とある科学の令和冷戦   作:大体三恵

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異変は小さい。違和感は大きい。

 もっとも早く、学舎の園の小さな異変に気がついた人物は、クリニックの医師だった。

 

 大きな見える異変そのものなら、誰もが知っている。

 学舎の園は海の上に浮かび、見知らぬ世界へ運ばれた。

 

 外には学園都市がなく、日本政府の船があり、各国の軍がこちらを監視している。

 

 学舎の園の中でクリニックを開業する医師が気がついた異変とは、それとは別の小さな異変だった。

 

「いつものお薬をお願いします」

 

 午前中に訪れた生徒は、診察券と薬の手帳を受付へ差し出した。

 

 慢性的な症状を抑えるため、定期的に薬を受け取っている生徒だった。診察結果にも特に変化はなく、医師はいつもと同じ処方を出した。

 

 次に来た生徒は、現在どこかが悪いわけではなかった。

 

「前に喘息が出ていたんですけど、学園都市で治療してからは、もう発作は起きてなくて」

 

「今日は苦しいの?」

 

「いえ。今は平気です。でも、この騒ぎで再発したら怖いので、念のため備えとして薬を持っておきたいんです」

 

 もっともな心配だった。

 未知の環境へ移動したことで、空気中の物質や気圧、精神的な負担が症状へ影響する可能性はある。

 医師は簡単な検査を行い、緊急時の使用方法を改めて説明したうえで、最低限の薬を渡した。

 

 ほかに来たのは、今も空の上にいると考えると眠れないという生徒。

 もう家へ帰れないかもしれないと思うと、頭が重くなるという生徒。

 疲れかストレスか、食欲がなくなったという生徒。

 テレビで世界情勢を見てから、胸が落ち着かないという生徒。

 

 いずれも、この状況を考えれば不自然ではなかった。

 

 医師は話を聞き、必要な者には軽い薬を出し、眠れないからといって無理に眠ろうとしないよう伝えた。

 

 それで午前の診療は終わってしまった。

 午後になっても、待合室は空いている。

 

 受付の職員が椅子を拭きながら、位置を直している。手持ち無沙汰だ。

 看護師が、使われていない診察器具をもう一度確認した。

 

 時計の秒針だけが進む。

 

 クリニックは暇なのに、外の通りでは生徒たちが忙しく行き交っている。

 

 臨時議会へ資料を運ぶ者が、ぱたぱたと走っていく。

 寮ごとの点呼表を抱える者は、書類の並びを整えながら歩いている。

 運び出された保存食を数え、記入しながら自らも保存食を加えているはしたない生徒もいた。

 

 それなのに、クリニックへは来ない。

 

 医師は診察室の椅子へ座ったまま、今日の来院記録を見直した。

 

 学舎の園のすぐ外には、設備の整った大病院があった。

 重い病気や大きな怪我は、もともとそちらへ搬送されていた。

 

 このクリニックへ来るのは、軽い風邪、腹痛、捻挫、切り傷、軽度の能力使用による不調などだ。

 

 軽い病気や怪我なら、よく来る。

 

 それは、このクリニックが重要でないという意味ではない。

 

 むしろ、生徒が暮らす場所に近いからこそ、日常的に患者が来るという意味だった。

 

 階段で足を滑らせ、足を挫いたとか、調理中に指を切ったとか、友人とぶつかってコブができたとか。

 

 能力を使いすぎて気分が悪くなったというのも、学園都市なら珍しくない。

 

 普段なら、一日のうちに必ず何件かは起こる。

 

 まして今は、学舎の園全体が混乱の中にある。

 

 夜中に異世界へ移動し、慌ただしく点呼が行われた。

 生徒たちは校舎や寮を走り回り、物資を運び、知らない世界の軍隊に囲まれていると知った。

 

 こんなことになれば、転倒や衝突がないはずがない。

 気が動転し、過呼吸を起こす生徒がいても不思議ではない。

 患者が押し寄せる可能性を考え、医師は夜が明ける前から準備をしていた。

 

 必要なら待合室の椅子を片づけ、床へ患者を寝かせることまで考えた。

 

 結果は、閑古鳥だった。

 

「平和なら、いいことなんですけどね」

 

 看護師が言った。

 

「そうね」

 

 医師は答えた。

 だが、自分の声が納得していないことに気づいた。

 

「寮から、怪我人の報告は?」

 

「届いていません」

 

「各校の保健室は?」

 

「軽い相談が少し。治療が必要な生徒はいないそうです」

 

「事故そのものがなかったのかしら」

 

「点呼の報告では、混乱はありましたけど……。不思議ですがよいことですね」

 

 看護師は言葉を濁したあと、それは考え方を変えるといいことだと飲み込んだ。

 

「もしかしたら興奮状態で、痛みを感じていない可能性もありますね」

 

 看護師が可能性を述べる。

 医師も同じ可能性を考えていた。

 

 大きな事故や災害の直後には、緊張や興奮によって痛みの自覚が遅れることがある。

 

 不安を自覚しないまま動き続け、落ち着いた途端に体調を崩す者もいる。

 

 今はまだ、全員が異変の最中にいる。

 

 明日になれば患者が増えるのかもしれない。

 

 そう考えれば、一応の説明はつく。

 

 しかし現在、学舎の園には2,919人いる。そのうち2,643人が生徒だ。

 

