ワンナイトアーミー
メルセヴォー共和国軍の八輪装甲車は、もはや戦闘車両というより、辛うじて走行能力を残しているだけの有様だった。
左前方の装甲板には巨大な岩でもぶつかったような凹みがあり、砲塔は旋回途中で停止したまま動かず、通信アンテナも半分ほど失われている。
それでも車両は赤土の道を進み続け、焼けついた西アフリカの夜気の中を、生き残った兵士たちと負傷者を載せて合流地点へ向かっていた。
車内には血と薬品の臭いが満ち、重傷者の一部は座席や床へ直接横たえられていた。
肩から脇腹へ深い裂傷を負った者もいれば、脚を噛み砕かれた者もおり、防弾繊維ごと腹部を抉られている兵士もいる。その傷のどれを見ても、銃弾や砲弾によるものとは考えられなかった。
「あれは……サーベルタイガーだった」
床に横たわっていた兵士が浅い呼吸を繰り返しながら呟いたが、誰も「そんなはずはない」と否定しなかった。
「絶滅したはずだ。何万年も前に……そうだ。博物館で、骨を見たことがある」
彼の胸には巨大な爪で刻まれた傷が残り、少し離れた担架の上では、牙が脚を貫通した兵士が意識を失いかけている。途中で回収を断念した仲間の死体には、喉を食い破られた者も、頭部を失った者もいた。正体が何であるにせよ、彼らを襲ったものが実体を持つ大型肉食獣だったことだけは疑いようがなかった。
「もう少しだ。あと2キロほどでブラボーと合流する」
車長が車内へ声を張った。アルファチームと同じ装備、同じ訓練、ほぼ同じ戦力を持つブラボーチームは、旧鉱山施設を利用した合流地点で待機しているはずだった。短距離通信を使ってこちらの損害はすでに伝えてあり、負傷者の受け入れと車両の応急修理、さらに航空支援を要請するための通信準備まで済ませているという返答も受け取っている。
「道が狭くなります。速度を落とします」
「落としすぎるな。まだ追跡されている可能性がある」
操縦手の報告に車長が答えたが、「何に追われているのか」と尋ねる者はいなかった。最後に確認したサーベルタイガーは対物火器を何発も受けて倒れていたが、あれが一頭だけだった保証はどこにもなく、そもそも絶滅したはずの動物がなぜ現れたのかという根本的な疑問にも、誰一人として答えを持っていなかった。
その時、操縦手が前方に二つの人影を発見した。
「前方に二名。装備は……こちらと同じに見えます」
「ブラボーの斥候か? 連絡は受けていないぞ」
車長がペリスコープへ顔を寄せると、暗視映像の中に二人の兵士が映った。ヘルメット、暗視装置、防弾装備、迷彩服のいずれもメルセヴォー共和国軍の制式品に見えたが、二人とも道路の中央へ無防備に立っており、周囲を警戒している様子がない。
戦死者から装備だけを剥ぎ取った敵兵の可能性を疑った車長は、通信手へ符牒を送るよう指示した。
こちらから送った短い光信号へ、二人は正確な応答を返した。
さらに今夜の作戦中にしか使用されていない確認符号まで続けてきたため、車内の兵士たちに緊張とは違うざわめきが広がった。
「モローとラフォンだ」
一人の兵士が暗視映像を凝視しながら言った。
「右はジャン・モローだ。あの右肩を少し落として傾いて歩く癖まで同じだ。隣はクロード・ラフォンで間違いない」
「二人とも、襲撃の時に隊列から逸れたはずだぞ」
「無線が壊れただけかもしれん。追われて別の道へ逃げたんだろう」
近づくにつれて照明の中へ二人の顔が浮かび上がり、その疑念も薄れていった。泥と血で汚れてはいるものの、顔も体格も見慣れた仲間そのものだった。モローらしき兵士は負傷しているように身体を傾け、ラフォンがそれを支えていた。
