「御坂さぁ〜〜んん」
甘ったるく、間延びしていて、いかにも人をからかう時の食蜂操祈らしい声。しかし今回は、語尾の奥に、笑って済ませるつもりのない気配が滲んでいた。
御坂美琴は、床に正座させられている。
その正面では、食蜂操祈が応接ソファへ優雅に腰かけている。
二人の間にあるローテーブルの上には、ようやく外務省を経由して返却された、お台場限定水兵仕様ゲコ太ぬいぐるみが鎮座していた。
黄色い浮き輪に、小さな水兵帽。少し日焼けしたような色合い。
長い旅を終え、愛する持ち主のもとへ帰還したゲコ太は、しかし現在、食蜂の膝の上で保護されていた。
「返して」
「もちろん返すわよぉ」
「じゃあ今返して!」
「御坂さんが、自分のしたことをちゃんと理解したらねぇ」
美琴が手を伸ばすと、食蜂は無言でゲコ太を持ち上げ、届かない場所へ移した。
「人のものを勝手に取るな!」
「勝手に外国の情報機関へ連絡した人が、何か言ってるわねぇ」
「落とし物の確認をしただけでしょうが!」
食蜂は膝の上に置かれていた書類を一枚持ち上げた。
「ヴィンセント・ヴィカーズ氏から、日本国外務省を経由し、学舎の園へ返却された物品」
わざと一文字ずつ確認するように読み上げる。
「お台場限定水兵仕様ゲコ太ぬいぐるみ、一点。所有者、御坂美琴。発見場所、東京湾上で使用された民間船舶の操縦席下部。発見者、ヴィンセント・ヴィカーズ。返却に至った経緯――所有者本人より、発見者の私的連絡先へ照会があったため」
美琴は読み上げが終わるまで、気まずそーに右を見て食蜂をみようとしない。
書類から顔を上げ、食蜂は足を組み替えてから美琴に声をかける。
「御坂さぁ〜〜〜ん?」
「……何よ」
「CIAを名乗る男から渡された個人的な番号へ、自分から電話をかけたのよねぇ?」
「だから、落とし物を──」
「その通話をきっかけに、アメリカ側の関係機関から日本の外務省へ正式な返却依頼が出されたのよねぇ?」
「だって、あいつが直接持ってくるより安全でしょうが!」
楯突く美琴だがその勢いは弱い。
反して食蜂は余裕があり、怒りまで含んでいて、後ろめたい美琴は目を逸らすほどだった。
「さっき私、読み上げたあれぇ……。全部、日米双方の公式記録に残りましたぁ。おめでとう。二国間の行政文書に、御坂美琴とヴィンセント・ヴィカーズの名前が仲良く並んでるわよぉ」
「じゃあ、どうすればよかったのよ!」
「直接返してもらった方が、記録には残らなかったわぁ」
美琴は口を開くだけ開いたが、反論の言葉が出てこない。いったん閉じた口を、もう一度開く。
「……あいつに直接会うよりはましでしょ」
「そうやって個人的な接触を避けた結果、政府間の公式連絡経路を使ったのよぉ」
「だって、外務省を通すって言い出したのはあいつよ!」
「分かってて提案したに決まってるでしょうがぁ!」
食蜂が珍しく声を荒らげ、なんとあの美琴の肩がわずかに縮む。
「御坂さん。本当に、少しも疑わなかったのぉ?」
「安全な方法だって言われたから……」
「記録を残すという意味では、これ以上なく安全ねぇ。消そうとしても消えないものぉ。真面目な話をすると、みんなにキャーキャー言われながらも、面と向かって御坂さんが受け取ったほうが良かったのよ」
食蜂はゲコ太を抱き直した。その扱いだけは、腹立たしいほど丁寧だった。
美琴の視線が、ゲコ太の動きを追う。
「……もう分かったから返して」
「反省したぁ?」
「した。しました!」
「本当にぃ?」
「したって言ってるでしょ!」
反抗的な反省に、食蜂は目を細めて追求を続ける。
「では、具体的に何が悪かったのかしらぁ」
「CIAを名乗る怪しいおっさんに電話したこと」
「それは別にいいの」
「じゃあ、そいつの提案を疑わずに外務省を使ったこと……」
「半分ねぇ」
「政府の記録に名前とやり取りが残ったこと」
「う〜ん、もう少し」
「ゲコ太を落としたこと」
「そこじゃないわよぉ」
「じゃあ分かんないわよ!」
ついに実力行使に走った。
美琴が立ち上がって手を伸ばし、食蜂はソファの背へ身体を反らせ、ゲコ太をさらに遠ざける。
「返しなさい!」
「まだ反省力が足りないわねぇ!
