ソビエト連邦では、誰も笑っていなかった。
窓の外には曇ったモスクワの空が広がり、長い机の上には、極東、華央国、日本、学舎の園に関する報告書が積み重ねられている。
日本は、学舎の園へ食料と医薬品を送り、交渉と会談はゆっくりとだが進んでいる。
アメリカは、駐日大使を通じて正式な対話を行い、ともに世界へ発信を行った。
英国は何をしているのか分からない。
華央国は、最初に接触した国家として一定の優位を得た。
そんな状況で、ソ連はまだ何も得ていない。
「今すぐ核攻撃を行い、将来の憂いを断つべきです!」
一人の将軍が、勇ましく立ち上がった。
「書記長! あれは都市ではありません。未知の軍事拠点です!」
もう一人が立ち上がり、強い見解を述べた。
核攻撃には難色を示した者たちも、この意見にはすぐに反論しなかった。
「空中へ浮遊する広大な構造体。既存の航空機を上回る個人飛行兵器。電力を無尽蔵に供給し得る発電能力。人間の精神へ干渉する能力者まで存在する! 成長を許せば、十年後には手遅れとなります!」
「すでに手遅れかもしれん……」
別の軍人が低く言った。
「ならば、なおさらだ!」
「攻撃した結果、撃墜できなかった場合は?」
将軍の口が止まった。
学舎の園が核兵器に耐えられるという証拠はないが、もしも耐えられるか迎撃ができるならば?
通常なら、そのような可能性は考慮する必要すらない。
事実、たった一機の機体が、数々のミサイルを回避し、核ミサイルをも無力化した。
通常なら中学生は戦闘機のミサイルを迎撃しない。
学舎の園を相手にした時、「通常なら」という言葉は、何の保証にもならなかった。
書記長は、しばらく報告書を見ていたが、部屋の中の高官の熱が冷めた頃、顔を上げる。
「核攻撃は認めない」
書記長は抗議しようとした将軍を片手で制した。
「軍事予算を増額する」
たった一言で、室内の空気が変わった。
「極東軍管区を強化しろ。防空、通信、電子戦、航空戦力を優先する。太平洋艦隊にも追加予算を配分する」
「それは──」
将軍の顔色が変わった。青ざめているのに熱っぽいといった様子だったのに、いまは正気を取り戻しているそれだった。
「未知の脅威が存在することは認める。だからこそ、準備のない攻撃は行わない。偵察能力を増強する。極東へ研究施設を追加し、華央国および日本方面の情報収集体制を再編する。学舎の園が移動した場合に備え、追跡手段も用意しろ」
先ほどまで核攻撃を主張していた将軍は、不満そうな顔をした。しかし、どこか芝居地味ていた。
反論しなかったので、演技であることは間違いないだろう。
「……承知しました」
要求したのは核攻撃に比べれば、軍事予算の増額と極東戦力の強化は穏当な妥協案に見える。
本来なら、財政当局や他の軍管区が強く反発する規模だった。
それでも、核戦争を避けるための代替策と言われれば、拒否しにくい。
最初に到底受け入れられない要求を突きつけ、それを退けた後、少しだけ小さな要求を出す。
後の条件まで穏当なものに見せる、古典的なやり方だった。
将軍が意識して使ったのかは分からないが、書記長は内心で喜んでいる。
極東軍管区の強化や追加投資などを、書記長はすべて以前から行いたかったからだ。
予算と政治的な理由だけが足りなかったところに、将軍は、核攻撃という巨大な要求を持ち出すことで、それらを「抑制された現実策」へ変えてくれた。
軍も核攻撃は認められなかったが、代わりに長年要求していた予算を得ることができた。
不満そうに見せながら、誰もが少しずつ望んだものを手に入れていた。
学舎の園との関係だけが、何も変わっていない。
同じことは、国内政治でも起きていた。
「未知の能力者集団に対抗するため、国家の統一が必要です」
党の会議で、その言葉が繰り返された。
反動的な言論はもちろん、西側への過度な期待を持つこともソ連では監視されている。
軍事費増大への反対や極東政策への批判などは、至極まともな言説の場合もあった。
これらは以前ならば、正面から押さえ込めば反発を招いた。
だが今は違う。
日本のテレビ映像が、断片的にソ連国内へ流れ込んでいた。
空へ浮かぶ学舎の園と呼ばれる不可思議な存在と、そこに所属する異能の集団。
物資を浮かせ、風を起こし、瞬間移動する生徒たちの中には、心を読める存在もいるという。
華央国戦闘機を振り切った兵器は現代兵器の延長かもしれないと言えばそうなのだが、、それでも最初だけあって衝撃は大きかった。
情報は不鮮明だが、だからこそ恐怖は大きくなった。
「政府は何をしているか。極東は本当に安全なのか?」
「日本とアメリカだけが、あの技術を手に入れるのではないか。ソ連は取り残されるのではないか」
国民の不安は、政府へ向かうと同時に、政府の行動を容認する理由にもなった。
以前なら不満を持った者たちも、学舎の園の映像を見ると黙のだ。
未知の相手がいる。
その未知は日本とアメリカに近づきつつある。
ならば、今は国家の行動を妨げるべきではない。
反対勢力を抑え込むという意味では、意外なほど大きな成果が出ていた。
学舎の園は、ソ連へ何もしていない。
敵対声明も出していないし、軍事行動こそ起こしていない。
それでも、その存在だけでソ連国内の政治を動かしていた。
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科学技術分野では、予想外の変化があった。
