ワシントンD.C.には、世界中から膨大な情報が集まってくる。
単体で見れば奇妙でも、戦略的な意味を持つとは限らない。現地部隊の誤認、通信機器の故障、翻訳上の問題、疲労や恐慌による錯乱。戦場から送られてくる情報には、そのすべてが混ざっている。
「メルセヴォー共和国軍の通信について、追加分析が出ました」
窓のない会議室で、分析官が薄い資料を配っていた。それを受け取った男は表紙を一瞥し、そのまま卓上へ置く。
「例の騒動か」
「はい。現地の特殊部隊が、複数回にわたって大型肉食動物を目撃したと報告しています。使用された単語には多少の揺れがありますが、一部では明確にティラノサウルスと──」
国防情報を担当する高官が、最後まで聞かずに言った。
「通信記録上では、死んだ母親が呼んでいるだの、悪魔が木の上にいるだのという報告も珍しくない。薬物の可能性もあるだろう」
「否定できません。極度の疲労、暗視装置による距離感の誤認、現地で使用された何らかの化学物質も考えられます」
「まあ、そのあたりだろうな。大型動物を見間違えたか、そんなもんだ」
高官は資料を閉じ、分析官は次の頁へ移る。
「ただし、別の問題があります。部隊はその直後、味方から攻撃を受けていると報告しています」
その言葉には、何人かがわずかに反応した。
「偽旗か? ソ連の?」
「いえ。通信では、相手を自部隊の兵士として識別しています。呼びかけに応答し、味方の識別符号も使用していたようです」
「さきほどの報告からして、現場が混乱していたか?」
「可能性はあります。しかし現地音声では、兵士たちは明確に同士討ちと認識しています」
卓の端に座っていた軍人が鼻を鳴らし、椅子の背もたれに身体を預ける。
「メルセヴォーの特殊部隊だろう? こういってはなんだが……うちでも、ごくまれにはある」
誰も否定しなかった。
なれない外国で夜間、視界は不良で複数部隊の交錯、直前の通信の大型獣を見間違えるなど混乱していた。
そこに想定外の方向から現れた味方となっては、訓練された兵士であっても、同士討ちを完全になくすことはできないだろう。
「怪我人が出たか、最悪でも死者が一人出た事故だろう。続報が来るまで判断は保留する」
極度の緊張状態で起きた不明瞭な通信に、誤認が重なったのではという考え方を示す。
現在得られている情報からは、それが最も合理的な判断である。
分析官はメルセヴォー関係の資料を脇へ寄せ、分厚い別のファイルを開いた。
表紙に日本語で「御坂美琴」と名前が記されてあり、高官たちがそれを見て室内の空気が変わった。
「日本政府との接触状況は?」
「正式交渉が開始されています。少女側は、日本政府との限定的な協力に前向きと見られます。ただし学舎の園内部では、複数の意思決定主体が存在している可能性があります。これに先んじ、外務省を経由して、御坂美琴が当方要員と私的な接触を行っています」
「ああ……あいつ。ヴィンスか」
「はい。彼女が紛失した私物の返却に協力しました」
映写機が作動し、壁面に一枚の写真が映し出された。
コールドキーパー世界では、まだ大型液晶に高解像度デジタル写真データを映し出す技術は政府機関では使われない。
デジタル機器はまだ機密性が担保されておらず、各部署の共通規格端末が導入されていないためである。
映し出されたカエルキャラクターを食い入るように見るアメリカ情報部の男たちに、分析官が説明をつける。
「こちらはゲコ太と呼ばれるキャラクターの商品です。御坂美琴は非常に強い執着を示しています」
「執着とは、どの程度だ」
「当方要員へ個人的に連絡し、回収を依頼する程度には」
高官たち低くうなり、改めて写真を見た。
核ミサイルを無力化し、正体不明の巨大兵装を扱う少女が、外交上の危険を冒してまで取り戻そうとしたキャラクターマスコットとはどれほどのものか?