美琴がさらに身を乗り出すと、食蜂はゲコ太を抱えたままソファから逃れ、すぐ脇のベッドへ転がり込んだ。
「きゃあ、御坂さんが襲われるぅっ!」
「誤解を招く言い方すんな!」
美琴もベッドへ膝を乗せた。ゲコ太の腕をつかむと、食蜂は胴体を抱えて離さない。
「ストラップが切れるでしょっ!」
「御坂さんが引っ張ってるからでしょう?」
「あんたが放せば済む話よ!」
二人の間で、ゲコ太が左右へ引かれる。
美琴は電撃を使えなかった。ゲコ太を巻き込むわけにはいかないし、今回の件について負い目があるのも事実だ。
力ずくで食蜂を突き飛ばすのも、何となく気が引ける。
食蜂は、そのことを完全に理解していた。
「反撃してこない御坂さんって、新鮮ねぇ」
食蜂が片手をゲコ太から離した。
降参するのかと思った美琴の脇腹へ、指が伸びてその身体が跳ねさせた。
「ちょ、何すんのよ! ――やっ、やめっ!」
食蜂の指が、美琴の脇腹から腰のあたりを細かくくすぐる。
美琴はゲコ太を離すまいと片手を伸ばしたまま、身体をよじった。
「食蜂! あんた卑怯よ! あはっ、ちょ、そこっ!」
逃げようとする美琴の腕へ、食蜂が身体を絡める。ベッドの上で二人の位置が入れ替わった。
美琴が食蜂を押し倒したような形になったかと思えば、次の瞬間には食蜂が上から覆いかぶさる。
ゲコ太だけが、二人の間で大切に保護されていた。
「ほらぁ。反撃しないのぉ?」
「負い目につけ込むなんて、性格悪すぎるでしょ!」
「そこまで分かっていて、どうして私の前で無防備になるのかしらぁ」
「ゲコ太返せ!」
「言い方がお願いする態度じゃないわねぇ」
「返してください!」
「心がこもってなぁい」
「返してください食蜂様!」
「もう一声」
「調子に乗んな!」
美琴が食蜂の手首をつかんだ。
今度こそ形勢を逆転させ、そのままベッドへ押さえつける。食蜂はゲコ太を胸元へ抱えたまま、美琴を見上げた。
「やっぱり激しいわねぇ、御坂さん」
「全部あんたが始めたんでしょうが!」
美琴は荒い息を整えた。食蜂も頬を赤らめている。
しばらく睨み合った後、食蜂は小さく息を吐いた。
「……まあ、いいわぁ」
「何が」
「許してあげる」
「最初からあんたに許される筋合いないんだけど」
「ゲコ太、いらないのぉ?」
「……許していただき、ありがとうございます」
美琴はついに陥落した。
ゲコ太はそれほど美琴にとってかけがえのないものである……のだが、ヴィンスへの対応を反省している様子はなかった。
食蜂はこの態度を見て、勝ち誇った笑みを浮かべゲコ太を差し出した。
美琴が受け取ろうとするが、食蜂は直前で手を止めた。
「ただし、条件があるわぁ。簡単なお仕事よぉ」
+ + + + + + + + +
食蜂から渡されたのは、一台のノートパソコンだった。
日本政府から学舎の園へ貸与されたものだという。学園都市の端末と比べれば、処理速度も記憶容量も見劣りする。何より、まともな支援AIが搭載されていない。
「御坂さんには、住民台帳の照合をしてもらうわ」
食蜂は薄い記録媒体を指先で挟んだ。
「この世界は、私たちがいた世界とは少し違う。けれど、日本の地形も、歴史も、かなり似ている。なら、こっちにもいるかもしれないでしょう? ────私たち自身が」
食蜂の声から、からかう響きが消えて、美琴は黙った。
真剣な眼差しを真正面から見ている美琴を見下ろし、食蜂は改め記憶媒体を手渡す。
「あるいは、家族や親戚。家業。関係していた企業。知り合いなんても」
日本政府は、すでに調査を始めていた。