「回収する。警戒だけは解くな」
車長の命令で装甲車が速度を落とし、後部ハッチが開き始めた。
「モロー! ラフォン! 乗れ!」
扉を操作した兵士が身を乗り出して叫んだ直後、道路上の二人が同時に銃を上げた。
「閉めろぉっ!」
警戒を解いていなかった兵士だけが、その動きへ反応できた。
発砲音が重なり、後部ハッチを開けていた兵士の胸へ弾丸が叩き込まれる。
身体が車内へ倒れ込む一方で、警戒役の兵士は床へ伏せながら反撃し、まずモローを撃ち倒すと、続けて銃を向けようとしたラフォンの喉へ弾丸を命中させた。
「ハッチを閉めろ! ここを離れる!」
装甲車は半開きの後部扉を揺らしながら急発進し、仲間の死体を車内へ引きずり込んだ後でようやく重い扉を閉じた。
衛生兵は撃たれた兵士を確認したものの、治療に取りかかることもなく首を振った。
「……即死です」
「くそっ! なんてこった! …………なんだ、何だったんだ、あいつらは」
「敵が顔だけ似せたのか? 暗いから、見間違えた?」
「違う。あれは確かに本人だった」
不測の事態にも関わらず撃ち返した兵士は、自分の腕へ飛び散った仲間の血を拭おうともせず、閉ざされた後部ハッチを睨んでいた。
「顔だけじゃない。構え方も、歩き方も同じだった。ジャン・モローとクロード・ラフォンだ。俺はあいつらと三年一緒にいた。見間違えるものか…………。じゃあ……、なんで撃った?」
なぜ撃ったのか?
それは撃った自分のことか、撃ってきたモローとラファンのことなのか、それとも両方か?
モローには妻と幼い娘がおり、ラフォンは帰国後に軍を辞めて兄の農場を手伝うと話していた。ほんの数時間前まで同じ車内で笑っていた二人が突然敵へ寝返ったと考えるには、あまりにも理由がなさすぎた。
答えの出ないまま走り続けていると、装甲車が突然急停止した。損傷した車輪が赤土を削り、車内にいた全員の身体が前方へ投げ出される。
「何をしている!」
「前に……います」
「何がいる!」
操縦手はしばらく答えられず、やがて掠れた声で映画の題名を呟いた。
「ジュ……ジュラシック・パーク」
車長がペリスコープへ飛びつくと、赤土の道路を巨大な生物がこちらへ向かって疾走している様子が映った。
最初は揺れる樹木の影に見えたが、それが人間の胴体より太い後肢だと分かり、続いて長大な尾と巨大な頭部、不釣り合いに小さな前肢が視界へ入る。口が開くと、鋸のように並んだ歯が月明かりを反射した。
「嘘だろ……」
ティラノサウルスが真正面から装甲車を追っていた。
「後退しろ!」
「ギア……ギアが入りません! 弾かれる! 回転がおちない!」
「最新型がっ! 転回しろ!」
「無理です! 狭すぎます!」
「撃て! 動く武器は全部使え!」
損傷した砲塔は鈍い音を立てただけで旋回せず、生き残った兵士たちは側面の射撃口へ殺到した。
銃弾が巨大な頭部や胸へ何発も突き刺さったが、ティラノサウルスは速度を落とさず、夜気を震わせる咆哮とともに装甲車へ追いついた。
巨大な顎が車体上部へ食らいつき、装甲板が軋んだ。続いて頭を激しく振られると、八輪装甲車は玩具のように傾き、そのまま道路脇へ横転した。
+ + + + + + + + +
その戦闘を、離れた高台から観察している一団がいた。
黒い戦闘服に身を包んだ兵士たちは国籍を示す標章を外していたが、全員がソビエト連邦軍の特殊任務部隊に所属している。
彼らの任務は戦闘への介入ではなく、状況を監視して記録を残し、モスクワへ報告することだった。
