非常食の包装を開く音が、食堂から聞こえなくなり始めた。
転移直後は、保存用のクラッカーや瓶詰めの栄養補助食品。保存食として代表的な缶詰など、加熱せずに食べられる携行食が中心だった。
こういったものは、誰がどれだけ食べたかを管理しやすい。
調理設備へ負荷をかけないというのも大きい。
水や電力の消費量も予測できるし、それらを節約できるという恩恵がある。
味や食感について文句を言う者はいたが、少なくとも空腹にはならなかった。
それが数日をかけ、段階的に通常の食事へ戻された。
最初に温かいスープがついた。
次に炊きたてのご飯。これが出た時は、お嬢様たちから歓声があがった。
水耕栽培区画から収穫された野菜が少量ずつ使われ、食品合成設備も通常運転へ戻った。
日本政府から提供された食料についても、検査と受け入れ手順が整ったものから配給へ回されている。
店舗の一部も営業を再開した。
商品は限られている。
それでも、焼きたてのパンの匂いが通りへ戻っただけで、生徒たちの表情はかなり変わった。
「非常事態でも、限定パンは限定なのね」
美琴が呆れて言った。
営業を再開したベーカリーの前には、短い列ができていた。
食蜂操祈が、列の先頭にある掲示を見た。
「材料が限られているから、一人一個ですってぇ」
「日常が戻ってるけど、まだ異変の影響が残ってるわね」
美琴の感想に食蜂は無言で同意した。
学舎の園はかつてを取り戻し、元へ戻ったわけではない。
外を見れば空があって下に海があり、その向こうには、まだ冷戦が続くこの世界の東京がある。
上空には軍用機が飛び、遠くの海面には各国の艦船が見える。
だが、異変直後のように、誰もが廊下を走り回ってはいなかった。
配給制度ができ、臨時議会の役割分担も固まりつつある。
毎日のように日本政府との会談が行われ、外部から届く情報と物資も少しずつ増えて安定し始めていた。
美琴と食蜂にも、寝る時間くらいは戻ってきた……のに落ち着いたら、次の仕事が回ってきた。
「アメリカとの会談ねぇ」
美琴は他人事のように言って、なんとか買えた小さな甘い可愛げのあるチェリーがのせられたパンを齧る。
食蜂は楽しそうだったが、美琴は、まったく楽しくなかった。
仕事で忙しすぎて、食蜂は交渉相手が変わることを楽しむように成り始めていた。仕事上の変化が、気晴らしになるというワーカーホリックみたいな状態だ。
これに気がついている美琴は、気に入らない相手だが触れないほうがいいと判断している。
「アメリカか。私は先に華央国だと思ってたんだけど。話が先だったんだから」
「向こうの軍人を連れてくるのに、調整が必要なんですってぇ」
「私が気軽に言ったせいで、面倒なことになっちゃたなぁー」
「なっちゃいましたねぇ。でも、アメリカを待たせ続ける方が、もっと面倒だと思うわぁ」
アメリカは、日本政府を通じて正式な会談を申し入れていた。
支援の提案と安全保障上の意見交換。これはまあ当然。
学舎の園の住民が希望する場合の、一時滞在、教育、医療提供に関する説明。
これはいささか問題だ。
言葉だけを見れば非常に親切だけど、美琴には怪しく見えた。
「向こうは、あんたの能力も知ってるのよね。なんでこの条件だしてくるのかしら。」
「日本政府が、こちらの許可を得たうえで説明済みよぉ」
「それで会うだけならともかく、アメリカに来いって言い出してるの?」
