熱狂前夜の熱狂
日本中が、浮かれていた。
『いよいよ明日です! 学舎の園の少女たちが、正式に日本へ上陸します!』
朝の情報番組では、満面の笑みを浮かべた司会者が、東京湾の地図を指していた。
昼のワイドショーでは、常盤台中学の制服を模した衣装を着た女性タレントが、専門家でも何でもない芸能評論家と一緒に、能力者の生活習慣について好き勝手な想像を並べている。
夜のニュース番組では、比較的冷静な顔をした解説者が、今回の受け入れが日本の外交史上いかに重大であるかを説明していた。
その画面の隅では、関連商品の売上高と、東京方面へ向かう交通機関の混雑率が表示されていた。
外交史上の重大事件は、すでに社会現象になっていた。
掲示板の書き込みを転載していたまとめサイトには、午前七時十三分、次のような文章が投稿された。
『掲示板なんてやってられっか。時代はリアルだよ!』
書き込んだ男は、その日のうちに会社へ有給休暇を申請した。
却下され、翌日、退職届を出した。
上司は三十分かけて説得したが、男は「一生に一度あるかないかなんですよ」と譲らなかった。
その一件が社内の誰かによって漏らされると、男はネット上で英雄になった。
『人生賭けてる』
『こういうのでいいんだよ』
『常盤台は逃げないけど会社は逃げるぞ』
『退職金で何泊できる?』
『今の東京のホテル代を見てみな、飛ぶぜ』
最後の指摘によって、熱狂は一瞬だけ現実へ引き戻された。
東京の宿泊費は、すでに異常な領域へ突入していた。
見物客は国内だけではない。
外国からも、人が押し寄せていた。
従来の学舎の園が実在するなら一目見たいという観光客。少女たちへの取材を試みる海外メディア。能力開発技術の存在を疑う研究者。自国政府の説明を信用せず、自分の目で確かめようとする政治活動家。
さらには、何を目的としているのか判然としない者まで混じっていた。
ただでさえ円高と物価上昇が同時に進み、都市部の生活費は重くなっている。
そこへ外国人観光客と国内の見物客が一斉に流れ込めば、どうなるか明白である。
宿泊料金は跳ね上がっているのに、空室は消えた。
都内の宿を諦めた人々は、神奈川、千葉、埼玉へ広がり、それでも部屋を取れなかった者は、さらに遠方の都市まで検索範囲を広げた。
「一泊で、これ?」
佐天涙子は、携帯端末の画面を見ながら絶句した。
見ていた予約サイトは、特別な高級ホテルの情報ではない。駅から少し離れた、ごく普通のビジネスホテルである。
「殺人級じゃん!」
「何がですの?」
横から画面を覗き込んだ白井黒子が、眉をひそめた。
「宿泊費ですよ、宿泊費! こっちの世界の日本って物価がすごいって話でしたけど、これ、普通の人が泊まれる値段じゃないですよ!」
「それでも本人たちが勝手に来ているのでしょう」
黒子は冷たく言って……少し考えて付け加えた。
「もっとも、お姉様をご覧になりたいという気持ちについては、理解できなくもありませんが」
「そこは理解するんだ……」
初春飾利が小さく呟いた。
なにやら考え事をして、テレビを見ている御坂美琴は答えない。
部屋の壁面に設置された大型画面では、羽田空港の様子が映し出されていた。
+ + + + + + + + +
日本へ航空機が次々と到着している。
到着ロビーには外国語の案内板が増設され、臨時の警備員が配置されていた。それでも人の流れは滞り、画面の向こうでは旅行鞄を引いた客が長い列を作っている。
こちらの羽田空港には、彼女たちの知る時代に存在した第三滑走路がなく、美琴たちが知る世界より処理能力が低い。
それでも各国の航空会社は、需要の増大に合わせて臨時便を設定しようとした。政府関係者、報道関係者、一般旅行客が同じ空港へ流れ込み、空港は朝から夜まで航空機と人間で埋まった。
羽田で受け入れられない分は成田へ回されたが、その成田もまた余裕を失っている。
