非常食は、再び非常食へ戻りつつあった。
転移直後、各校や施設の倉庫から運び出された保存食は、臨時の配給所へ集められた。
本来は災害への備えだった品もあれば、学舎の園が外部から切り離された際のため、レザが独自に確保していた物資もある。
後者について、表向きは設備障害や都市封鎖への備蓄とされていた。
実際には、もっと長期間の孤立を想定している。
レザの野望、学園都市からの独立。それによる外部による経済封鎖。
物流と通信を遮断された状態で、学舎の園だけを維持するための準備である。
レザは、それが本当に必要になる日が来るとは考えていなかったが、異常事態で本当に必要になってしまった。
なんという皮肉かと、自嘲しながら倉庫へ戻る非常食を眺める。
日本政府からの支援が始まり、水耕栽培と食品合成設備も安定したことで、備蓄の消費速度は落ちている。
保存性の高い品は再点検され、封を開けていないものから順番に倉庫へ戻されることになった。
日常の食事へ戻すことは、単なる生活改善ではない。
非常用物資を再び非常時のために残せるという意味だった。
「最終数量を確認します」
倉庫管理を担当する生徒が言って、レザは驚愕しながら端末から顔を上げた。
「帳簿との誤差は?」
「現在、再集計中です」
「この倉庫だけではない。各校へ分散した分、配給所の残数、調理部門へ渡した量も含めて照合しろ」
命令一下、巨大な倉庫の中では、レザの腹心たちが箱を数えていた。
転移直後の混乱を考えれば、多少の誤差は避けられない。
十個、二十個なら、記録漏れや数え間違いで説明できる。
数百単位で減っていれば、盗難や横流しを疑う必要がある。
レザは、そのどちらかを想定していたのだが──。
「レザ様。やはり、おかしいです。こちらを確認していただけますか」
レザは端末を受け取り、タブレット画面を確認する。
品目は、長期保存用の固形食だった。
転移直後の備蓄数と臨時配給所への搬出量。
廃棄数も漏れはない。
帳簿の計算は合っている。
しかし、実際に棚へ積まれている箱は、それよりはるかに多かった。
「数え直せ」
「三回目です。製造番号も確認しました。記載だけされ搬出されていなかった可能性も考え、搬出時の映像記録をチェックしました。配給所側の受領記録も一致しています」
レザは無言で、他の部下の端末を奪い確認する。
程度の差はあるが、すべて同じ傾向を示していた。
減りすぎているのではない。
──減っていない。
「集計処理に不具合がある」
レザが言った。
部下の一人が首を振った。
「転移前の定期監査記録、転移直後の緊急確認、配給開始時の再確認。三つが一致しています」
「では、今の実数が間違っている可能性は、ないな。わたしも棚を一つずつ確認した」
倉庫の中にいた者たちが、作業を止め始めた。
レザたちの声を聞いている。
何が起きているのか、理解し始めていた。それは不安となって、伝播していっている。
「不足ではないのですよね? だったら、いいのではありませんか」
若い生徒が、おそるおそる尋ねた。
「よくありませんわ。物資が帳簿より多いということは、どこかの記録が間違っているということです」
別の生徒が答えたが、若い生徒は納得していないようである。外部からきた手伝いであり、レザの以前からの部下でも派閥員でもないからだろう。不安そうだが遠慮していない。
「でも、盗まれたわけじゃないなら……」
「誰かが備蓄量を過少申告していた可能性もあります」
その言葉で、倉庫内の空気が変わった。
初期備蓄を少なく申告していた。外へ出したと見せかけて、別の場所へ隠していた。
どれも管理責任の問題になる。
レザ自身が独立用として秘匿していた備蓄もある。
それらは臨時議会の成立後、すでに申告していた。
だが、今になって数量が合わなくなれば、最初から正確な数字を出していなかったのではないかと疑われる。
「全員、作業を続けろ。この倉庫だけで結論を出すな。搬出先、回収先、各校の保管室まで再確認する」
レザが問題を切り捨てるように言った。
「ですが」
「命令だ」
声を強めると、部下たちは動き始めた。
それでも騒めきは消えなかった。
不足なら、原因は盗難や横領、記録漏れという人間の仕業だ。
責任者を探し、処分し、数字を修正すればよい。
だが、使ったはずの物が残っているという現象には、責任者を置けない。
─────再集計には半日かかった。
結果は変わらなかった。