「ええ、駐日大使本人が了承したそうよぉ。表層思考の確認についても、限定的に許可すると」
食蜂は嬉しそうに笑った。
美琴は足を止め、食べ終えたパンの包み紙をゴミ箱へすてる。
「へえ、すごい。そこまで同意したの? アメリカ」
「自分の言葉が本心だと、私に確認させたいのでしょうねぇ。罠かしらぁ? どう扱うつもりなのかしら。罠かどうか確かめるために、私が行くのよぉ。楽しみねぇ、御坂さん」
「はあ、楽しんでんのね。心配して損した」
「御坂さんに心配されるようなことはないわぁ。世界最大級の国家が、どんな顔で善意と国益を同時に語るのか。興味がない方がおかしいでしょう?」
美琴は食蜂の豪胆さに驚き、すぐにこんなやつに圧倒されてたまるかと鼻息荒く腕を胸の前で組んだ。
+ + + + + + + + +
会談場所は、横須賀を母港とするアメリカ海軍の駆逐艦だった。
学舎の園へ近づきすぎず、日本側の警戒区域からも外れない位置へ停泊している。
黒子が一度で飛べない距離なため、中継地点として自衛隊の艦船が停泊する。
黒子の能力限界が判明してしまうが、すでに日本政府に公開済みなので、その証明も兼ねて学舎の園は中継移動を受け入れた。
艦尾の飛行甲板には、臨時の会談場所が設けられていた。
海軍の艦艇とは思えないほど、柔らかな印象になるよう整えられている。
ローティーンの少女を迎えるにあたって、配慮したのだろう。
もっとも、周囲には制服姿の乗員が立ち、甲板の各所には軍艦であることを隠しきれない設備が並んでいたので雰囲気がブチ壊しよ、と美琴は思った。
「前より物々しいですわね。ですが、わたくしたちを威圧しないよう、かなり気を遣っておりますの」
白井黒子が、美琴の隣で囁いた。
黒子は、船上へ移動する前に日本側から説明を受けていた。
武装した警備兵は会談場所へ近づけないなど、少女ばかりの代表団へ、軍事的な圧力を与えないための配慮だという。
さらに、開会時の握手も行わない。
アメリカ側の儀礼担当者は、公式映像に適した握手を一度は提案したらしい。
しかし、相手が未成年の少女であり、代表団も女性ばかりであることから、不必要な身体接触と受け取られる可能性があるとして取り下げられた。
文化の違いがあることを考え、男子禁制の学舎の園に少女たちに譲歩した形だ。
美琴たちにとっても、会談の始まりに手を握るという発想はなかった。
元の世界でも握手は世界で、特に西洋文明下ではごく普通の儀礼だったが、日本の、しかも学園都市の、さらにそこの学舎の園で生活する少女たちには男性との握手など馴染みがなかった。
船上には、黒子の空間移動で中継をし向かった。
まず、代表教師、御坂美琴、食蜂操祈と送られる。これに白井黒子を加えて4人の代表団である。三回の移動は手間となり、時間はそれほどかからないが、大人数を運べない弱点が露呈する。
日本政府からは、外務省の担当者と通訳が同行している。
食蜂を最初のアメリカ会談へ出すことには、学舎の園内部でも反対があった。
精神系能力者をいきなり見せれば、相手を刺激するという意見だ。
そのため当初は、美琴と教師だけで会談する予定だった。
しかし日本政府が、学舎の園側の許可を得て食蜂の能力を伝えたところ、アメリカ側は出席を拒まなかった。
それどころか、一定の条件下で思考の確認を許可すると返答した。
「ずいぶん自信があるのね。先生はどうおもます?
