上陸当日の朝、学舎の園では、出発する生徒たちの最終確認が続いていた。
教師たちは名簿を読み上げ、班ごとの連絡手段を確かめ、現地での集合場所と緊急時の退避手順を繰り返し説明していた。
食蜂操祈は、日本政府と報道機関から送られてきた資料へ目を通しながら、出演者や随行者の精神状態を確認している。
無論、能力は使っていない。
使わなくても、人の顔色と声の調子を見れば、緊張しているか、浮かれているか、何かを隠しているかくらいは分かる。
「絶対に勝手な行動はしないこと。何かあったら教師か責任者へ連絡。聞かれて困ることには答えない。答えてよいか分からないことにも答えない。よろしいですね?」
教師の念押しに、生徒たちが返事をする。
返事だけは立派だった。
食蜂はそれを聞きながら、教師の手元にある予定表を一枚めくった。
「予定どおり進むと思っている人ぉ?」
誰も手を挙げなかった。
「優秀ねぇ」
それだけ言うと、食蜂はテレビ局へ向かう生徒たちの方を見た。
今回、最初に生放送へ出演するのは、御坂美琴でも食蜂操祈でもなかった。
婚后光子と、湾内絹保、泡浮万彬。
常盤台中学の中では、それなりに知られた三人組である。
日本政府から見ても、テレビ局から見ても、学舎の園側絡みても、極めて無難な人選だった。
能力の説明もしやすく、戦闘映像の印象も比較的穏当で、政治的な発言を積極的に行う立場でもない。
何より、三人とも常盤台中学の生徒として恥ずかしくない礼儀作法を身につけている。
『本日は、学舎の園から三名の生徒さんをお招きしています』
司会者は、普段よりも明らかに慎重な声で言った。
生放送では、余計な失言はできない。
相手は中学生だが、国家間交渉の対象でもある。能力の存在ひとつを取っても、質問の仕方を間違えれば軍事技術の詮索と受け取られかねない。
事前に用意された質問は、日本での第一印象、食文化、学校生活、服装、趣味といった無難なものばかりだった。
能力に関する質問も、具体的な出力や原理、能力開発には触れない。
政治について聞かない。元の世界との比較を迫らない。
ソ連、アメリカ、軍事、核兵器といった単語は、台本から完全に排除されていた。
三人は、柔らかな照明の下に並んで座っていた。
湾内は落ち着いた笑顔を浮かべ、泡浮も少し緊張している様子はあったが、受け答えは丁寧だった。
中央に座った婚后光子は、背筋を伸ばし、扇子を膝の上へ置いていた。
『まず、本日は日本へ来られて、どのように感じられましたか?』
「そうですわね」
婚后は優雅に微笑んだ。
「皆様が、わたくしたちの到着を心よりお待ちくださっていたことには、大変感激いたしましたわ」
『港にも大勢の方が集まっていましたね』
「ええ。あれほど熱烈に歓迎されるとは、さすがのわたくしも予想しておりませんでした」
そこまではよかった。
「とはいえ、わたくしが到着した以上、多少の騒ぎとなることは避けられなかったのでしょうけれど」
司会者の笑顔が一瞬だけ止まった。
湾内が静かに視線を下げた。
泡浮は微笑んだまま、婚后の袖をわずかに引いた。
「婚后さん」
「何ですの?」
「皆様は、学舎の園全体を歓迎してくださったのだと思います」
「もちろん承知しておりますわ」
婚后は胸を張った。
「ですが、その中心に誰がいたかという点について、謙遜しすぎることも不誠実ではなくて?」
司会者は訂正するべきか、笑いとして処理するべきか迷った。
その時、スタジオの隅にいた番組責任者が、小さく手を回し、続けろ、という合図を送っている。
『婚后さんは、とても自信を持っていらっしゃるんですね』
「当然ですわ」
『昔から、そのような性格だったのでしょうか?』
「性格ではございません。事実に基づいた自己評価ですの」
婚后の影響で、画面の向こうでは、視聴率が上がり始めていた。
御坂美琴のような分かりやすい強さではない。
食蜂操祈のような、見ただけで目を奪う危うさとも違う。
婚后光子には、なんとも別の華があった。
真剣に話しているのに、少しずつずれている。
本人だけは完璧なお嬢様として振る舞っているが、周囲の二人が絶妙な間で修正を入れる。
しかも、嫌味になりきらない。
どうやら本気で悪意がないと、画面の向こうにいる視聴者に伝わり始めていた。
番組の進行役たちは、慎重に用意していた台本から、少しずつ離れ始めた。
『日本で、行ってみたい場所はありますか?』
「日本庭園などには興味がありますわ。それから、こちらの航空機も一度、間近で拝見したいですわね」
『航空機がお好きなんですか?』
「空を扱う者として、当然の教養ですわ」
『婚后さんは、空を飛べるのでしょうか?』
「厳密には異なりますけれど、必要とあれば、わたくしの力で人や物体を空へ送り出すことは可能ですわ」
『どのくらいの物まで?』
質問した直後、司会者は表情を固くした。
能力出力に関する質問へ踏み込みかけ、スタッフたちも緊張した。
婚后は少し間を取るように、扇子を開いた。
「放送に適した範囲で申し上げるなら、皆様のご想像よりは大きなものですわ」
直接は答えなかったが、その言い方だけでテレビとしては十分だった。
『なるほど。秘密ということですね』
「秘密というより、礼節ですわね。聞かれたからといって、何でも答える者は、お嬢様とは申せませんもの」
テレビ局側は、その瞬間に理解した。
華がある!
