「御坂さん。少し、二人きりで話せないかしらぁ」
ある昼下がり。食蜂操祈がそう言った瞬間に、白井黒子の顔から表情が消えた。
直後、世界の終わりのような顔になって──
「ぶぎょろぉごのぉうのほー!」
もはや日本語ではなかった。
だが、食蜂を美琴から引き離せという意思だけは、周囲にいた全員へ正確に伝わった。
「黒子、落ち着きなさい」
「落ち着けるわけがございませんの!」
顔を真っ赤にした黒子は、なだめようとした美琴の腕へ抱きついた。
「密室! 二人きり! この女と! お姉様が!」
「相談でしょ。黒子は大袈裟すぎんの」
「食蜂操祈が、お姉様へ二人きりを要求する時点で、相談という言葉の信用は地に落ちておりますの!」
「あらぁ。白井さんは、私が御坂さんへ何をすると考えているのかしらぁ?」
「口にするのもおぞましいですの!」
黒子の額に青筋が浮かんだ。
いつものことだけど……と、美琴はため息をついて黒子の頭を押さえつつ食蜂へ向き直る。
「それで、何の話?」
「ここでは話せないことよぉ」
食蜂の声は軽いが、その目は笑っていなかった。
そういえば……と美琴は思い起こす。
何日か前から、食蜂の様子が少しおかしい。
日々の仕事をこなしている上に、いつも通り嫌味を言い、美琴をからかい、黒子を怒らせる。
それでも、時々、何もないところを確かめるように自分の指先を見つめていた。
最初は爪の手入れでも気にしているのかと美琴は思っていたが、絹手袋をつけている時も、ぼーっと見ている姿を見かけた。
疲れているのだろうか?
「分かった」
美琴は必死にしがみついてくる黒子の腕を、撫でるように宥めながら外した。
「お、お姉様! そんな女に、ひょいひょいついて行かないでくださいまし!」
「すぐ戻るわよ」
「十五分ですの!」
「はいはい」
「十分!」
「減ってるじゃない」
「五分ですのっ!」
「話し合う気ないでしょ、あんた」
美琴は食蜂について歩き出し、背後から、黒子の怨念じみた視線が突き刺さるのを感じた。
まったく、あの子は……と、美琴は呆れるほかない。
だが、いまは目の前で先を歩く食蜂だ。
食蜂は振り返らず、片手だけをひらひら振った。
「御坂さんは責任をもってお返ししますわぁ」
「あなたの責任など信用できませんのー!」
正直、美琴は黒子より、食蜂のその軽々しい態度のほうが心配だった。
+ + + + + + + + +
食蜂が招いたのは、常盤台中学の旧研究棟にある小さな実験室だった。
現在はほとんど使われておらず、窓がなく、外部ネットワークにも接続されていない部屋だ。
入退室記録だけは残るが、室内の監視装置は食蜂派閥が点検を理由に停止させていた。
「へえ……あんた、ずいぶん用意がいいわね」
「二人きりになりたかったものぉ」
「そ、それを黒子が聞いたら、今度こそ扉が消えるわよ」
食蜂が扉を閉めて電子錠をかけ、さらに手動の錠までかけた。
美琴は眉を寄せた。
「そこまですんの?」
「念のためよぉ」
「そう……」
食蜂は机の上へ、小さなケースを置き蓋を開けた。
中には一本のナイフが入っていた。
食蜂はそれを怪しい目つきで手に取る。
刃渡りは短い。
たぶん研究設備の封を切ったり、素材を加工したりするためのものだろう。
それでも、刃物には違いない。
美琴の周囲で、ぱち、と電気が鳴った。
「ついにやる気?」
美琴は半歩、腰を落とした。
「だからって、そんなので私に勝てると思って――」
食蜂はナイフを自分へ向けた。
「……なにしてんの?」
美琴が警戒を向けていた刃先は、食蜂の左手の甲へ向けられている。
震える手で柄を握っていた。さらに指が別の振動までしていた。
食蜂のいつもの余裕がどこにもない。
「食蜂? ねえ、なにしてんの?」
「ちょっと、黙っててくれるぅ?」
声も震えている。涙目だ。潤んだキラキラお目目は綺麗だけど、心配な美琴はそれすら異常に見えた。
「黙れって、じゃあ私はなにすればいいの?」
「なら、応援でもしてちょうだい」
