モスクワへ届いた連絡は、わずか一行、「対象は無事、港へ到着した」だった。
それは海に面した場所を意味しない。
ソビエト連邦の管理下へ対象が入り、国外の追跡から切り離されたことを示す符牒だった。
今回の港が軍港だったのか、はたまた軍用飛行場だったのか、それとも国境を越える列車の操車場だったのか。
あるいは、そのいずれでもなかったのか。
現在、荷物は西シベリア内陸部の研究施設へ移送されている。
「東京湾で失った方は?」
薄暗いクレムリンの執務室で、書記長が尋ね、側近は臆することなく答えた。
「CIAが追跡手段を提供し、御坂美琴本人が船を制圧したとのことです」
「失敗か」
「いいえ。我々は必要なものを確保しました」
机上には、日本から送られてきた報告書が置かれていた。
お台場から出港した艤装観光船で、銃器を一発も撃てないまま制圧された工作員たち。
そして、保冷容器を抱えて立つ御坂美琴の望遠写真も添えられている。
写真の中の少女は、自分の身体から分かたれたものを取り返してどこか誇らしげだった。
もう一つが、すでに日本から消えているとも知らずに──。
「アメリカは、自分たちが阻止したと思っているのか」
「その可能性が高いかと。日本は内部調査に入っています。しかし、現時点では、回収した容器に意識を集中させていますので、発覚はまだ先になると思われます。」
側近たちの空気が緩み、あからさまに笑みを浮かべる者もいた。
「これで、勝利へ一歩近づきましたな! 同志諸君」
「一歩どころではありません!」
「能力の原理を解析できれば、軍事、工業、医療、全ての分野で西側を上回れます!」
「御坂美琴と同等の力を再現できれば、核兵器すら過去のものになるはずだ!」
「我々は、人類史上最大の発見を手に入れたのです!」
誰もが興奮を隠しきれなかった。
アメリカが奪還成功に沸いている間にも、ソビエト連邦は本命を運び続けて勝利を確信している。
西側が勝利を宣言する裏側で、東側もまた勝利していた。
書記長は椅子へ深く腰かけた。
「本当に、我々が手に入れたと言えるのか」
祖国の躍進を妄想して、盛り上がっている側近たちの声が止まった。
「同志諸君。あれは血液なのだろう?」
「そのとおりです。血液なら、保管できる。分析できる。増やすこともできる」
書記長は写真へ目を落とした。
紫電をまとった少女が、船上に立っている。どこからみてもただの少女だが、いまだ原理のわからない能力を振るっている。
「だが、あの少女たちは、我々が知る人間と同じものなのか?」
「ご安心ください、書記長。必ずやわが国が誇る科学者たちが、彼女たちの能力を明らかにします」
「そう願おうか……」
書記長は満足そうな笑みを浮かべ、背もたれに寄りかかって軋ませた。
しかし、その指は机上で落ち着きなく動いていた。
「施設へ命じろ。あらゆる手段を使って守れ」
「すでに最高警戒態勢へ移行しています。駐留部隊だけでなく、精鋭も展開。格迎撃も可能となっております」
「アメリカや他の国、人間、自然の脅威から守るだけでは足りん」
他になにがあるのだろうか……? 側近は書記長の言ったことが、理解できなかった。
わかるように書記長は、具体的に語った。
「奪った血液、それ自体からも守れ」
+ + + + + + + + +
西シベリア内陸部。
東経六十五度、北緯五十七度線に近い、地図へ記されていない施設。
地上には、降りしきって積もる雪とそれに耐える森林しかない。
地下へ続く搬入口が開き、無標識の軍用車両がゆっくりと中へ入った。
車体から降ろされた保冷容器を見て、技術員が声を上げる。
「待て。外装に損傷がある」
一斉に作業員たちの動きが止まった。
自分たちが扱っている物が、どれほど重要か知っている緊張感を持つ表情だ。
「どこだ?」
「右側面だ。亀裂が入っている」
白い容器の表面に、髪の毛ほどの細い線が走っていた。
衝撃によるものなのか、温度差によるものなのか、あるいは、内部から加わった力なのか。
現状では、ここにいる誰にも判断できない。
「気密は現在は維持されています」
「現在は、では困るな。すぐ別の箱へ入れ、容器ごと気密しろ」
より大きな金属製ケースが運び込まれ、保冷容器をその中央へ固定し、周囲を密閉する。
作業員の一人が、透明な点検窓を覗き込んだ。
「……光っていないか?」
「何が? 誰か見ているのか?」
雪で真っ白染まる周囲になにかいるのかと、警戒する技術者と護衛の兵士たち。
「違う、そうじゃない、サンプルだ」
容器の亀裂の奥から、微かな光が漏れている。
心臓の拍動にも似た、弱い明滅だ。
「輸送中の温度変化は?」
「規定範囲内です。放射線量、電磁波も変化検出できません」
「では、何の光だ」
誰も答えられないまま、容器は地下のさらに深い区画へ運び込まれた。
通路の隔壁が次々と開き、サンプルを運ぶ一団が通過すれば閉じられ、電磁遮蔽は完全に遮断されていく。
クリーン化と気密構造は特に念入りだ。
