を行いました』
雑音混じりの音声が広場へ流れる。
歓声がもう一度上がった。
「テレビ?」
美琴が人垣をのぞき込んだ。
装置の前に座っていた他校の生徒が、待っていましたとばかりに胸を張った。
「こちら側の地上波です。周波数帯を走査して、変調方式を調べました」
「そんな簡単に映るものなの?」
「簡単ではありませんでしたけど、分かってしまえば余裕です!」
彼女は、むき出しの回路を得意げに指した。
手書きの高圧注意、を剥がしている技術系学舎の園生徒がいるけど、大丈夫かなと美琴は思考が飛んだ。
「こっち、まだアナログ放送なんですよ。B-CASどころか、暗号化も認証もなし! 映像信号を復調して、こっちのモニターに合うよう走査変換しただけです!」
「言うほど簡単には聞こえませんけど……」
工学は授業の範囲くらいなら、という黒子が回路を見下ろした。
「受信するだけなら、向こうには分かりません。こちらから電波も出してませんし」
食蜂が、その言葉へすぐ反応した。
「それは継続してくださいな。受信は構いませんが、こちらからの送信は禁止です。誰が何を聞いているかも分かりませんもの」
「分かりました」
他校の生徒は素直にうなずいた。
美琴は画面を見ながら、額へ手を当てた。
「そういえば、こういうこちら側の機器を要求するべきだったわね」
「今ごろ気づいたんですの?」
「みんなが作るっていうからしょうがないじゃない」
「学園都市ですわねぇ……。災害に例えるなら、自分たちでログハウス建てるから、支援いらないってノリですわよ」
「そう言われるとと危機感ないわね」
「明日はテレビ、ラジオ、新聞、地図、教科書、法令集、統計資料を要求しますわ」
「多くない?」
「この世界がどういう場所かも知らずに、自治を主張した方々が何をおっしゃいますの」
美琴は反論できなかった。
代表を決める会議では、どこか似たような世界だから、レザもあの食蜂ですら日本も同じ日本と前提にしてた節はある。
食蜂はそうだったわねーっと視線をそっぽにむけている。
あの時、必要だったのは適任者を選べる人だけではなく、SF小説好きの子も同席すべきだったと美琴は後悔した。
モニターでは、港を遠くから映した映像が流れている。
学舎の園そのものは霞んだ輪郭しか見えない。日本政府の船と、周辺を警戒する艦艇、港へ集まった報道陣の姿ばかりが映されていた。
『会談の内容は明らかにされていませんが、政府関係者によれば、構造物内部には相当数の日本語話者が存在するとみられています』
「相当数って」
「まだ推測できていないようねぇ」
「先生は、三千人弱って言っちゃったけどね」
食蜂の目が細くなる。
「あら、そうなの……先生には、帰ったあとで少しお話が必要ですわ」
「別にいいんじゃない? 大きく間違ってなさそうだし」
「情報管理について説明するだけですぅ。それに集計前に出したのはいけません。即座に集計できない状況だってバレたんですぅ」
混乱してて、教師や職員が少ないし事実だからいいじゃない、と美琴は言い返そうとした。
その時、背後で画面が切り替わった。コマーシャルになったので、だれかがチャンネルを変えたようだ。
華央国の国旗と、この世界の地図が映る。
美琴たちが知る地図と、形そのものは大きく変わらない。
だが、そこへ書かれた国名と色分けが違った。
『華央国政府は、領空へ侵入した所属不明機に対する迎撃について、正当な防衛措置であったと改めて発表しました』
「あ。これ、私のこと」
「嬉しそうに言うことではございませんの」
『一方、ソビエト社会主義共和国連邦政府は――』
アナウンサーのその言葉で、広場の空気が変わった。
「……ソビエト?」
「ソビエトって、ソ連?」
誰かが呟いた。
画面には、広大な領土を示す赤い色と、教科書で見慣れた鎌と槌の意匠が映っている。
『ソ連外務省は、太平洋地域で発生した事態について、日本およびアメリカ合衆国が情報を独占していると批判し、国際的な調査団の派遣を要求しています』
「ソ連って、まだあるの?」
「崩壊してないのですか……?」
「ニュース映像の使い回しではありませんわね。または過去の世界」
食蜂は画面へ近づいた。
テロップの日付は現在の日付を示している。
私たちと同じ西暦で、同じ日付だ。
さらに映像が切り替わる。
東西に分断されたままのドイツ。
美琴たちの記憶とは異なる政体の国々。
聞いたことのない国名が特に多い。
知っているはずの国なのに、国旗も指導者も違う地域。
軍事同盟の境界線。核兵器配備数を示す図表が、おどろおろどしく集計されてBGMまで不安にさせてくる。
広場の生徒たちは、誰も騒がなくなっていた。
最初に、美琴が低い声を出した。
「これ、いつの時代なのよ」
「服装や機械だけなら、単純に過去とも考えられましたけれど」
食蜂は画面を見たまま答えた。
「歴史そのものが異なるようですわね」
『続いて、未知の浮遊構造物出現による国際情勢への影響です』
ニュースキャスターの背後へ、時計を模した図が表示された。
文字盤の頂点には、核爆発を表す図柄がある。
『世界核危機監視委員会は本日、核戦争時計の針を、終末へ向けてさらに進めたと発表しました』
誰かが息を呑んだ。それは美琴自身だったかもしれない。
『委員会は、正体不明の構造物と未知の軍事技術を巡り、米ソ両陣営をはじめとする各国が警戒態勢を引き上げていると指摘しています』
画面には各地の軍用飛行場、発射施設、地下司令所が次々に映し出された。
『学舎の園と呼ばれる構造物の出現が、既存の戦略均衡を大きく損なう可能性があり、偶発的な衝突が全面核戦争へ発展する危険性は、昨日までより明確に高まったとの見解を示しました』
広場が静まり返った。
学舎の園が現れただけだった。
そうみんな思ってた。
自分たちは戻る方法も分からず、食料の心配をし、寮の割り振りに困り、日本政府と話を始めただけだ。
それなのに外の世界では、ミサイルが発射され、軍が動き、核兵器の警戒水準まで変化している。
「私たちが来たせいで……?」
「正確には、私たちの存在を各国がどう評価するかによって、ですわ」
食蜂はそう答えたが、いつもの余裕は薄れていた。
笑顔どころか目も伏せがちだ。
美琴はテレビ画面を見つめた。
首相と話し、教師は自治を要求した。
自分はミサイル代がもったいないと思い、華央国へ謝罪したいと言った。
その間にも、この世界は本気で滅びるかもしれないところまで追い詰められていたらしい。
「もしかして、呑気にしてたわたしらって……」
「バカなんじゃなぁい?」
「あんたもでしょうが!」
ほぼ国家の名前は変えてあります。
同じ国名は、日本、アメリカ、ソ連、英国、東西ドイツ。のみです。
もしも他の国名が出ていたら、勢いで入力して推敲で修正忘れです。
これは重要国だけ同じ名前にしたのではなく、状況がわかりやすい国と舞台の日本だけ同じにして、他国は別名にしてオリジナル国家や、ぼかした国家を出すためです。
また、パラレルの冷戦世界らしさのためにも意図してやってます。