屋内プールは、私が想像していたより混雑していた。
学舎の園では、娯楽が極端に減っている。
読書や音楽、手芸、絵画のように、一人で続けられる趣味を持つ生徒はまだよい。
だが、佐天涙子は娯楽に飢えていた。
園外へ買い物へ行けないし、新しい店もない。
ミニ映画館も遊戯施設も、従業員がいないため営業していない。
外へ自由に出られず、インターネットも制限付き。
何か面白そうなことを見つけなければ、自分で面白いことを起こしかねない段階へ入っている。
「うーいーはーるー!」
発生源が何者か分かり易い歓声がプールへ響いた。
「ちょ、佐天さん! 待ってください!」
佐天さんが初春飾利へ背後から抱きつく。
水着同士の身体が密着した瞬間、二人の足元で空気が弾けた。
水面が大きくへこむ。
次の瞬間、二人の身体がふわりと浮き上がった。
「飛びます!」
「ひゃーーーっ!?」
佐天さんは初春さんを抱えたまま、プールの上を低く飛んだ。
完全な飛行というより、強い上昇気流へ身体を乗せている。
それでも、二人分の体重を支えたまま、十メートル近くを移動していた。
最後に風の向きを切り、二人は揃って水面へ落ちた。
大きな水柱が上がる。
水面から顔を出した佐天さんは、満面の笑みを浮かべていた。
初春さんは怒りながらも、佐天さんの腕から本気で逃れようとはしていない。
「元気ねぇ。制御は荒いけど、水に落ちること前提なら大丈夫ね」
佐天さんの着地を考えていない行動を良しとし、私はプールサイドの長椅子へ腰かけたまま呟いた。
むしろ練習になっていいと思う。
初春さんを巻き込むのはどうかなぁ……という感想もあるけど。
黒子に押し切られ、水着だけは服の下へ着ているけど、まだ泳ぐつもりはない。
黒子はすでに着替えを終え、隣で準備運動をしている。
「佐天にとっては、久しぶりの娯楽らしい娯楽ですもの」
「能力実験も兼ねてない、あれ?」
「佐天本人は遊ぶことしか考えておりませんでしょう?」
ああ、そうか。佐天さんはまだ、楽しくて夢中の段階か。
私が能力に目覚めた頃、毎夜布団の中で静電気を繰り返しだして、小さな星空を作っていたころと同じね。
納得して周囲を見回し、他の生徒たちの様子を見る。
泳ぐ生徒はもちろん、ゆったり水中で歩きながら話す者。
プールサイドへ茶器を持ち込み、監視員役の生徒に叱られている子もいた。
水泳の授業ではないため、好きな水着を着ている生徒が多い。
なんて自由な状況なんだろう。
まあ利用時間と人数は臨時議会によって調整されてるけど。
気候制御が行われているとはいえ、夏は夏だ。
涼を取れる場所として、プールの人気は高い
特に人気があるのは屋内施設で、理由は日差しを避けられるからだけではない。
「屋外ですと、上空から見られてしまいますもの」
近くで話していた生徒が、扇子で口元を隠した。
「各国の偵察衛星が、学舎の園を観測しているのでしょう?」
「低い解像度であっても、殿方に水着姿を凝視されるというのは……」
「はしたないですわ」
「ええ。本当に」
嫌悪や恐怖というより、心の底から恥じらっている。
いかにもお嬢様らしい反応ね。
「衛星写真で、一人一人の水着まで分かるとは思えないけど」
私が小声で言う。
「問題は見えるかどうかではなく、見ようとしている殿方がいるかどうかですの」
黒子は理解を示した。
「あんた、そういうところだけお嬢様よね」
「お姉様もそうですわよね? 急にお嬢様になったり、普段はあのご様子」
「ぐ……」
ぐうの音が出てしまった。
いつもなら反発するけど、目についた光景のせいで言葉が止まってしまった。
プールの隅では、別の意味で近寄りがたい空間が作られていた。
二人の生徒が、水着姿で向かい合っている。
常盤台以上に礼儀や社交を重んじる学校の生徒らしい。
片方が、もう片方の腰へ腕を回す。
もう片方も相手の背中へ手を添え、頬を寄せた。
「もう少し、肩まで密着をお願いします」
プールサイドに立つ白衣姿の生徒が言った。
白衣の下には水着を着ているけど、不似合いな測定端末を持っている。
「あの、これ以上でしょうか?」
「【
二人のお嬢様が抱擁を深くする。
頬が触れ合い、互いに恥ずかしそうに笑った。
指示した癖に、白衣の生徒は「あわわわ」と声を漏らし、両手で顔を覆う。
それでも、指の隙間はしっかり開いていた。
「自分でやれって言っておいて、顔を隠す必要はあるのかしら」
「羞恥心と研究心の妥協点ですのよ」
測定されている二人の周囲で、微かな光と風が揺れている。
研究対象になっている本人たちも、妙に楽しそうだった。
「次は水中での抱擁を試してみませんこと?」
「まあ。それは呼吸の問題がございますわ」
「では、顔だけ水上へ出して」
「それなら可能ですわね」
白衣の生徒が資料板の陰で震え始めた。
自分で指示して、自分でダメージ受けてない、あれ?