「あるいは、自信があるように見せたいのか。外にも内側にも」
代表教師はアメリカの意図を想像する。
「どちらでも同じですわぁ」
食蜂は潮風で乱れた髪を整える。
「アメリカは大国。自信。自信のある姿を見せたい。外国に、国民に。バラバラの意思をまとめ上げてるから、アメリカ政府はとってもメルティなの」
+ + + + + + + + +
駐日アメリカ大使は、会談場所の入口で待っていた。
五十代半ばほどの男性で、精悍で背は高いが軍人のような気配はない。趣味で身体を鍛えているのだろうか。
筋肉で盛り上がる濃紺のスーツを着て、国旗章を胸につけている。
その隣には、駆逐艦の艦長と数名の外交官がいた。
大使は美琴たちを出会った時、手を差し出さなかった。驚くといううより、感嘆するような反応を僅かに見せたあと、挨拶するだけだった。
大男の大使は右手を自分の胸へ軽く当て、頭を下げる。
「お会いできて光栄です」
通訳が日本語へ訳した。
これに代表教師が礼を返し、美琴たちもそれに倣った。
誰の手も、誰の手へ触れなかった。
儀礼的に行われた握手は、少女相手だからとアメリカは配慮して控えた。
美琴たちは文化的に馴染みが無いから……というより大使の大男ぶりに圧倒されて握手の発想が浮かばなかった。
「ここまで来ていただいたことへ感謝します。艦上での会談をお願いしたことについても」
「こちらとしても、学舎の園内部へ外国政府の代表者を招く準備は、まだ整っておりません」
代表教師がメガネの位置を直しつつ答えた。
「理解しています。皆さんの住居と学校へ、許可なく踏み込むつもりはありません」
大使は席を勧めた。大きなテーブルを挟む形、さまざま安全マージンが距離に現れている。
着席すると、食蜂が美琴のすぐ隣へ座った。
反対側には黒子がいる。
「最初に、食蜂操祈さんの能力について確認したい」
大使が単刀直入に尋ねる。
「日本政府から説明を受けています。あなたは、人間の精神や記憶へ干渉し、一定の思考を読み取ることができる」
「ええ。本日の会談では、私が発言している間に限り、表層的な思考と感情を確認することを認めます」
食蜂が胸をはっていうと、代表教師が表情を硬くした。
「大使、それは――」
「私から提案しました。ただし、過去の記憶、職務上の機密、私が現在考えていない情報を探ることは認めません。それが技術的に可能な区別であると、日本政府から説明を受けています」
大使は穏やかに代表教師に説明をした。そうですか、と落ち着く代表教師は、さすがアメリカ大使となると違うなという印象を抱いてるようだった。
「食蜂さん。私の発言が本心かどうか、確認してほしい」
「随分と思い切りましたわねぇ」
「信頼を求めるなら、相手に信じる材料を渡すべきです」
大使は笑った。体が大きいので、かなり揺れているように見える。
「それに、あなたが約束を破るつもりなら、私が拒否しても結果は変わらないのでしょう?」
甲板上のアメリカ人たちが、わずかに緊張した。冗談として言ったのか、本気なのかは分からないのだろう。緊張が走る。
食蜂だけが、楽しそうに目を細めた。
「では、始めましょう」
食蜂は能力を使うが、見た目には何も起きない。
風が吹き、天幕が小さく鳴っただけだった。
美琴は隣の食蜂を見る。
彼女の表情からは、何を感じ取っているのか分からない。
「アメリカ合衆国は、学舎の園の皆さんを歓迎します」
大使が両手を大袈裟に広げて言った。
「皆さんがどの世界から来たのか、なぜここへ現れたのか、私たちにはまだ分かりません。ですが、皆さんが人間であり、保護されるべき権利を持つことには疑いがない」
食蜂は黙って聞いている。
「私たちは、食料、医薬品、衣類、教育資材、通信機器、設備部品を提供できます。必要であれば、医師、技術者、心理支援の専門家も派遣します」
これには代表教師が答える。
「支援の提案には感謝します。ただし、人員の受け入れについては、安全と自治の条件を確認したうえで判断します」
「当然です。皆さんの許可なく、人を送り込むつもりはありません」
大使は即答した。
嘘をついている様子は、食蜂の顔には出なかった。
「また、希望する者がいるなら、アメリカ国内での一時滞在も用意できます」
大使は少し口調を軽くした。
「留学でも、治療でも、避難でも構いません。アメリカへ来る気はありませんか?」
「ありません」
美琴ははっきりと答えた。
通訳が訳し終わる前から、大使は笑っていた。
「そう答えると思っていました。必要なら、そのための方法を議会と相談します。他の方々は?」
美琴は大使を見た。
冗談ではないらしい。