滑走路上では着陸を待つ航空機が順番を組み直し、ターミナルでは通訳と警備員が走り回った。荷物の受け取りに時間がかかり、入国審査の列は伸び、迎えの車両は道路を塞いだ。
成田国際空港の外では、横断幕が揺れていた。
『少女たちを国家の道具にするな』
『能力開発の軍事利用反対』
『政府による情報隠蔽を許すな』
主張自体は、特別に奇妙なものではなかった。
未知の集団を日本政府が受け入れる以上、警戒する者が出るのは当然である。彼女たちを歓迎する声が大きければ、その反対側で批判の声も強くなる。
かつて空港建設をめぐって活動していた世代は、すでに運動の中心から退いていた。
今、拡声器を握り、横断幕を掲げているのは、その子供や孫に近い世代だった。こちらのコールドキーパー世界では、世代交代に成功している。
彼らはネットで人を集め、外国語で声明を発表し、海外の団体と映像を共有した。
成田闘争の時より人数は少ないが、情報を広げる速度は比較にならなかった。
「おいおい、こんなに集める話だったか?」
空港から少し離れた場所で、初老の男が若い活動家へ尋ねた。
男は、現在の運動を指導する立場ではない。
若い頃から集会へ参加し、警察と衝突し、仲間が逮捕される姿も見てきた。今は大規模な活動から距離を置き、求められた時だけ助言をする。
その男の目にも、今日の集まりは妙だった。
「海外の支援団体が手配してくれたそうです。バスと、宿泊場所と、印刷費です。通訳も来ます」
「どこのセクトだ」
若い活動家は名称を答えたが、男は知らなかった。
活動の世界に長くいれば、名前を知らない団体が一つや二つあるのは珍しくない。新しい組織はいくらでも生まれる。
それでも、男の胸には小さな引っかかりが残った。
「誰が話を持ってきたんだ?」
「紹介です。海外メディアにもつながりがある人で、よくしてくれたんですよ」
「そうか…………。なあ、その人は、今どこにいる」
「さあ。今日は別の場所だと思います」
男は、横断幕の向こうを見た。
見慣れない顔が何人もいた。
活動家らしく熱心に声を上げる者もいる。カメラで警察の配置を撮影している者もいる。空港の出入口ではなく、警備車両の移動経路ばかり確認している者もいた。
運動が大きくなれば、関係のない者も寄ってくる。
それ自体は昔から同じだった……のだが、今回は動きが早すぎる。
金も、人も、外国語の資料も、頼んでいないところから次々に届いていた。
「なあ、俺たちは、何に使われてる?」
疑問は頭上を飛ぶジェット機の爆音によってかき消された。
+ + + + + + + + +
日本政府は、全力を挙げていた。
中心となる生徒たちを迎賓館へ招き、政府関係者との会談や公式行事を行う。
警備計画を立て、移動経路を確保し、食事を準備し、衣服や宗教や文化的禁忌の有無を確認し、通訳と医療班を待機させる。
招待客は未知の技術体系を持つ能力者であり、その中には軍事力に換算すれば国家級の存在も含まれている。
担当する役人の何人かは、すでに机で眠っていた。
別の何人かは、眠る時間を予定表から削除していた。
迎賓館という限定された場所へ、選ばれた人数を、決められた車両で運ぶ。
警備上の不確定要素は大きいが、対象を絞ることはできた。
問題は、それ以外だった。
「テレビに出たい?」
内閣官房の会議室で、担当官が聞き返した。
「正確には、出演依頼を受けたいと希望している生徒が複数名いる、です」
文部行政を担当する官僚が、資料を読み上げた。
「料理番組、歌番組、討論番組、子供向け番組。現在までに届いている正式な出演依頼は二百十三件。非公式な打診は集計不能です」
「断ってください」
「一律に断れば、政府が彼女たちの発言を統制していると受け取られます。関係省庁にも問い合わせています」
別の官僚が、さらに厚い資料を開いた。