「何を応援するのよ!」
食蜂は刃を下ろそうとする。
だが、直前で止まる。
息を吸う。ナイフを振り上げ、また止まる。
「怖いならやめなさい。ふざけてるなら帰るわよ」
「怖いに決まってるでしょう?」
「だったら、そのナイフを置け」
「確認しないと、話せないのよぉ」
「何を」
食蜂は答えなかった。
額に汗が浮いている。
美琴はナイフを奪おうと一歩近づいた。
「待って」
食蜂の声が鋭くなる。
「今、御坂さんが触ったら、できなくなる」
「何をしようとしてるか説明しなさい!」
「説明するために、やるの!」
食蜂は目を閉じた。
一度、大きく息を吸う。
「最悪」
小さく呟いた。
次の瞬間、ナイフを自分の手の甲へ突き立てた。
「なにとち狂ってんのよ!」
美琴が駆け寄る。
食蜂の身体を支え、右手からナイフを奪おうとする。
「待って、まだ抜かないで」
「馬鹿言ってないで!」
「見て」
食蜂は目を瞑って、必死にナイフを握っている。
美琴は力が入ったままの腕を、無理に動かすのは危険だと判断した。できるだけ宥めるように手を添える。
「見て、って。まず手を……ナイフから離しなさい」
「抜くから、見てて。ちゃんとみてなさい」
食蜂の顔は青ざめている。だが、潤んで真剣な眼差しがある。
唇を噛み、震える指でナイフを一気に引き抜いた。
美琴は目を疑った。
食蜂傷口からは、一滴の血も出なかった。
それだけならまだしも、裂けた皮膚の内側に、肉も骨もなかった。
手の甲に開いた傷口、その奥には淡い光を放つ空洞があった。
白とも青ともつかない光が瞬き、渦を巻く。
表面からでは奥行きが分からないほど、人間の身体の中にあるはずのない、何もない空間。
美琴は息を忘れ、食蜂の体から離れようとした。そして自分の手も見て……まさか。と呟く。
食蜂が左手を持ち上げると、その傷口の中で光が静かに揺れていた。
「いったーい……。御坂さんのせいだぞぉ」
食蜂は涙目で軽口を叩いてきたが、美琴は余裕のなく反応できなかった。
「こういう時は、もう少し慌てるとかぁ。優しく手を取るとかぁ」
「……話しなさい」
「のりわるーい」
「食蜂……。話して」
美琴の声は低かった。
怒っている時の声だった。
だが、電気は出ていない。
食蜂の手を握りしめることもできない。
触れたら壊れるのではないか? という、あり得ない恐怖が美琴の中にあったからだ。
「最初から説明しなさいよ」
「その前に、手当てを……いたいのよ」
「何をどう手当てすんの、それ?」
「そうなのよねぇ……」
食蜂は傷口を見た。
「困ったことに、傷として扱えばいいのかも分からないのよねぇ……これ」
光る空洞の縁が、少しずつ閉じ始めていた。
皮膚が治癒している様子ではなく、裂け目そのものが、最初から存在しなかったように消えていく。
数十秒後には、傷跡すら残らなかった。
食蜂は手の甲を撫でる。
「痛みは残ってるのにねぇ」
美琴は黙って椅子を引いた。食蜂を睨んで促す。
「座って」
「命令?」
「今は黙って座れ」
「はぁい」
食蜂は素直に従って、美琴も向かいへ座る。
机の上には、血のついていないナイフがあり、刀身は食蜂の行動がなにもなかったかのように澄んでいる。
美琴がナイフを見つめていると、食蜂が変なことをしないでぇと言わんばかりに口を開いた。
「ねえ、御坂さん。虚数学区っていう噂、知ってる?」
「名前くらいは」
「学園都市にいる能力者のAIM拡散力場を重ね合わせて、通常の空間とは異なる領域を作る。都市伝説扱いだったけれど、こうなると完全な作り話ではないわぁ」
「それと、今のが何の関係があるの」
「私たちの身体を調べたの」
食蜂は自分の手を見る。
「表面上は人間と同じ。体温もある。脈もある。呼吸もしてる。食事もできるし、眠くもなる。痛みもある……でも中身は違った」
「私も?」
食蜂は答えなかった。目線はわかるでしょう……という色さえなかった。
沈痛の色。
その沈黙だけで十分だった。
