◇
「乗ります!」
御坂美琴は迷わず、桟橋へ横づけされたモーターボートへ飛び乗った。遅れて、日本側の警護官も乗り込んでくる。
「御坂さん、お待ちください!」
警護官が振り返り、陸側の担当者へ何事か指示を飛ばす。
操縦席では、サングラスの男が愉快そうに笑っていた。
「いいね、話が早い子、好きだよぉ〜」
「好きとか言わないで。早く出して!」
「はいはい。お客様二名、ご案内」
男がスロットルを押し込むと、船体が大きく震え、水面を蹴った。
急加速に、美琴はとっさに手すりをつかんだ。
「ちょっと! あぶな……」
「海ではしっかりつかまって。これは人生の教訓ね」
「そういうのいいから!」
モーターボートは波の尾を引き、東京湾へ滑り出していく。
前方では、観光船を装った船が速度を上げていた。
外観だけを見れば、何の変哲もない小型の遊覧船だ。
美琴の感覚には、船内の配置がほとんど手に取るように分かっていた。
船内の奥に置かれた小さな容器の内容物が、美琴に触れていると感触を伝え続ける。
あれを持ち去らせるわけにはいかない。
「御坂さん」
日本側の警護官が、揺れる船内で姿勢を保ちながら言った。
「対象船への接近後も、なるべく御坂さんご自身は行動をなさらず──」
「美琴ちゃんだっけ?」
操縦席の男が、警護官の言葉をきれいに遮った。
「何よ、CIA」
「十年後にさ。こうして船の隣の席、予約していい?」
美琴は眉をひそめた。
「十年って、この船、そんなに長く使うつもりなの?」
軽妙だった男が、ぽかんと一瞬だけ黙り、次いで笑い声を上げる。
「いいねぇ。君、そのままでいて」
「何がよ!」
「御坂さん」
警護官がもう一度、会話を戻そうとする。
「対象船の乗員が武装している可能性があります。ですから、なるべ──」
「将来、美人になるよ。美琴ちゃん」
「今は違うって言いたいの?」
「そういう返しも好き」
「だから好きとか言うな!」
警護官のこめかみに、うっすら青筋が浮かんだ。
「あなたは操船に集中してください!」
「了解、お客様のご要望通りにしてますって」
徹頭徹尾、男の口調は軽いが、船の進路には一切の無駄がなかった。
「てか、あんた。名前は?」
「ヴィンセント・ヴィカーズ。親しい人はヴィンスって呼ぶ」
「ヴィンセントでヴィンスでヴィカーズ? ヴィばっかりじゃない、ヴィヴィヴィのおっさん!」
「おっさんて……三十よぉ、ぼく〜」
「十分おっさんでしょ!」
などと無駄話をしている間に、観光船はこちらを認識したのか急に進路を変えた。
デッキにいる釣り竿を持っていた男がそれを放り捨てる。
海を眺めていた男も立ち上がり、操舵室の人影が片手を腰へ伸ばす。
次の瞬間、乗員たちは一斉に銃器を取り出し、これを見た警護官が美琴の前へ出ようとする。
「伏せてください!」
「大丈夫、他に人はいないから。あいつら、全員、仲間よ!」
美琴の電磁的な走査は、すでに船内を隅々まで捉えている。
一般の乗客も、拘束された人間もいない。
乗っている者は全員が武装し、偽装していた工作員だ。
男の一人がモーターボートへ銃口を向けたが、引き金を引くより早く、船上の全ての銃が奇妙な音を立てた。
金属部品が内部で噛み合い、動かなくなる。
別の男が無理に操作しようとした途端、その手から銃が跳ね上がった。
「撃たせると思う?」
美琴の前髪から、青白い火花が散る。
「もっと寄せて! ヴィヴィヴィのおっさん!」
「はいよ……おっさんじゃないよぉ」
ヴィンスがモーターボートを観光船へ並べた。
血相を変えた警護官が、美琴の腕をつかもうとする。
「御坂さん、待ってください!」
「待ってたら逃げるでしょ!」
美琴が手すりへ片足をかけた。
船と船の間に波が立つ……次の瞬間、美琴の身体は観光船の甲板へ飛び移っていた。
その思いっきりの良さに、ヴィンスが口笛を吹いた。
「ひゅー。ぼくより早いねぇ」
「感心している場合ですか!」
ヴィンスの軽口に、警護官の怒声が飛ぶ。
観光船では工作員の一人が飛びかかろうとしていたが、美琴はそちらを見もしない。
床に落ちていた銃が磁力で浮かび上がり、男の足元へ滑り込む。
男は踏みつけて体勢を崩した。
別の男が背後から腕を伸ばす。
美琴の髪が軽く電気で浮く。
直後、男の腕時計とベルトの金具が、甲板の手すりへ強く引かれた。
身体ごと引っ張られ、その場へ縫いつけられる。
操舵室から出てきた男が、予備の拳銃を構えた。
その拳銃も、引き金が動く前に内部から鈍い音を立てる。
「くそっ! ジャムったか!」
「壊してないわよ。動かなくしただけ」
何度もスライドを動かそうとする男に対する、美琴なりの手加減だった。
本気で電撃を放てば、船内の電子機器も乗員も無事では済まない。
それでも、工作員たちには何が起きているのか理解できなかった。
銃が使えないと悟った男がナイフを抜く。
それを見て美琴はため息をついた。