外部通信から切り離された独立電源のすべてが起動し始め、施設全体が眠りから覚めて小さく振動しているかのような錯覚を施設員たちは覚えた。
核攻撃後にも研究を継続するために設計された閉鎖区画、その中央へ、金属製ケースが置かれる。
「全員、退避」
施設長の命令で、研究員たちが観察室へ移る。
「遮断開始、第一隔壁、閉鎖」
重い複合素材の扉が閉じた。
「第二隔壁、閉鎖」
空気を押し出す音とともに、さらに奥の扉が閉まる。
外界との接続が、一つずつ消えていった。
ありとあらゆる干渉を受けない閉鎖空間が、ロシアの地下に誕生した。
遠く離れた場所でタイニーが送り続けていた、存在を確かめるための微かな信号。
細い糸のように、辛うじて届いていた確認の波。
その最後の一つさえ、隔壁の内側へは届かなくなった。
容器の光が止まった。
「消えた?」
観察室の研究員が呟く。
「出力を上げろ。全センサーを――」
言葉が終わるより早く、金属製ケースが大きく歪んだ。
爆発のように外へ膨らむのではなく、悲鳴を上げる女性が小さく身を守るように内側へ向かって潰れていく。
「圧力低下!」
「違う、ケース自体が縮んでいる!」
金属が悲鳴を上げ、巨大な力で握り潰されたように、ケースが小さくなる。
だが、破片は飛び散らない。
圧縮された金属は拳ほどの大きさになり、さらに親指ほどまで縮み――消えた。
床へ固定していたボルトも、内部の保冷容器も、血液を収めていた試験管も、最初から存在しなかったかのように消失していた。
代わりに、空中へ赤い光が浮かんだ。
「隔壁内へ入るな!」
「計測を続けろ!」
「質量は!」
「増加しています!」
「どこからだ!」
答えは、すぐに目の前へ現れた。
隔壁内に設置された観測装置の表面が剥がれ始める。
金属板の一部はスプーンで掬うように剥がれ、壁面の樹脂は引っ張り出される。
床のコンクリートは配線ごと引き剥がされ、机は残っているのに固定具だけ不自然に剥ぎ取られた、
形を保ったまま薄く削り取られ、赤い光へ吸い寄せられていく。
削られた跡には破断面すらなく、そこだけ現実から切り抜かれたような滑らかな空白が残った。
「収束場を展開しろ!」
「反応しません!」
「冷却!」
「温度の問題ではありません! いえ、ガスの噴出エネルギーと反応が吸収されています!」
「隔壁を開けろ!」
「駄目です! 外へ広がります!」
一人の研究員が観察室から逃げ出した。
別の者は、計器へかじりついたまま数値を読み上げ続け、警備員は銃を構えたが、何を撃てばよいのか分からない。
その中で、施設長だけが動かなかった。
アレクサンドル・ヤロフ。
白髪まじりの科学者は、観察窓へ両手をつき、赤い光を見つめていた。
その目は恐怖ではなく、歓喜に輝いている。
「素晴らしい」
「所長、下がってください!」
「見ろ」
ヤロフは笑った。
「物質を集めているのではない。存在そのものを組み直している」
「何を言っているんです!」
「神が誕生しようとしているのだ……」
光が一際大きく膨らみ、観察窓が白く染まり、計器が一斉に振り切れた。
次の瞬間、全ての光が収束した。
隔壁で閉ざされた部屋の中央、削り取られた床の上に、一人の女が立っていた。
長い髪と均整の取れた肢体、まだ幼さが残る顔。
何も身につけていないにもかかわらず、その少女は恥じらう様子はない。
挑発的な目つきで周囲を見回し、ひどく不機嫌そうに眉を寄せている。
「ここは?」
女は自分の声を確かめるように呟いた。
「ここは……どこだい」
観察室には、誰も答えようとする者がいなかった。
ヤロフ所長だけが、震える手で隔壁内への通話装置を作動させる。
『ここは、ソビエト連邦の名前もない研究施設だ』
「所長!」
副主任が止めようとした。
「機密を話してはいけません!」
「黙れ!」
ヤロフは観察窓から目を離さなかった。
「相手は神だ! いや、天使かもしれん。それでも、人間ではない!」
女の口元が歪んだ。
「わたしを人間じゃない扱いするたぁ、いい根性だねぇ……」
彼女は近くに残っていた機器へ歩み寄った。
半分ほど表面を削られたバイタル測定装置に指先が触れる。
遅れて壊れている機器の画面に、一瞬だけノイズが走った。
空間が揺らぎ……測定装置が煙でも吐き出すように一人の男が現れた。
痩せた中年男性で病衣を着ており、胸には電極の跡が残っている。
以前、その装置へ繋がれていた患者の姿だった。
数年前に死亡した施設職員であり、研究員の何人かは彼を覚えていた。
記録の中にしか残っていないはずの男が、困惑した表情で立っている。
「ここは……」
男は周囲を見回した。
「第六施設か。私は、なぜ……、ここに? 私の病気は、治ったのか?」
「へえ。喋れるようになってるとは私の能力も伸びたのかねぇ……。おい!」
女が男へ声をかけた。
「今はいつだい」
「二〇二〇年……十一月です」
所長は違うと思った。彼の死んだ年と月である。だが、余計に素晴らしいとヤロフは感じだ。
──あれは死者の復活だ!