「私たちは、日本人です。外国籍だった子もいますが、当該国がなかったり複雑です。でもその前に、学舎の園の生徒です。それを置いてどこかへ行くつもりもありません」
「それも理解しています」
大使はあっさり引いた。
断られることは最初から計算に入っているようだった。美琴は肩透かしをくらったようで、少し物足りなく感じた。
それでも、アメリカを選択肢として提示したかったのだろう。
美琴は横へ視線を向けると、食蜂が少しだけ顔を寄せる。
耳元へ、金色の髪が触れた。
「彼、いえ、アメリカは本気よぉ」
美琴は食蜂の頬を手で押し戻しつつ聞く。
「本当に受け入れる気があるってこと?」
「ええ。保護したいのも、アメリカ側へ引き寄せたいのも、どちらも本気」
「結局、利用したいんじゃない」
「少し違うわぁ」
食蜂は、美琴に押されたまま囁いた。
「この人たちの中では、保護することと、自分たちの側へ迎えることが、ほとんど同じ意味なのよぉ」
黒子が反対側から身を乗り出した。
「お姉様へ近づきすぎでは?」
「今、大事な話してるの!」
「日本は、よい友人です」
大使は子供達を微笑ましく見るように話を続けた。
「この数日、日本政府が皆さんへどう接してきたかは、私たちも承知しています。彼らは皆さんの助けになるでしょう」
日本側の外務省職員が、わずかに姿勢を正した。
「アメリカも、皆さんのよい友人になりたい」
「その友人って、アメリカの言うことを聞く相手って意味じゃないでしょうね」
「友人とは、命令を聞く者ではありません。断ることのできる相手です。意見が違っても、話を続けられる相手です。そして、危険な時に助けを求められる相手です」
美琴が失礼な尋ねて方をしたが、大使は咎めず笑わず真面目に答える。
食蜂が静かに大使を見ている。
「ただし、友人は選ばなくてはならない」
大使は、少しだけ言葉を区切った。
「皆さんは今後、多くの国から接触を受けるでしょう。支援を申し出る者。技術を求める者。保護を名目に、皆さんの意思を制限しようとする者」
「アメリカは違うと?」
「違うよう努力してきました。誰相手にも、これまでも、今も、きっとこれからも」
完璧だとは言わないと大使は、そう続けた。
「私たちも間違えます。自分たちの利益を考えます。しかし、誰と友人になるべきかについては、長い時間をかけて選んできた」
「簡単に言えば西側にいろ、って言ってます?」
美琴が真正面から尋ねた。
日本側の担当者が、わずかに息を止めた。
大使は少し考えた。
「今すぐ、どこかの陣営を選べとは言いません。皆さんは、まだこの世界を知ったばかりです。ですが、いつか選択が必要になった時には、皆さん自身が考え、話し、拒否できる側を選んでほしい」
大使は美琴の追及を否定しなかったし、柔らかな言葉だった。
しかし、中身は明確だった。
日本とアメリカを中心とした側へ留まりなさい。
命令ではないし、警告とも少し違う。
親切な助言の形をした、戦略上の誘導だった。
「食蜂。これ、どうなの?」
美琴が小声で呼び、食蜂が答えた。
「私たちの自由を守りたいのも、自分たちに有利な場所へ置きたいのも、彼、全部本気よぉ」
「それて矛盾してない?」
「本人の中では、まったく。自信たっぷりよ」
食蜂は楽しそうだった。
「面白い国ねぇ」
物資支援については、具体的な話へ移った。
食料や医薬品の提供は、日本政府を通じて行う。
アメリカ側が直接搬入する場合も、学舎の園と日本政府の双方が検査する。
通信機器の提供については、初春たち情報担当者による安全確認を優先する。
医療支援は、学舎の園側の医師が必要と判断した場合に限る。
アメリカ側は、ほとんどの条件を受け入れた。
どうやら最初の会談で成果を得ることより、次の会談を確実にする方を優先しているようだった。
会談の終わりに、大使が言った。
「私たちは、皆さんを急がせません」
「ほかの国も待たせるんですか?」
美琴が尋ねると、大使は大きな身体で小さく肩をすくめてみせた。
「それを決める権限は、私にはありません」
「たしかに」
美琴の納得した声を合図に、全員が席を立った。
大使は再び、手を差し出さなかった。
胸へ手を当て、会談の開始時と同じように礼をする。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
代表教師が答え、美琴も頭を下げる。
食蜂は優雅に礼を返した。
黒子は美琴のすぐ隣に立ち、帰還のため袖へ触れている。
公式記録用の撮影機が、その様子を残した。
アメリカ大使と学舎の園の代表者。
互いに向き合い礼を交わし、両者の間に、握られた手はなかった。
互いに手をふり、黒子が順番に代表三人を一人づつ運び、 アメリカとの最初の会談は、こうして終了した。