美琴は自分の手の甲を見た。
見慣れた自分の手だ。
拳を握れば感触がある。放電すれば、電気が指先を走る。
だが切り開けば食蜂と同じ光がある。
「何人調べたの」
「実際に傷をつけたのは、レザと私だけ」
「レザも?」
「最初に気づいたのは、あの子よぉ」
食蜂は、物資が減らなかったことを話した。
患者が異常に少なかったこと。
非常時の物資が減っていなかったこと。
癇癪を起こしたレザがグラスを割り、腕へ刺さった破片を抜いたら、そこに光る空洞があったこと。
「レザは、自分たちが仮想空間へ閉じ込められていると考えた。まあこれは完全には否定できないわぁ。でも、仮想空間というより、実体を持つ演算空間に近いと思う」
「何それ」
「私たちは、自分を人間だと思っている。記憶もある。性格もある。身体の感覚もある。元の自分と同じように考え、同じように行動している」
食蜂は静かに天井をあおいで語り、美琴は目を閉じた。
「スワンプマンってやつね。たしか沼から出てきた何かが、元の人間と同じ記憶と姿を持っている。本人は自分が偽物だと知らない」
「御坂さんの理解力が早くて助かるわぁ」
食蜂が空々しく褒めて一息つく前で、美琴は意を決意して尋ねる。
「…………で、元の私たちは?」
「分からない」
「そう」
死んだからここにいるのか、別の場所にやはり転移しているのか、いろいろ想像できて、想像できない状態になっている可能性もある。
食蜂のわからないは、調べようもないというトーンを含んでいた。
美琴は机の下で拳を握った。
「原因は?」
「原因はわからないけど種は、上の衛星よ」
食蜂は先ほどから天井を見上げていた。リモコンで天井、空、その向こうをさし示し、美琴も上を見上げた。
「外部からは観測できない。ステルス性が高すぎるのよぉ。電波も光も、ほとんど返さない。軌道も普通ではない。宇宙空間で近距離まで接近しなければ、まず見つからない」
「どうやって調べたの」
身体の話ではなくなり、食蜂は、少しだけ普段の顔へ戻った。
「天文観測設備。宇宙関連の研究記録。園内へ残った衛星通信ログ。浮遊装置と給電系統の変動。能力者のAIM拡散力場。それぞれ別の担当へ調べさせたわぁ。あとレザがPINGを送ってた形跡もある」
誰にも全体像を渡さず、細切れの課題として調べさせたようだ。それらを食蜂一人が組み合わせた。
「たぶん、私たちも維持している。あのタイニーは」
「タイニー。
食蜂の目がわずかに動いた。
「レザから聞いた?」
「違う。前に、学園都市の都市伝説みたいなやつだけど、佐天さんから……あったのね」
「レザは知っていた。独立のために、あれをこちら側へ引き込む手段まで用意していたそうよぉ。その結果がこれかもしれない」
レザは独立後の統治へ備え、管理用に学舎の園のデータをタイニーへ送っていた。
タイニーがそのデータを利用したのか、事故だったのか。なんらかの能力の影響か。
それとも、最初から別の目的があったのか。
「レザ先輩が休んでいたのは、これが理由か」
「ええ。記憶を処理したけど不安定だったから」
美琴の表情が変わる。
無言の圧を受けても、食蜂は悪びれない。
「仕方がなかったのよぉ。完全に消してはいない。異常へ気づいた記憶と、身体を傷つけた記憶を、表層からアクセスできない場所へ移しただけ」
「同じでしょうが!」
美琴の声が室内へ響いた。
「レザは壊れかけていた!」
食蜂も声を強めた。
反論というより、自分に向けた、言い聞かせるような、だが聞かないでという声だった。
「あの子は、自分が全員をここへ閉じ込めたと思い始めていた! 食べ物も、人間も、全部偽物だって! 眠らない、食べない、部下へも触れられない。あのままでは、自分の身体をもっと壊して確認していたわぁ! ほかに何ができたの!」
食蜂の声が途切れた。
肩が震えている。
怒っているのではない。
食蜂は恐れている。
2,919人へ、この事実を知らせたら、知られたら、何が起きる?