「このキャラクター商品の製造元は」
「日本企業です。ただし、限定版ということもあり商品タグの仕様が、通常の日本国内向け製品と異なっています──」
「会議中、失礼します」
別の分析官が途中で資料を持って入室し、早足で担当者のそばへ寄り、耳元で何かを伝える。
報告を受けた分析官は、一度だけ瞬きをした。
「関連する記録が見つかりました。どうやら日本で万博があったさいに、アメリカ限定発売のゲコ太が発売されていたそうです」
映写機が自由の女神姿となったマスコットキャラクターを映し出し、会議にでていた者たちの腰が浮く。
「我が国をインスパイアした限定品があるのか?」
「彼女がこれを持ってメディアに映る姿……まちがいなくインパクトがある!」
「これだ! これは使える! すぐ入手しろー!」
世界から注目されている少女が、合衆国が送り、自由の国をインスパイアしたキャラクターを持って微笑む姿はどれほどのインパクトを与えるか?
合衆国の情報官たちは、新聞に載るであろうそんなトップ記事をを思い描いていた。
+ + + + + + + + +
──などと、合衆国の情報官が考えていた頃、御坂美琴はとっくにその商品を手に入れて、帆風順子と一緒に愛でていた。
マニアのアンテナと入手速度を甘くみてはいけない。
「これ、万博の世界同時発売企画なのに、販売地域は万博のアメリカ館とアメリカ限定なのよねぇ」
御坂美琴は、両手で大事そうに持った緑色のマスコットを、窓から差し込む光へ掲げた。
丸い目。大きな口。自由の女神姿で凛々しくポーズを取る姿は、美琴にとって神々しくも見える。
「この自由の女神がいいのよ。無理やり地域色を出してるように見えて、実はゲコ太の丸い輪郭と松明のバランスが……」
「よくお似合いですわ」
向かい側に座る帆風潤子も、微笑みながら頷いた。
ここは常盤台中学校舎の教室の一つで、今は学生の休憩室として利用されている。
異変の後、校舎の一部は臨時行政機関や連絡所として使われるようになっていたが、この部屋にはまだ学校らしい空気が残っていた。壁には行事予定が貼られ、窓辺には手入れされた観葉植物があり、机の上には湯気を立てる紅茶が置かれている。
そして、その中央には二体のゲコ太が並んでいた。
美琴の前にはアメリカ限定版ある。
帆風の前には、厚手の外套を着て、毛皮の帽子をかぶったゲコ太がテーブルの上にそっと置かれている。
帽子の中央には赤い星、小さな手には小さな雪かき用のスコップが持たされ、胸にはキリル文字が描かれている。
「ふ〜む。改めて考えると……。そっちのほうが貴重かも」
美琴は帆風のゲコ太へ目を移した。
「ソ連限定版が、ですか?」
「だって、私たちの世界にはソ連なんてなかったもの。アメリカ限定なら、元の世界にもあったわ。でもそっちは、この世界に来なきゃ絶対に手に入らなかったわけでしょ」
「なるほど。たしかにおっしゃるとおりですわ」
地域性どころか世界独自性がある。そう指摘され、帆風の目はより輝いた。
「元の世界にないソ連限定のほうが、レア度が高いですわね」
「でしょ? その雪中行軍ゲコ太は、世界を越えた限定品ってことよ」
「そうなると御坂様のアメリカ限定版と並べることで、東西冷戦をゲコ太によって再現できます」
「よし、並べましょう」
美琴は即答し帆風は頷き、二人は机の中央で、二体のゲコ太を向かい合わせた。
自由の女神像を掲げるアメリカゲコ太に相対し、雪かきスコップを握るソ連ゲコ太。
一種即発かという両者の間にペーパーをしき、角砂糖を積み上げた小さな壁まで作りあげる。
「こっちが西側陣営よ」
「こちらが東側陣営ですわね」
「この角砂糖がベルリンの壁よ」
「では紅茶へ入れれば、冷戦終結です」
帆風はひょいと一つの角砂糖をつまみ、自分の紅茶に追加した。
「ゲコ太にかかれば冷戦も甘く溶けたわね」
帆風と美琴が笑いかけた、その時、休憩室の扉が開いた。
「御坂さぁん……」
食蜂操祈がいつもと変わらない常盤台の制服姿で立ち、肩には鞄をかけ、右手に持った愛用のリモコンを肩に担いでいる。
ただし、様子が少しおかしい。
食蜂は部屋へ入ってからも、リモコンの角で自分の額を軽くコツコツと叩いている。
考え事をしている時の癖なのかもしれないが、美琴はこれまでそれを見たことがなかった。