学舎の園にいる生徒、教員、職員たちの氏名。出身地。生年月日。家族構成。家業や関係企業。
それらと似た情報を持つ人物や組織を、全国の住民記録や法人記録から抽出していた。
同姓同名。似た家族構成。同じ地域に存在する同系統の企業。完全な一致ではなくても、何らかの係累を思わせる候補の膨大な一覧が、記録媒体へ収められている。
「候補は政府側である程度絞ってあるわぁ。個人が四千七百二十二件。法人が六百八十一件」
「ちょ、簡単な仕事じゃないでしょうが!」
「こういうの、得意でしょう?」
「学園都市ならね!」
学園都市なら照合用のAIへ条件を入力すれば、すぐに終わるだろう。
複数のデータベースを横断し、関連性を瞬時に算出し、もののコンマ数秒。人間が目で確認する必要すらない。
しかし、この世界にはそれらがなかった。
貸与されたノートパソコンに入っている照合支援機能は、表記の似た名前を並べる程度だった。
「こんなの、ほとんど手作業じゃない! 能力つかっても、シーケンスに手当たり次第よ」
「だから御坂さんにお願いしてるのよぉ。さっき、ゲコ太を取り返すためなら何でもするって顔をしてたわよねぇ」
「言ってない!」
食蜂はゲコ太を抱き上げ、その小さな手を振らせた。
「ミコトチャン、オシゴトガンバッテ」
「ゲコ太にそんなこと言わせるな! ……わかったわよ、やるわよ!」
────美琴が涙声でそう言ってから、作業には、三日かかった。
三日後。
名前が同じだけの人物。年齢が合わない人物。出身地が違う人物。家族構成の一部だけが似ている人物。
一見すると関係がありそうで、記録を遡るとまるで接点がない家系もあり、美琴は、それらを一件ずつ確認し終えた。
御坂美琴と同姓同名の少女はいなかった。
御坂という姓を持つ家庭はいくつもあったが、出身地も、家族構成も、経歴も違う。
黒子に対応する人物もいない。
食蜂も、帆風も、常盤台中学の生徒たちもいなかった。
婚后光子の家族が経営していた航空会社に相当する企業も、この世界には存在しなかった。
似た名称の会社はあった。だが、資本関係も、創業者も、業務内容も別物だ。そして常盤台に通うお嬢様たちの家族企業。財閥。研究機関。医療法人。文化財団どれもない。
名前が似ている。業種が似ている。それだけだった。
係累と呼べるつながりは、一つも見つからなかった。
美琴は最後の候補へ「関連性なし」と入力した。
画面上の一覧から未確認を示す表示が消え、残ったのは、「照合完了」という素っ気ない文字だけだった。
「……ゼロ、か」
終わってみるとなんて徒労で、なんという絶望かと美琴は椅子の背へ身体を預けた。
窓の外では、いつもと変わらず少女たちが行き交っている。笑い声が聞こえる。誰かが誰かを呼ぶ声。手をつなぎ、肩を寄せ、今ここにいる相手を確かめ合っている。
この世界に、自分たちの家族はいない。
帰れば受け入れてくれるはずの場所すら、最初から存在しない。
美琴は画面を見つめた。
「ちょっと待って。これ……私が調べたから、私が報告を上げないといけないの?」
美琴の独り言に、誰も答えない。
この結果を生徒たちへどう伝えるのか。
似た家族がいるかもしれないと、わずかに期待していた者もいる。この世界にも自分の家があるのではないか。両親に似た誰かがいるのではないか。
そう考えた少女へ、何もなかったと告げなければならないのかと、美琴は机へ額をつけた。
「重いっての……」
その時、扉が開いて黒子が入ってきた。手には飲み物の入ったコップを載せた盆を盛っている。
「お姉様。まだ作業中でいらっしゃいましたの?」
「今終わった」