転移直後、最初に運び出した分については減っている。
だが、ある時点を境に、帳簿上の搬出量と実際の残量が乖離し始めていた。
計算を逆にすると、現在の実数は、初期の数日間だけを消費した場合の残数に近かった。
「口外するな」
大きく息を吸ったあとレザは、腹心たちへ命じた。
「確認が終わるまで、臨時議会にも他校にも報告するな」
「ですが、これ以上は――」
「命令だ! 一時的だ!」
誰も反論しなくなった。
レザは倉庫を出て自室へ戻る途中、誰とも目を合わせなかった。
報告しなければならない。
医療部門は、患者が異常に少ないことを報告している。
それと同じように、物資管理部門も異常を報告するべきだ。
だが、報告書へ数字を書けば、必ず問われる。
初期在庫の確認者し、帳簿を管理していたのはレザだ。
では、秘匿備蓄を保有していたのは誰か。
レザである。
レザネリエ=サディス=ダイヤラインが独立用の備蓄を一部隠していました。
そう判断されても、反論できない。
数が増えたと主張するより、その方が常識的だった。
物資は自然には増えないし、食料がどこからか湧いて、倉庫へ歩いて棚に収まることもない。
だから、間違っているのは世界ではなく、管理者の方だと判断される。
その夜、レザはワインの瓶を机へ置いた。
以前、飲んだはずなのに減っていなかった瓶。
あの時は、疲労による記憶違いだと考えた。
グラスを洗った記憶も、味の記憶も、連日の疲れによって混ざった。
そう自分の中で処理したワインだ。
だが、同じことが数百、数千の物資で起きていた。
レザは瓶を手に取った。
本当に私は飲んだのか?
記憶があるだけでは、証拠にならないのか。
自分の舌に残った味も、喉を通る感覚も、グラスを洗った手触りも……すべて、最初から与えられたものだとしたら。
「馬鹿な!」
レザは瓶を戻し、眠りにつくことにした。
こんなことを考えるべきではないとベッドの中で、何度も口にした。
……翌朝になっても、眠れなかった。
+ + + + + + + + +
レザが報告相手として食蜂操祈を選んだのは、信頼していたからではない。
信頼を必要としないからだった。
食蜂なら、レザが嘘をついているか説明ではなく能力で確認できる。
指定された小会議室へ、食蜂は一人で現れた。
「あら、随分と深刻そうねぇ」
「食蜂。先に言っておく」
レザは机上へ資料を並べた。
「私は数字を誤魔化していない。備蓄の存在を一部秘匿していた時期はあるが、臨時議会成立後にすべて申告した。現在の帳簿にも反映されている」
「それを確認してほしい、と?」
食蜂は資料の一つを手にとり、椅子へ座った。
「そうだ。記憶の奥まで探られるつもりはない」
「表面だけで十分でしょうねぇ」
食蜂はリモコンへ指を置いた。
「今から、あなたが嘘をついているか、数字を意図的に操作したか、その程度を確認するわぁ。それ以外は見ない」
「構わない」
能力が使われる。
レザは、目の前の資料だけを考えた。
改竄していない。
盗んでいない。
部下にもさせていない。
報告が遅れたのは、管理責任を恐れたから。
食蜂は、そこまでを読み取った。
レザが心の奥へ押し込めている別の推測には触れなかった。
「嘘ではないわねぇ」
食蜂の笑みが消えた。
「少なくとも、あなたは数字を操作していない。初期在庫も、あなたが正しいと思っていた数字を出している……。はあ……その資料を説明して」
食蜂は困ったことになったと額を抑え、レザは物資が減っていないことを話した。
レザの説明は異変直後から始まり長かったが、食蜂は途中で口を挟まなかった。
二人で資料を読み、数字を追い、同じ品目を何度も見直した。
「部下は何人知っているのぉ?」
「最終集計に参加した者は全員だ。常盤台ではない生徒もいる」
「あなたの派閥の中では?」
「同じだ。倉庫管理と物資配給を担当している中核が知っている。口外禁止を命じた」
食蜂は考え込んだ。
医療機関の受診者が少ない。
さらに加えて物資が減らない。
二つの異常が、同じ原因とは限らない。
だが、偶然として片づけるには不自然だった。
「この件は、あなたの派閥内でもこれ以上広げないで。知っている者にも、再度命令しなさい。家族、友人、ほかの責任者へも口外禁止。資料は複製せず、アクセス記録を残すこと」
食蜂が言った。それはレザを通したレザ派閥への命令だった。
「私の部下に、お前が命令するのか! 承服しかねる!」