「できない理由を説明しろ」
研究者たちは、そう命じられた。
学舎の園が実現しているらしい技術。
大規模浮遊をはじめとする公開が、拒否された高効率発電。環境制御を行い、長期間の閉鎖循環は観測されたが見当もつかない。
かつてアメリカもソ連も夢見ていた超能力を実現したかのような、能力者という存在そのもの。
再現できるとは、誰も考えていない。
それでも、遠くに見える到達点を分析し、その一部だけでも近づけないかと予算が投じられた。
多くは失敗し、理論だけで終わればよい方だった。
実験設備を作り、何の成果も得られず、国家予算は目に見えて浪費された──。
だが、その中に一つだけ、妙な報告が混ざり始めた。
「これは、本当に不可能なのか?」
水処理と物質分離を研究していた技術者が言った。
以前提出された報告書と、今回の実験結果が記された書類には、従来よりも効率よく水や化学物質を分離する技術と書かれている。
学舎の園が閉鎖環境で大量の水を循環させているという推測から、無理に始められた研究だった。
当初は、予算獲得のための看板に近かったのだが、試作を重ねるうちに研究者たちの声が変わった。
なんか、できそう。
学舎の園の技術などわからない。相手が本当に同じ方式を使っているかさえ分からない。
遠くに見えた空飛ぶ都市へ手を伸ばした結果、その途中で、別の技術へ指が届きかけている。
研究予算を投げ捨てたつもりが、何かを拾った。
まだ成果とは呼べない。
それでも、完全な無駄ではない可能性が出てきた。
「学舎の園への対抗措置として、なにとぞ追加予算を」
その言葉をつければ、以前より予算が通りやすい。
国家はさらに出血し、研究は前へ進んだ。
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学舎の園が現れてから、あらゆる分野でソ連は前進していた。
その学舎の園との交渉だけを除いてだが……。
日本政府を介した接触要請には明確な返事がなく、安全確認と内部調整を理由に、先送りされている。
日本国内の親ソ連的な政治家へ働きかける案もあった。
彼らは、ソ連との関係改善を主張してきた。
西側一辺倒の外交へ疑問を呈し、ソ連にも対話の窓口を開くべきだと訴えている。
学舎の園との仲介役としては、最も期待できる人脈だった……のだが、当人たちの反応は鈍かった。
「少し待っていただきたい。現在動けば、かえって逆効果です」
「学舎の園の生徒たちは、日本政府へ一定の信頼を抱き始めています。その段階で、我々がソ連を強く推せば、国内での立場まで失いかねません」
以前なら、彼らは日ソ友好のために動いてくれた彼らだが、今は、その友好を将来まで残すために動かなかった。
このカードを切る段階ではない。
ソ連側は苛立ったが、無理に命じることもできない。
使い潰せば、最後の窓口まで失うからだ。
華央国も頼りにならなかった。
最初は、同盟国として有力な情報源になると期待されていた。
実際、華央国は御坂美琴と最初に接触し、八角龍の映像を保有している。
あげく、パイロット本人とも会談した。
ここまではまだいい。いやソ連として良くないのだが、理解できる範囲だった。
ところが、握手の後から様子がおかしくなった。
過去と同じように、外交ルートで華央国に問い合わせをしたところ、いつもはのらりくらりと交わしていたのに──。
「あまり調べすぎれば、天女に嫌われるかもしれない」
明確に情報の提供を拒否し始めた。
華央国は、学舎の園を恐れている。
軍事的にだけではない。
御坂美琴本人の信頼を損なうことを、国家的損失と考え始めていた。
華央国の情報機関が、自国の軍事映像に対してまで自制を求め始めている。
ソ連には理解できなかった。
理解できないまま、重要な情報経路が閉じていった。
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国家は確実に前進している。
軍隊は強化され、研究所には予算が入り、物によっては結果もだしている。
治安面では反対勢力は押さえ込まれた。
国民は危機を認識し、政府の行動を以前より容認している。
極東では新しい部隊編成が進み、通信施設と防空設備の増設計画が作られた。
国家は悲鳴を上げながらも、躍進していると評価してよいのだが……。
学舎の園との距離だけが、一ミリも縮まっていない!
前へ進んでいる!
出血しながら!
どこへ向かっているのか分からないまま、赤い巨体は確実に前へ前へと進んでいる。
「……そうか。ではこの方針のまま、続けたまえ」
一定の効果があったと報告が並び、書記長は疲れた様子で承認する。
書記長の疲弊は明らかで、室内にいた者たちも、似た顔をしている。
国内活動は躍進しているが、もっとも進んで欲しい事案は取り残され、徒労感が室内を支配していた。
そこで扉が勢いよく開いた!
情報機関の将校が興奮した面持ちで、封筒を手に入ってくる。
「書記長! お喜びください! 現地工作員から、緊急報告です!」
何事だと、会議室の全員が顔を上げる。
「何があった?」
情報機関の将校は一度、息を整えた。
そして、ソ連が待ち続けていた突破口を告げた。
「現地工作員が、学舎の園の生徒の血液サンプルを入手しました! すぐに回収作戦の許可を!」
これにて交渉編、終了です。
次章は、混乱編となります。