「まあ。お疲れさまでした。差し入れですの」
黒子は美琴の横へカップを置いた。
「ありがと」
美琴は顔を上げると、ほとんど中身を確認せずカップを手に取った。
温かい飲み物を一口飲む。
それは暖かく、甘く、疲れた頭に、ちょうどよかった。
「おいしい」
「それは何よりですの」
美琴はもう一口飲んで、それを黒子は黙って見ている。
飲み終えても、黒子はまだ美琴を見ていた。
「何?」
「いえ」
「何よ。その顔」
「お姉様に、何かご不調はないかと思いまして」
「別に。疲れただけ。いえ、この飲み物で楽になったわね」
黒子の笑みが、わずかに固くなった。
「むしろ、元気すぎるということはございません?」
「何よ、元気すぎるって」
「その……通常なら、もう少し何らかの変化があってもよろしい頃合いかと」
美琴は黒子を見て、次に、空になったカップを見る。
そして、再び黒子へ視線を戻した。
「……まさか」
「な、何のことでしょう〜」
「あんた、何か入れた? ……盛ったの!?」
「人聞きが悪いですの! 少しお休みいただこうと思いまして!」
美琴が立ち上がると、黒子は一歩下がった。
美琴が指を鳴らし、青白い火花が散った。
「お待ちくださいまし。電撃は薬の安全性検証には含まれておりませんの……」
美琴が黒子へ飛びかかった。
「きゃあああっ!」
椅子が倒れ、黒子が机の脇へ逃れようとする。
美琴はその腰を捕まえ、床へ引き戻した。
「お姉様、そこは! そこは駄目ですの!」
「人に薬盛っといて注文つけるな!」
扉の外では、廊下を通りかかった二人の生徒が足を止めていた。
「お姉様、もう少し優しく!」
「反省しなさい!」
「そこをそんなに強くしては!」
「まだ終わってない!」
廊下を通りかかった一人の少女が頬を赤らめた。
「すごい……」
隣の少女も、ごくりと息を呑む。
「激しいですわねぇ……」
二人は顔を見合わせると、何も聞かなかったことにして、そっとその場を離れた。
+ + + + + + + + +
後日、再び、聞き慣れた声を美琴は耳にした。
「御坂さぁ〜〜〜ん」
美琴は嫌そうな顔で振り返る。
「今度は何よ」
食蜂は一枚の報告書を手にしていた。
「薬物を、本人が薬物として認識していない場合、身体へ薬効が反映されない可能性がある。情報生命体としての身体構造を解明するうえで、とぉっても重要な新情報よねぇ」
「そうかもね」
「どうして正式な報告が上がってないのかしらぁ」
「黒子へのお仕置きで忙しかったのよ」
「三日経ってるわよぉ」
「忘れてた」
「忘れる内容じゃないでしょうがぁ」
「でも、効かなかったんだから問題ないでしょ」
「効かなかったことが問題なのよぉ!」
食蜂は美琴の目の前へ報告書を突きつけた。
「あなたねぇ。CIAへの私的連絡は、わざわざ外務省を巻き込んで公式記録に残すくせにぃ」
「その話はもう終わったでしょ!」
「自分たちの身体に薬が効かないかもしれないって情報は、誰にも言わずに放置するのぉ?」
「今から報告するわよ!」
「今すぐよぉ」
「分かったってば!」
「経緯も全部書きなさぁい」
美琴の手が止まる。
「全部? それって……」
「黒子さんが何をして、どうやって発覚したかもぉ」
「そこは省略していいでしょ!」
「再現性が必要だものぉ」
「あんた、絶対面白がってるでしょ!」
食蜂は、にっこりと笑って意地悪に言う。
「御坂さんと黒子さんが、ずいぶん激しかったって証言もあるしぃ」
「な、なんの話よ! 誰が言ったのよ!」
「見てる人は見てるのよぉ」
羞恥の絶叫が、学舎の園へ響き渡った。