──と、普段のレザなら、その言い方だけで反発しただろう。
食蜂派閥の支配を受け入れた覚えはない。
協力はしても、従属はしない。
そう言い返したはずだったが、今日は、今だけは違った。
「承知した」
言葉が、あっさり口から出た。
食蜂が一瞬、レザを見る。
食蜂は追及しなかった。
「ねえ、レザ。私の方でも、患者数の異常と合わせて調べるわ。臨時議会への報告はまだ待って。原因も分からないまま広めれば、物資が無限に出てくるという噂になりかねないから」
「急に減り始める可能性もある」
「だから、配給計画は従来の帳簿を基準に続ける。残っているからといって余分に使わせない」
食蜂は立ち上がった。
「あなたも、通常通り管理を続けて。異常が再現するか確認するわよぉ」
「分かった」
「それから、今日だけでも休みなさい」
「必要ない」
「命令よぉ」
「……承知した」
まただった。
レザは反論する前に、受け入れていた。
食蜂が部屋を出たあと、レザはしばらく椅子から動かなかった。
自分は、あの女の命令へ二度も素直に従ってしまったと、レザは暗く沈んだ。
+ + + + + + + + +
レザには思い当たる節があった。
誰にも話していないし、食蜂にも読ませていない。
思考の表面へ浮かべないよう、資料の数字だけを考え続けた。
学舎の園の頭上には衛星がある。その名はタイニー。
独立を準備していたレザが、その存在を知らないはずがなかった。
おりひめ2号に搭載された
しかしそれは表向きで、実際は学園都市の深部に潜む、通常の管理系統とは異なる存在。
誰が何のために作り、どこまでの権限を持っているのか。
今は学園都市の技術で、衛星軌道で隠れているが、確かに存在している。信号反応もある。
だが完全には分からない。
だからこそ、レザは対策を用意していた。
敵対した場合の遮断手段や、こちら側へ引き込むための侵入経路。
さらには制御権を奪うためのハッキング。
そして、交渉材料として、学舎の園にいる人間たちのデータを送っていた。
個人情報レベルではない。身体的、能力、社会性まで網羅した緻密なデータだ。
独立後の統治と安全維持に必要だと判断した情報のすべて。
タイニーがそれを受け取っていて、学舎の園にいる全員を再現するだけの情報がある。
【現在の自分たちは、本当に海の上へ転移したのか】
【それとも転移したと思い込まされているだけなのか】
【タイニーが作った夢、五感を完全に再現した仮想空間】
【現実の身体はどこか別の場所にあり、意識だけが閉じ込められている】
だから、物資は本当には消費されず、食べたという感覚だけが与えられる。
仮想空間を構成する基礎データとしての備蓄数は、何かの理由で巻き戻される。
あるいは、必要な時に再配置されている。
まるでゲームの
「違う」
レザは否定する。証拠はない。
物資の数字が合わないだけだ。
若くて健康的な生徒ばかり、患者が少ないだけだ。
世界そのものを疑うなど正気ではない!
レザは自室へ戻った。
机の上には、ワインの瓶とグラスが置かれたままだった。
今日は飲む。今日は絶対に飲む!
そして飲んだ事実を、自分で確認する。
そうだ。液面へ印をつければいい。
量を測り、記録し、翌朝もう一度確認すれば【夢】でないと証明される!
レザは栓を抜き、グラスへ注いだ。
赤い液体が底へ広がり、芳香が渦を巻く。
光の反射も自然だった。
これが……これが偽物だというのか。
口へ運べば、味がする。
飲み込めば喉が熱くなる。
それでも、現実ではない可能性がある。などと邪念が湧いた。
「ふざけるな」
レザはグラスを机へ置いて頭を抱えた。
自分がタイニーへ送り、自分が独立のために準備し、自分が全員のデータを集めた。
もし、この世界がタイニーの夢なら。
閉じ込めたのは誰だ!
タイニーか!
それとも、タイニーへ材料を渡した自分か!
「私ではないっ!」
レザはワイングラスを机へ叩きつけた。
乾いた甲高い音がして薄いガラスが砕け、赤い液体が書類へ飛び散る。
破片の一つが跳ね、レザの腕へ刺さった。
「っ……」
鋭い痛みが走った。
痛い。
「よかった」
ならば現実だ。
痛みを感じて、レザは夢でないと確信した。
そうだ、傷をつければ即わかったではないか。
安堵したレザは笑いながら反射的に、刺さった破片を指でつまみ引き抜いた。
そこには何もなかった。
皮膚の裂け目の内側に、淡い光を放つ空洞があった。