その中央に、一人だけ明らかに場違いな人物が立っていた。
武器も防護装備も持たず、周囲の兵士たちよりはるかに華奢な少女にしか見えないにもかかわらず、特殊部隊員たちは彼女を守るためではなく、近づきすぎないために一定の距離を保っているようだった。
「信じられん……」
一人の兵士がロシア語で呟いた。
「絶滅した動物を現実に出現させたのか」
「研究記録によれば、作り出したのではなく再現したらしい……が、よくわからん」
士官が双眼鏡を覗きながら答える。眼下では横転した装甲車へティラノサウルスが襲いかかり、内部から脱出しようとする兵士たちを追っていた。
「Армия одной ночи……アールミヤ・アドノイ・ノーチか」
別の兵士が、研究班から聞かされた仮称を口にした。
それは「一夜の軍勢」という意味で、沙が戦場で見せる現象を表すために付けられた名称の一つである。
「敵兵を蘇らせ、その敵へ送り返すとはな」
「蘇生ではないらしいぞ」
「本人と同じ顔を持ち、同じ記憶を持ち、本人の声で仲間へ符牒を返すものを、蘇生ではないと言い張るのか」
「死体そのものが動き出したわけではないという意味だ」
「死体が別にあろうと、俺には同じことにしか見えん」
彼らの声には畏敬よりも嫌悪が滲んでいた。自軍のために利用できる力だからといって、その力を好ましく思えるとは限らない。
沙は不意に振り返った。
「なぁんだい? なにをこそこそ喋ってんだい」
彼女は日本語で言っただけだったが、兵士たちは反射的に口を閉じた。沙がどこまでロシア語を理解しているのか、彼らにはまだ分からないからだ。
「よーし。リハビリにしちゃ想定以上だ。むしろ能力が伸びてるねぇ。まだまだいけそうな気がすんな」
沙は腕を大きく伸ばし、満足そうに笑うと、高台の縁へ足をかけた。
「待て、そこは崖だ!」
制止する士官を無視して飛び降りた沙は、ほとんど垂直に近い斜面へ片足をつき、岩を蹴って数メートル下へ降りると、次の突起へ着地した。その後も時には手を使い、時には斜面を滑りながら、通常の人間では転落死しかねない崖を驚くほど軽快に下っていく。
「あれも能力なのか」
「身体能力の測定値そのものが、人間の範囲を超えているそうだ」
一人の兵士が沙の背中を見送りながら、その言葉を嫌そうに反復した。
「人間の範囲、か。あれを人間と呼んでいいものなのかね」
+ + + + + + + + +
沙が横転した装甲車のそばへ到着した頃には、抵抗はほとんど終わっていた。
ティラノサウルスが最後の兵士を地面へ投げ捨てると、沙は巨大な脚へ手を触れた。
「もういいよ。よくやった」
その言葉を合図にしたように、ティラノサウルスの輪郭が薄れ始めた。巨体はバラバラに、淡い光へ変わり、肉体を構成していたものが霧のように夜の中へ溶けるように消えていく。
数秒後、そこに残っていたのは横転した装甲車と、赤土の上へ倒れた兵士たちだけだった。
沙は鼻歌でも歌いそうな調子で死体の間を歩き、比較的装備の原形が残っている三人へ目を留めた。
高台から追いついてきたソ連兵たちへ手招きすると、彼女は楽しげに笑った。
「おい。あんたらに面白ぇもん、見せてやるよ」
「何をするつもりだ」
「見てりゃ分かる」
沙が倒れた兵士の銃へ触れると、その金属表面に淡い光が走った。銃だけではなく、防弾装備やヘルメット、通信機、装具までが徐々に輪郭を失い、細かな断片へ分解されたように空中の一点へ集まり始める。
集まった光は、やがて人間の形へ変わった。