「研究校、大丈夫なの?」
「研究成果は出ておりますの」
「成果はいいけど、その分、生徒たちの情緒っていうか、精神状態の心配なんだけど……」
慣れたらどうなっちゃうんだろうと心配してたら──。
「御坂さん! 白井さん!」
佐天が水をかき分けてやってきた。
初春もその後ろを泳いでいる。
二人とも、転移前から水着を用意していた。お泊まりあと、プールに行く予定だったので、世界が変わっても水着はあった。
「見ました? 今の!」
「見たわよ。初春さんを巻き込んでたけど」
「一人だと、まだあそこまで飛べないんですよ」
佐天は巻き込んだことを悪びれずに言ってる。
そして初春の肩へ腕を回し、遠慮なく頬を寄せる。
「こうして初春とくっついてると、すっごく調子いいんです」
「さ、佐天さん。水着でそんなに擦り寄らないでください!」
「離れると落ちるかもしれないし」
「もうっ! また飛ばないでくださいよ!」
初春の顔が赤くなる。
だが、佐天の能力出力は確かに安定していた。
水面の一部だけが押し下げられ、二人の身体がわずかに浮き、細かな気流が周囲を回り、飛び散った水滴を空中で留めた。
私は目を細めた。
「前よりずっと細かく動かせるようになってる」
「分かります?」
「最初は、風を出したら自分まで振り回されてたでしょう」
「もう大丈夫です。初春と離れても少しくらいなら」
佐天は初春から片手だけ離した。
それでも水滴は落ちなかった。
【
今のように水着姿で抱きつき、身体を寄せ合っていれば、確実に
出力だけではなく、風向きの切り替えから、範囲の限定、自分と初春の身体を同時に支える演算までできるようになっている。
能力へ目覚めてから、まだ大した時間は経っていない。
それでも、佐天は急速に扱い方を覚えていた。
「佐天さん。最初から才能はあったのかもね」
「やればできるってことですか?」
「少し違うかな。最初の一回さえできれば、そこから伸びる子だったのよ」
能力を持っていなかった時から、佐天さんの観察力と行動力は高かった。
事件へ巻き込まれても、ただ守られているだけではない。
必要な情報を探し、道具を使い、人を動かすが、能力という入口だけが閉じていた。
入口が開けば、成長が速いのも不思議じゃない。
「制御をもっと詰めれば、
「本当ですか!? ねえ、初春! 聞いた?」
佐天が初春をさらに強く抱きしめた。
「ひゃー、もう話してくださいっ!」
二人の周囲で風が弾ける。
黒子が感心したように頷いた。
「初春も、随分と能力が伸びたようですの」
「え? そうなの? 初春さんも?」
「佐天さんほど派手ではないですけど」
初春は少し照れたように両手を見た。
「以前は、手で包んだ物の温度を保つくらいでした。でも今は、少しなら周りの空気も一定にできます」
「周りって、どのくらい?」
「この辺りです」
初春が手を広げる。めいいっぱいの手の伸ばし方ではないが、手を軽く回して入る範囲だと示す。
「触れていれば、人の体温も維持できますよ」
「何人くらい?」
「今なら、三人か四人は……」
私と黒子は顔を見合わせた。
「それ、すごいわよ」
「そうですか?」
「山や雪の中でも使えますけれど、それだけではございませんの。出血や重傷で体温が下がっている方を、搬送まで保温できますわ」
「それ……緊急医療でかなり強いわね」
私も頷いた。
大怪我を負った人間は、血を失うだけではない。血液は内臓と同様に体内の熱を溜め込んでおり、これが流れ出れば出るほど体温が下がる。
体温が下がれば、状態をさらに悪化させる。
初春が触れている間、その低下を防げるなら、救命率に関わる。
「複数人をまとめて維持できるなら、災害現場でも使えるわね」
「そ、そんなに役に立ちます?」
「役に立つどころじゃありませんの」
黒子は誇らしげだった。
「さすが初春ですわ!」
「白井さんに褒められると、ちょっと照れます」
「私も役に立ちますよ!」
佐天が手を挙げる。
「風で怪我人を運びます!」
「それはもっと練習してからにしなさい」
「はーい」
佐天さんの返事だけは、いつも立派だった。
そんな和やかな会話は、近くの生徒たちの雑談によって途切れた。
「あら? 気のせいかしら」
一人の生徒が、タオルで髪を拭きながら言った。
友人らしき生徒がプールからあがり尋ねる。
「何がでして?」
「お肌のお手入れに使っているセットが、あまり減っていないような気がしますの」
「それはこんな状況ですし、大切に使っているからではなくて?」
「ええ。もう同じものは手に入りませんもの。少しずつ使っているのですが……それにしても……」
近くにいた別の生徒が首を傾げる。
「わたくしも、サプリメントがまだ残っていますわ」
「あら。買い置きが多かったのでは?」
「転移した夜に、残りの日数を数えましたの。毎日飲めば、もうなくなっているはずなのですけれど」
「飲み忘れではなくて?」
「記録しておりますわ」
声は深刻ではなかった。
単なる雑談で、不思議な偶然を話しているだけ。
それでも、私の意識は一瞬でそちらへ向いた。
もう学園都市から補充できない消耗品で、代えが利かないからこそ、使用量を気にしている。
食料や医薬品のように、臨時議会がまとめて管理している物資ではない。
個人が部屋へ持ち込み、自分だけで使っているものが減っていない。
レザが気づいた備蓄だけではなかった。
異常は、学舎の園全体で起きていて、まだ誰も、それらを一つの現象として結びつけていない。
だが、時間の問題だった。
「お姉様?」
黒子が呼ぶ。
私は答えなかった。
食蜂が記憶を処理しても、数字は再び合わなくなる。
隠せる段階は、もう終わりかけているのかもしれない。
「食蜂に――」
「はいはい、お姉様」
黒子の声が、すぐ耳元から聞こえた。
「え?」
空間が歪んだ。
私が服の下へ着ていた水着だけを残し、上着と短パンが一瞬で消える。
衣服は離れた更衣区画の籠へ転送された。
「ちょっと、黒子!」
「プールではお着替えを――ぶるこしゃるまっけんろー!」
青白い電撃が、屋内プールを照らした。