「まだやるの?」
言い切らないうちに、青白い閃光が走った。
殺傷には程遠い短く調整された電撃により、男の全身から力が抜け、甲板へ崩れ落ちる。
それを合図にしたように、残る者たちも次々と制圧された。
一発の銃声も鳴らず、数分もかからず、観光船の乗員は全員、甲板か船室の床へ転がっていた。
「よし、終わったわよ! ヴィヴィヴィのおっさん」
美琴が隣のモーターボートへ声をかける。
ヴィンスは操縦席から、倒れた男たちを眺めていた。
「これは……美琴ちゃん、やりすぎじゃない?」
「甘いわ。これでも手加減したのよ!」
「それでこれぁ?」
ヴィンスは肩をすくめた。
「美琴ちゃん。将来、浮気した旦那さんに同じことしちゃ駄目よ。電撃とか浴びせたら、不能になっちゃうから」
美琴は意味がわからず顔をしかめた。
「フノウ?」
盛大に咳き込んだ警護官を、ヴィンスが睨む。
負けじと警護官も、凄まじい目で睨み返している。
「あんたの軽口には付き合えないわ。目的のもの、回収するからね!」
美琴は船内へ入り、奥に置かれていた保冷容器を見つけた。
直接開けることはせず、容器ごと慎重に持ち上げる。
触れているような、まるで静電気のような……不思議な感覚はまだ残っていた。
それは単なる血液ではない。
自分たちと同じ何かを、確かに含んでいる。
美琴がケースを携えて甲板へ戻ると、遠方から別の船影が近づいていた。
美琴は保冷容器を足元へ置き、海上の船を睨んだ。
再び電磁波を広げる。
美琴が走査へ集中している横で、ヴィンスが観光船に乗り込んできた。
そして倒れた工作員の銃を足先で遠ざけ、船内を一瞥しつつ、美琴へ何かを差し出した。
「はい、美琴ちゃん、これ」
美琴は近づく船から目を離さず、反射的に受け取った。
「なにこれ」
「ぼくの連絡先」
「なんつーもん渡してくんのよ!」
美琴がようやく手元を見ると、それはヴィンセント・ヴィカーズの名前と、いくつかの連絡先が書かれた名刺だった。
所属を直接示す文字はないが、裏には手書きで短い番号が加えられていた。
「困った時に電話して。恋の相談以外なら、だいたい何とかするから」
「恋の相談なんかするか!」
「じゃあ仕事の相談でもどう?」
「そもそも、あんたに連絡する理由がないでしょ!」
美琴は名刺を突き返そうとした。
しかし、相手から正式に差し出された名刺である。
破るのも違うし、海へ捨てるなど論外だ。
床へ放り出すのも、どうにも育ちが許さない。
結局、美琴は不満そうな顔のまま、名刺を制服のポケットへしまった。
ヴィンスがわずかに笑う。
「何よ! 文句あんの?」
「いや、別に」
その時、近づいていた船から拡声器の声が響いた。
『こちら海上保安庁です! 船上の方、状況を知らせてください!』
美琴はもう一度、船内を走査した。
通信も正規のもので、少なくとも、先ほどの工作員たちとは違う。
「味方みたいね」
日本側の警護官が大きく息を吐いた。
「ようやく来ましたか……」
海上保安庁の巡視艇は、急な連絡を受けて現場へ派遣されたらしい。
乗員たちは状況を完全には把握していない様子だ。
観光船上に倒れている複数の外国人と動作不能となった銃器に、極め付けにCIAを自称する外国人。
そして、中身の分からない保冷容器──。
説明を受ける海上保安官の表情は、話が進むほど険しくなっていった。
「つまり、この容器を持った船を追跡し……」
「私が止めました」
「こちらの男性は」
「CIAよ、ぼく」
ヴィンスが答え、警護官が眉を顰める。
最終的に、美琴と日本側警護官は、保冷容器を持って巡視艇へ移ることになった。
工作員たちの身柄と観光船は海上保安庁が確保する。
ヴィンスは借りて来た元のモーターボートへ戻り、美琴は巡視艇の上から振り返えり声をかける。
「ヴィヴィヴィのおっさん。あんたはこっち乗らないの?」
ヴィンスはモーターボートの操縦席へ座り、後方を親指で示した。
遠くから、本来の持ち主らしい男の船が近づいている。
「持ち主に船を返さないとねぇ……」
「そう、じゃあ、また……」
美琴は一度、またと挨拶して視線を外したが、慌ててヴィンスを指さす。
「会うつもりはないからね!」
「電話待ってるよぉ」
「するか!」
巡視艇が動き出した。
美琴はまだ何か言いたそうにしていたが、やがて距離が開き、声はエンジン音に消えた。
ヴィンスは片手を上げ、美琴と保冷容器を載せた船を見送った。
騒がしかった海上に、短い静寂が戻る。
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「ヴィヴィヴィねぇ……」
ヴィンスは、三つの音を懐かしむように口の中で転がした。
サングラスの奥で、目を細める。
「そう呼ばれるのも、二十年ぶりだね」
それから何事もなかったようにエンジンをかけ、借りた船を返すため、来た航路を引き返した。