 全員が興奮状態で痛みを忘れているとは考えにくい。

 全員が一度も転ばず、一度も手を切らず、一度も持病を悪化させていないなどということがあるだろうか。

 

「臨時議会へ報告を出します」

 

「医療物資の不足についてですか?」

 

「いいえ」

 

 医師は新しい用紙を取り出した。

 

「患者が来ないことについて」

 

 看護師は少し困った顔をした。

 だが医師にとって、あるはずの病気や怪我が一件もないことは、原因不明の症状と同じだった。

 報告書の表題をしばらく考え、こう記した。

 

・転移後における医療機関受診者数の異常な減少について

 

 まだ、何が起きているのかは分からない。

 

 ただ、学舎の園では、起きるはずの不調が起きていなかった。

 

+ + + + + + + + +

 

 次に異変へ気づいたのは、レザだった。

 おそらく、現在の学舎の園でもっとも忙しい人間の一人である。

 

 食料や生活用品の集計なら、部下へ任せられる。

 各校から必要量を提出させ、倉庫の在庫と照合し、配給計画へ落とし込めばいい。

 

 日本政府との交渉が始まった以上、いずれ外部から調達することもできる。

 水耕栽培や食品合成についても、専門知識を持つ生徒や研究職員がいる。設備の点検と当面の生産計画なら、彼女自身がすべてを見る必要はない。

 

 だが、循環システムは違う。

 

 生命線を束ねて、こよった細い紐だ。繊細で、切れれば明日も危ういシステムである。

 

 学舎の園を都市として成立させている基幹設備には、学校や研究施設ごとに分散した管理権限があった。

 

 浮遊装置は、さらに重要だった。

 学舎の園独立を目論んでいたレザは、この浮遊装置の予備もいれ準備を万全に行なっていたが、それでも繊細な機器である。

 

 その情報を外部へ渡せば、支援を得られるかもしれない。

 

 同時に、学舎の園が独立して交渉するための最大の切り札を失う可能性もある。

 

 技術を知る者は限られていて、操作できる者は、さらに少ない。

 レザと、その腹心たちが中心となって管理するしかなかった。誰にも任せられない。

 

「第三循環系、圧力変動なし」

 

「再処理設備も正常値です」

 

「浮遊制御の補正は?」

 

「自動制御範囲内です。外部からの干渉は検出されていません。前回測定から誤差二・一センチ」

 

 部下の報告へ、レザは短くうなずいた。

 

 驚くほど正常だった。

 

 本来なら喜ぶべきことだ。

 

 設備が一つでも故障すれば、外部との交渉条件は根底から変わる。だからこそ、レザは休めなかった。

 

 時計を見る。

 日付が変わろうとしていた。

 

「今日はここまでにする」

 

 レザが言うと、腹心の一人が顔を上げた。

 

「浮遊装置の夜間監視は」

 

「交代要員へ引き継げ。異常があればすぐに起こせ」

 

「レザ様は?」

 

「休む」

 

 それだけ答え、レザは管理区画を出た。

 重要区画で深夜でもあり、廊下に人影は少ない。

 

 遠くでは、まだ臨時議会の関係者が動いているらしく、書類を運ぶ足音が聞こえた。

 

 レザは自室へ戻り、扉を施錠した。

 

 制服の上着を脱ぐ。椅子へ座った途端、体の奥へ重さが沈んだ。

 

「疲れた……」

 

 口にすると、余計に疲労を自覚した。

 机の引き出しを開ける。

 

 さらに奥にある薄い板を外し、その裏から細長い瓶を取り出した。

 

 秘蔵のワインだった。

 

 当然、年齢として認められている品ではない。

 入手経路も、保管場所も、腹心たちには秘密にしている。

 

 この状況で飲酒などすべきではない。

 浮遊装置に異常があれば、すぐに呼び戻される。

 

 判断力を鈍らせるわけにはいかない。

 それでも、ほんの一杯くらいならいいだろうと考えた。

 

 少なくとも、前日もそう考えたはずだった。

 

 レザはグラスを取り出し、瓶の栓へ手をかけた。

 

 そこで止まった。

 

「……減ってない?」

 

 瓶を照明へ透かす。

 液面は、記憶していた位置より高い。

 

 いや、高いというより、最初に隠したときの位置とほとんど変わっていない。

 

 レザは眉を寄せた。

 前日、確かに飲んだ……はずだ。

 

 異変の発生後、ひとまず浮遊装置が安定していると確認したあと、自室へ戻って一杯だけ注いだ。

 飲み終えたグラスを洗った記憶もある。

 

 だが、瓶からは一杯分も減っていなかった。

 錯覚かと思い、瓶を机へ置いた。

 

 栓の状態も、隠し場所も、自分が前日に戻したままだ。

 

 誰かが水を足した可能性はない。そうだとしたら、バレているので違う心配になる。

 そもそも、ここへ入れる者はいない。

 

 レザは瓶を手にしたまま、しばらく動かなかった。

 

 得をした。

 

 そんなふうに喜べるほど、彼女は楽観的ではない。

 

「いかん」

 

 額へ手を当てる。

 

「疲れて、飲んだと勘違いしていたか?」

 

 そう呟きながらも、レザはワインをグラスへ注がなかった。

 




そろそろ不穏になってきました。
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