脚が生まれ、胴体が形作られ、腕と頭部が続く。数秒後には、先ほどまで死体として横たわっていた兵士とまったく同じ顔を持つ男が、負傷する前の身体と完全な装備を備えて沙の前へ立っていた。
「状況を報告しろ」
沙が命じると、再現された兵士は迷うことなく答えた。
「アルファチームはブラボーチームとの合流地点へ移動中。現在の生存者は──」
「もういい。そこまで分かってりゃ十分だ。会話ができるようになったはいいが、まどろっこしいねぇ」
沙は次の死体へ触れ、さらに一人、その次にも一人を再現した。三人のメルセヴォー兵が整列すると、観察していたソ連兵の一人が低い声を漏らした。
「き、記憶まで残っているのか」
「さっきの二人の装備は、最初の襲撃地点付近で回収されている。本人の記憶を利用し、正しい符牒まで答えさせたわけか」
沙は三人を見比べたものの、すぐに不満そうな表情になった。
「……ちょっと足りねぇな。しょうがねぇ、増やすか」
「増やす?」
沙は説明する代わりに、一人目へ装備を外すよう命じた。銃、拳銃、ヘルメット、防弾装備、通信機、各種装具を分けて三つの山へ置かせると、それぞれへ手を触れて再び光を生じさせる。
完全な装備一式とは呼べない程度しか材料はないにもかかわらず、光は不足を補うように広がり、最初の兵士とまったく同じ顔を持つ人間が二人追加された。
三人が並んだ。
身長も顔も声も同じであり、沙が識別番号を尋ねると、三人全員がまったく同じ番号を答えた。
「……おう、いいねぇ。まさかできるとは、あたしも驚きだよ」
沙は満足そうに笑った。
残る二人の装備も同じように分割して再現を行うと、最終的には九人の兵士が彼女の前へ整列した。三人ずつが同じ顔を持ち、同じ記憶と声を共有しているため、離れて見れば同じ人間が三組ずつ複製されているとしか思えない光景だった。
「これで合流地点まで行け。怪我した仲間を助けに戻ったでも、化け物から逃げてきたでも、好きに言えばいい」
沙は九人へ順番に視線を送った。
「向こうが信用して中へ入れたら、そのままいい感じのところで裏切って、ブラボーチームを全滅させるんだ」
九人は同じように敬礼し、命令を了承した。
沙は続いて横転した装甲車へ近づき、ティラノサウルスの牙で大きく歪んだ装甲板を靴先で軽く蹴った。車体は無惨な状態だったが、駆動系まで完全に破壊されたわけではない。
「このいかした装甲車は鹵獲してもいいなぁ〜〜。ちょいと直せば動くだろ。パーティーへ行く馬車になる」
死体の転がる夜道で、沙は心底楽しそうに笑っていた。
ソ連兵たちは命令どおり彼女の能力を観測し、記録を続けていたが、その視線には敬意よりも強い嫌悪があった。沙が作り出した兵士たちは、先ほどまで自分たち自身が使用していた装備を拾い集め、横転した装甲車の復旧へ取りかかっている。
同じ顔を持つ三人が互いの作業を助け、死んだ人間の記憶を持つ九人が次の敵を騙す準備を進めている光景は、優れた兵器を見た時の感嘆とはまるで異なる感情を彼らへ抱かせた。
「Ангел смерти」
一人の兵士が、沙へ聞こえないほど小さな声で呟いた。
アンゲル・スメルチ。ロシア語で「死の天使」という意味だった。
「死んだ相手を生き返らせて、もう一度戦わせる。しかも今度は、昨日までの仲間を殺すためにな」
隣にいた兵士も沙を見つめたまま答えた。
「天使と呼ぶには、あまりにも趣味が悪い」
九人の再現兵が一斉に顔を上げたため、三種類しかない顔が同時にこちらを向いた。
兵士はその光景を見て、眉間へ深い皺を寄せた。
「アズライールだ」
沙はその評価を知らないまま、死者たちに囲まれて楽しそうに笑っていた。