「情報統制するしかなかった……。レザの派閥には、物資集計の誤りだったという記憶を補強した。レザ本人には、疲労と精神的負担による一時的な錯乱として処理させた。今は復帰してる」
「その場しのぎ、よね? それって」
「ええ」
食蜂は否定しなかった。
「記憶を塞いでも、事実は消えない。また数字は合わなくなる。ほかの誰かが傷つけば、光を見る。いつまでも隠せるとは思ってないわぁ」
「今、このことを知ってるのは?」
「私とあなただけ」
「わかった。で、どうして私に話したの」
「あなたは私の力で、記憶を消せないから」
美琴の眉が動く。
食蜂はわずかに笑った。
「あなたなら、私があとから都合よく処理できないものぉ。嫌がらせぉ……」
「覚悟はいい?」
美琴の前髪から火花が散った。
「じょ、冗談よぉ!」
食蜂が椅子ごと少し後ろへ下がる。
「さすがに深刻すぎて、一人では抱えられなかったの! 御坂さんに弱音を吐くなんて、私の美学に反するのよぉ」
「最初からそう言いなさいなっ!」
美琴は立ち上がると、食蜂が椅子から立ち上がれず身構える。
殴られると思ったらしい。
美琴は、その身体を抱き寄せた。
「え」
食蜂の声が止まる。
美琴の腕が、背中へ回る。責めるような強さはない。
逃げようと思えば逃げられる。
それでも、食蜂は動かなかった。
「抱えてあげる。だから貸し一つね」
美琴が言った。
「御坂さんのくせに、生意気」
「うるさい」
「もっと優しく言えないのぉ?」
「私を誰だとおもってんよ」
言葉の強い美琴は少しだけ腕へ力を入れ、食蜂の額が肩へ触れる。
「変だと思ったのよねぇ。急に能力が上がったこと」
食蜂が呟き、美琴は抱きしめたまま聞き返す。
「接触すると強くなる話?」
「ええ。私も潤子さんと抱き合っていると、
「それって、数千人単位をリモコンなしで掌握できるほどでしょ? 先に言いなさいよ!」
「検証中だったの。接触面積が大きい方が、出力が上がるんだものぉ」
食蜂は美琴の肩へ顔を伏せたまま、少し笑った。
「私たちが生身の人間ではなくて、AIM拡散力場か何かを基礎に作られているなら、接触によって処理領域が重なるのかもしれない」
「急に真面目な説明を足して誤魔化すな」
「誤魔化してないわぁ」
「潤子さんとは何回やったの」
「御坂さん、そこ気になる? 嫉妬ぉ?」
「離すわよ」
「三十七回」
「多いわ!」
「条件を変えて調べたのよぉ」
美琴は頭が痛くなってきた。考えたら、帆風先輩は純粋で天然だけど積極的、食蜂は揶揄う意図があるタイプ。
二人がお肌のふれあい検証をすれば、止まらなくなるはずである。
腹が立つ。
美琴は二人が接触していたことに、腹が立ったわけではない。
自分の身体がわけわからないものになっていることに腹を立てていた。
むしろ、食蜂と帆風のくだらなさに少しだけ救われてもいた。
「で……食蜂。これからどうするの」
「まず、衛星との接続を調べるわぁ。切れば私たちが消える可能性があるから、手は出さない」
「日本政府にはなんて?」
「まだ言わない。分からないことを分かったふりするよりはいいでしょう?」
「それはそうだけど」
「それに、明日は華央国との会談よぉ」
「……忘れてた」
「忘れないでちょうだい。御坂さんが謝りたいと言ったのでしょう?」
「分かってる」
美琴は目を閉じた。
明日、華央国の代表者が訪れ、あの時、自分を追跡した戦闘機のパイロットもくる。
数時間前までは、緊張はしても、それだけの会談だった。
今は違う。
自分が本当に、あの時空を飛んでいた御坂美琴なのか。
ミサイルを避け、A.A.A.を操っていた人間と、今ここにいる自分は同じなのか。
同じ記憶を持つだけの何かなのか。
答えは出ない。
「大丈夫?」
食蜂が美琴を心配していた。
異常事態だ。
手を傷つけて、そこが空洞であったことより異常事態だ。
「食蜂。あんたおかしい。だから、今日は一人で寝るな」
「え? 御坂さんとぉ?」
「違うってのっ! 潤子さんでも誰でもいいから、誰かといなさい!」
「そうね。でももう少しだけこのまま」
食蜂が再び、美琴の肩へ額をつけた。
+ + + + + + + + +
翌朝、鏡の前で、美琴は自分の手を見ていた。
傷ひとつない皮膚の色も、爪の形も、昨日までと同じ。
指先へ力を込める。
ぱち、と青白い電気が走った。
昨日までと同じ、何も変わっていないように見える。けど、昨日と違って見えた。
「お姉様?」
黒子の声が、背後から聞こえた。
「そろそろ出発のお時間ですの。……緊張なさっております?」
「少しね。だけど大丈夫、何でもない」
美琴は黒子の手を見る。
この手の中にも、食蜂にもあったあの同じ光と空洞があるのだろうか?
美琴の心のどこかに、光る空洞が残っていた。