故人である職員の死亡時の記憶に基づく発言から、復活の証拠であると推測した。
死者の復活だとヤロフ所長は、震えながら歓喜し、親指・人差し指・中指の3本先を合わせ、額、右肩、左肩の順にロシア正教式の十字を切る。
「で、国は? どこの国家だよ」
男は奇妙な質問に戸惑いながら答えた。
「ソビエト社会主義共和国連邦」
女は数秒、黙った。
やがて腹を抱えるように笑い出す。
「ははっ、ソビエト連邦。ソ連か! 二〇二〇年に赤い国がピンピンしてるってっ?」
楽しそうに、だが馬鹿にするように笑っている。
「今は二〇二〇年だってのに、まだあんのかい? はは! 共産主義はいつから冷凍食品になったんだい? ええ! 私の知ってるソ連ってのは、それはそれは愉快なぶっ壊れかたしたってのさ!」
女は観察窓を見上げ、裸の彼女を驚愕の顔で見下ろしている職員たちに侮蔑の言葉を投げた。
観察室では、ヤロフが興奮のあまり震えていた。怒りではない。
信仰の芽生えだった。
死んだ職員は、女の問いに答えた後もその場に立ち続けている。それどころか知り合いの職員を見つけて、挨拶するように手を挙げていた。
挨拶された職員は悲鳴をあげている。ムリもない。
少女の隣に立つ彼は、幻影でも映像でもない。
計器は、そこに人体が存在すると記録していた。
「死者を蘇らせた……すばらしい!」
ヤロフは通話装置へ身を乗り出した。
「私はこの施設の責任者。ヤロフだ。聞きたい! 君は記憶を保ったまま、会話までできるというのか!」
「死者だって?」
女は、再現された男を横目で見る。
「ああ、死んでたのかい。こいつ。てことは死んだ日を覚えてたら、今は二千二十年じゃないってことかい?」
まるで道端の石について尋ねるような口調だった。
「素晴らしい! 再現か? 死者復活ではなく、存在の再現なのか! 君は天使だ。人類を導く天使だ!」
「天使ねぇ」
女は自分の手を眺めた。
指を握り、開く。
生まれ直した身体の感触を確かめる。
「学園都市じゃ、そういう研究もあったそうだが……」
長い髪をかき上げ、観察窓の向こうを睨んだ。
「あたしは
彼女の示した名を聞き、ヤロフは陶酔したまま問いかける。
「沙さん。あなたは何を望まれるのですか?」
「服」
即答だった。
ヤロフが目を瞬く。言われてみれば確かにそうだという声が、怯えていた職員からも上がった。
「あー…………それと、情報だ」
沙は頭をかきながら、削り取られた部屋を見回した。
「この国に何がある」
「望むものは、可能な限り用意しよう」
「ふ〜ん……この国の軍隊は?」
「むろん世界最大だ」
「ほう。いいね。じゃあ兵器は? 旧式じゃぁいらないよ」
「最新だ。世界の半分に供給する側にいる。核兵器を含め、あらゆるものがある」
核と聞いて、沙は笑った。
「裸のあたしにゃ、寒くてちょうどいい国じゃないか。ソ連」
再現された死者が、彼女の隣で立ち尽くしている。
隔壁の向こうでは、科学者たちが恐怖と歓喜に分かれていた。
逃げようとする者もいたが、ヤロフ所長と同じように祈るように沙を見つめる者もいた。
沙は下にいるというのに、それらを見下すように顎を上げた。
挑発的な笑みが、さらに深くなる。
「さて、あんたらは、常盤台を真正面からぶっ潰すには、どれくらい役に立ってくれんだい!」
彼女は学舎の園にある常盤台を憎んでいると思われる発言をした。
その言葉が、名もない研究施設の最深部へ響き渡った。
ソビエト連邦は、勝利を手に入れた。
少なくとも、その時は、誰もがそう信じていた。