それでいて、危険な情報をうっかり漏らすほど不用心ではない。
御坂美琴ほど扱いが難しくなく、食蜂操祈ほど司会者が緊張する必要もない。
そして、横には婚后を自然に修正してくれる二人がいる。
番組の残り時間で、質問の半分以上が婚后へ集中した。
湾内と泡浮も、それを不快には思わなかった。
婚后が話し始めれば、何かが起きる。
それを止めるのが自分たちの役割だということを、二人はよく知っていた。
『最後に、日本の視聴者の皆さんへ一言お願いします』
婚后はカメラを正面から見た。
「わたくしたちは、こちらの世界について、まだ多くを存じません。ですから、皆様から学ばせていただきたいと思っております。同時に、わたくしたちがお伝えできることも、きっとあるでしょう」
それまでとは少し違う、静かな声だった。
湾内と泡浮が婚后を見る。
「互いに節度と敬意を持ち、よい関係を築けましたら幸いですわ」
完璧だった。
司会者も安堵した。
『ありがとうございました』
そこで終われば、申し分なかった。
「もっとも、わたくしほどの者とお近づきになれる機会は、そう多くございませんけれど」
スタジオに笑いが起きた。
放送終了後、番組責任者は、すでに次回出演の可能性について計算を始めていた。
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研究傾向の生徒が関連施設へ行く中、最も警戒されていたのは、散策組だった。
決められた施設ではなく、実際の街へ出る。
一般人と同じ場所を歩く。
その中心に御坂美琴がいる。
日本政府は、美琴が何かを起こすとは考えていない。
だが何かが起きた時、美琴が対処する。
それが最も効果的であり、同時に、最も不安でもあった。
電撃使いが東京の街中で対処しなければならない事件など、最初から起きない方がよい。
政府と警察は、美琴の行動予定へ重点的に人員を配置した。
美琴を撮影しようとする報道陣はまだいい。聞き分けは悪いが、上を聞き分けさせる手があった。
問題は接触を試みたり、興奮した野次馬たち。
能力を試してほしいと要求する者は、気軽な態度でしつこい。
それらが接近しないよう、移動経路を慎重に管理していた。
その結果、別の散策班に混ざっていた弓箭猟虎は、ほとんど注目されていなかった。
事前資料上、特筆すべき能力なし。
政府側の分類では、一般的な女子生徒とほぼ同じ警備優先度だった。
もしかしたら、能力が重要であっても、彼女は注目されなかっただろう。そんな気配のする気配のない女の子だ。
そして猟虎は、その評価に不満を持っていなかった。
むしろ好都合だった。
「まあ。こちらの街並みも、なかなか趣がございますのね」
猟虎は、柔らかな笑みを浮かべた。
散策班の少女たちが、うなずきながら周囲を見回す。
学友である班員のほとんどは、猟虎と深い関わりを持っていない。
同じ学舎の園にいて、みな同じ転移へ巻き込まれた。
今はなんの因果か、同じ班で歩いている関係はにすぎない。
「弓箭さん、あのお店、見てみませんか?」
「ええ。もちろんですわ」
猟虎は優雅に答えた。
胸の内では、乾いた涙を流していた。
お店を見てみませんか。
それは予定表に書かれた班行動の一環として、近くの店へ行こうという提案にすぎなかった。
だが、猟虎にとっては貴重な会話だった。
返事を間違えたことはないが、距離を縮められたことはない。だからといって、距離を詰めすぎてもいけない。
親しげにしすぎれば引かれることは知っている。
「こちらでは、どのような品が流行しているのでしょう。興味深いですわね」
か、完璧だ。
今のは完璧だった。
猟虎は心の中で、自画自賛した。
転移以前、彼女は暗部にいた。
しかし、今回の異変に巻き込まれた暗部関係者は、猟虎一人だけだった。
依頼者がいないどころか、指示を出す者はいない。
装備の補給もなく、任務もない。