「それから、街を見てみたいという希望が出ています」
「……何人ですか」
「現時点で、四百名を超えています」
会議室が静かになった。
なんで上陸を認めてしまったんだろうと、承認したものですら天をあおいでいた。
「四百人の能力者を、東京観光させると?」
「むろん分散させる案があります。時間を調整してもらう提案も受け入れられています」
日本政府には彼女たちを長期間閉じ込めておくこともできない。
保護を名目に行動を制限すれば、国内外から批判される。本人たちの不信を招けば、これまで積み上げた交渉まで崩れかねない。
「御坂美琴も参加を希望しています」
その名前が出た瞬間、何人かが同時に顔を上げた。
「迎賓館組ではないのですか」
「公式行事にも参加します。ただし、それ以外の時間に、外出希望者の護衛を兼ねて同行したいと」
「信頼されていない……わけではないと思いたいな」
警護計画を担当する官僚は、御坂美琴の資料に目を落とす。
高出力の電撃を操り、戦闘能力については、すでに日本政府も映像と報告書によって十分すぎるほど理解している。
「常盤台中学側が強く要求しています。一般生徒を政府側の警備要員だけへ預けることはできない、と」
「やはろ我々が信用されていないというのか?」
「信用とは別の問題だそうです。能力者に対応できるのは能力者だけであり、御坂美琴が同行するのが最も合理的だと」
資料を読んでいた官僚はふと思いつく。
「そうか。我々が何をしようと、自らの手を見て、なにも起きないと思っていない。そういうわけだな」
+ + + + + + + + +
「それで、私が行くことになったわけね」
美琴は、政府から送られてきた暫定行程表を見下ろした。
記載されている予定は、十分単位で区切られ、単なる街歩きとは到底呼べない工程表だった。
「お姉様は、不満でいらっしゃいますの?」
「不満っていうか……」
美琴は行程表から顔を上げた。
「これ、街を見に行くっていうより、街に見られに行く予定じゃないの?」
「現状では仕方ありませんわね」
黒子は当然のように答えた。
「お姉様が外出なされば、人が集まる。それは自然現象ですわ。ふふーん」
「あんたがドヤるな。まったく、どんな自然現象よ」
笑い声の向こうでは、テレビ中継が続いていた。
東京湾沿岸では、すでに多くの者が場所取りを始めている。
折り畳み椅子へ座る者。望遠鏡を準備する者。携帯端末の充電器を何個も並べる者。常盤台の校章を自作した旗を掲げる者。
中には、歩道脇へテントを張っている者までいた。
「これ、今日の映像よね。上陸は明日なのに?」
美琴が尋ね、初春が反応して端末から顔を上げる。
「そうみたいです。前日から待っている人が、かなりいるそうです」
「……この人たち、仕事は?」
「辞めた人もいるらしいですよ」
「私たちのせいじゃないわよね、それ……」
画面の中で、海風に髪を乱された女性リポーターが、興奮した声を上げていた。
背後では、ファンと取材陣が入り乱れている。
カメラへ手を振る者と、横断幕を広げる者、その後ろにはどこから持ち込んだのか、鍋で湯を沸かしている者もいた。
海沿いの夜は冷えるのに、それでも帰ろうとする者はほとんどいない。
『ご覧ください! 上陸予定地点周辺には、すでにこれだけの人々が集まっています!』
リポーターは、暗くなり始めた東京湾を背にして叫んだ。
『国内だけではありません。海外から訪れたファンや報道関係者の姿も見られます。警察は、これ以上路上へテントを設置しないよう呼びかけています!』
カメラが海岸線を映した。
どこまでも人と照明が続き、遠くでは船の灯が揺れている。
誰もが海の向こうを見て、まだ姿の見えない少女たちを待っていた。
女性リポーターは、両手でマイクを握り締めた。
『そして、いよいよ明日――』
周囲の人々が歓声を上げた。
『少女たちが、日本へ上陸します!』