連絡先もない……これは元々、必要最低限でほとんどまっさらだったが。
危険な環境から切り離されたことは、本来なら喜ぶべきことなのかもしれない。
だが猟虎にとって、それは居場所を失ったということでもあった。
暗部の人間からさえ切り離されたから、自由になったのではない。
猟虎はより純粋な孤独になった。
表情を崩さず、少女たちの少し後ろを歩いた。
転移後、身体能力や感覚にわずかな変化はあった。
だが、能力と呼べるほどではなかった。
手を伸ばしても、炎は出ないし、電気も流れない。
しかし、猟虎には技術があった。
見つけて、追って、逃がさない。
これにかけては、猟虎の右に出るものはいない。
それは能力開発とは無関係に、猟虎が身につけた才能だった。
店の窓ガラスへ、通りの様子が映っている。
猟虎は商品を見るふりをして、反射像へ目を向けた。
黒い上着の男。
司会の端には紙袋を持った女。
少し離れた場所で新聞を広げている男いる。
外見も服装も違うし、互いに会話もしていない。
だが、班が立ち止まるたびに、三人も速度を落としている。
しかも、別方向にいる二人が、散策班の前方を確認していた。
合計五人。視界に入らない位置も考えれば、さらにいる可能性もある。
護衛の警察官は気づいていない。
誰かが狙われている。
猟虎は、同行する少女たちを見た。
誰一人、尾行に気づいておらず、無防備に店頭の商品を見ている。
警備員も周囲の一般人ばかり警戒していた。
猟虎の背筋を、冷たいものが走った。
これは危険だ──
すぐに知らせるべきだ──
警察へ伝え、班を退避させ、相手の目的を確認する必要がある。
そう判断した猟虎の胸の奥で、別の何かが起き上がった。
華麗に尾行者の行動を阻害し、誰にも怪我をさせず、散策班の少女たちを守ったならば?
怯える学舎の園のお嬢様たちに手を差し出し微笑んで──
『この程度、造作もございませんわ』
などと言ったなら、きっと少女たちは驚くだろう。
そして、感激するだろう。
『弓箭さん、助けてくださってありがとうございます』
『すごいです。どうして気づいたんですか?』
『あの、これからも一緒にいてもらえませんか?』
ありえる!
『弓箭さん。わたしたちと、お友達になりませんか?』
可能性がある!
これだ、この線だ!
猟虎の心の中で、存在しない少女たちが次々に彼女の手を取った。
『ぜひ、弓箭さんともっとお話ししたいです』
『今度は班行動ではなく、一緒にお買い物へ行きましょう』
『お昼も一緒に食べませんか?』
極めて自然な展開だ、間違いない!
命を救われた相手と友情を育む。
古来より繰り返されてきた、人間関係の王道だ。
そして友情が深まれば、いずれ能力開発の話にもなる。
『弓箭さんは、フェザータッチを受けたことがないんですか?』
『それなら、一緒に受けてみましょうよ』
『怖くありません。わたしたちがついています』
「ふ、ふへ、へへへ……」
猟虎の頬が、わずかに緩んだ。
初めてのフェザータッチ。
友人たちに手を握られながら、励まされ、もしかすると、そこで能力が目覚めてしまうかもしれない。
皆が泣いて喜び、記念写真を撮ると猟虎を中心へ導くだろう。
──と、ここで前を歩いていた少女が振り返った。
「弓箭さん、どうされましたか?」
「いえ、何でもございませんわ」
猟虎は即座に、お嬢様の笑顔へ戻った。
猟虎は静かに息を整えた。
彼女の心の中では、すでに盛大な歓迎会が始まっていた。
ここで華麗に皆様を助けましたら、お友達になりませんか、と言われてしまったり!
そして、ついにフェザータッチ初体験なんて、してしまったり!
弓箭猟虎は、今度こそ本当に笑った。
乾ききっていたはずの目が、獲物を見つけたように輝いていた。
「どぅ、へっへっへっへっ〜〜」
それは学舎の園のお嬢様の微笑みにも、残虐な狩人の不敵な笑みには見えなかった。
ぼっちを拗らせ、妄想する笑みだった。