食蜂の視線が、机の上の二体へ落ちる。
「……何をしてのかしらぁ?」
「これ? 冷戦終結のシミュレーションよ」
「そう、終わればいいわねぇ、冷戦」
食蜂は、それ以上訊かなかった。
普段なら最低でも一言は嫌味を言う。ゲコ太に国家間対立を背負わせる御坂さんの感性力がどうとか、他国の限定品を集める前に外交的配慮を学んだほうがいいとか、その程度のことは言うはずだ。
だが食蜂はもう一度、リモコンで額を叩いただけだった。
「ちょっと付き合いなさぁい」
「今? まあ、別にいいけど」
美琴は自分のゲコ太を片付け、ぬるくなった紅茶をぐいっとお嬢様らしからぬ勢いで飲み干した。
立ち上がった美琴へ、帆風が静かに一礼する。
「では、こちらは私が片づけておきます」
「ありがとう、帆風先輩」
帆風は紅茶ポットを手にとり、食蜂へ目を向けた。
何かを尋ねることも、二人きりになることを茶化すこともなかった。ただ食蜂の落ち着かなさを見て、意味ありげな笑みと黙礼をしただけだった。
食蜂と美琴が向かった先は、校舎の一角に設けられたまたも防諜室だった。
かつて、食蜂が身体の秘密を明かした部屋である。
壁も扉も厚く、外部との通信を遮断する機器が置かれている。窓はなく、室内には小さな机と数脚の椅子しかない。
食蜂が先に入り、美琴が続く。
美琴が奥へ行き、食蜂は扉を閉めて内側からロックした。
電子音が鳴り、通信遮断装置の表示灯が、赤から緑へ変わった。
「……それで?」
美琴は椅子へ座らず、奥の壁へ背中を預けた。
食蜂は机を挟んで向かいに立ったまま、しばらく何も言わなかった。
またリモコンでコツコツ……と、額を叩く。
美琴は口を
額を叩く行為が20を数えた頃だろうか、ようやく食蜂が口を開いた。
「私たちの体のことだけど、学舎の園の中限定だけど、公表するわ」
「マジで? いよいよ隠せなくなってきたってこと?」
美琴は腕を解き、壁から背中を離した。
食蜂の表情は変わず、冗談ではないことはすぐ分かった。
「生徒たちで気がついているのは、今のところ物資関係の異変くらいよぉ」
食蜂はリモコンを机の上に置き、指で撫でながら説明する。
「食料の消費量と搬入量が合わないとか、医薬品の減り方がおかしい。怪我の治り方に個人差がなさすぎる。まあ、そういうところ」
「十分怪しくない? それで気が付かれないんだ」
「自分の身体そのものが普通の生物ではない、というところまで辿り着いた子はいないわ。だから生徒だけなら、まだ誤魔化せたんだけどぉ……」
「なら、先生たち?」
「教師勢はダメだったわぁ……。人数が少ないぶん、全員ものすごく忙しい。授業、生活管理、外部交渉、臨時行政。まとまった調査時間なんてほとんどない。それでも気がつく人は気がつくのよぉ」
「先生だものね。注意している目線が違ったのね」
「優秀すぎるのも考えものだわぁ。一人なんて、もう六回くらい気がついてるから」
食蜂が小さくため息をつき、美琴は目を見開いて驚いた。
「六回も? 同じ先生が?」
美琴は数秒、意味を理解できなかったが、対処を理解してから、顔をしかめる。
「まさか、あんた六回とも記憶を消したの?」
「正確には、核心へ近づく思考へロックをかけたの。記録も一部処理した。でも、その先生、別の経路からまた同じ結論へ辿り着くのよ」
「怖っ 自分が何度も調べたことに気がついたの?」
「まだ確信はしてない。でも、自分に記憶障害があるんじゃないかって疑い始めてる」
食蜂は机の上のリモコンを指先で転がした。
「メン・イン・ブラックじみてるわね」
「冗談やめて……。私も5回目からはあの赤い光が脳裏をよぎったのよぉ」
食蜂の声が低くなった。
「かなり危ないのよぉ。その先生、同じことを何度も忘れる自分を信用できなくなってる。次に何かを見つけても、報告する前に自分で自分を疑うようになってるわ」
美琴から冗談めいた表情が消えた。
「ロックを外さないと危険?」
「ええ。隠蔽を続ければ、事実を守るために教師の精神を壊すことになる」
「……それはダメね」
「他の教師も時間の問題よ。全員を毎日監視して、気がつくたびに記憶へ手を入れるなんて、現実的じゃない。それにそろそろ罪悪感があるのよねぇ」
食蜂は務めて軽く言おうとしたが、とても軽くは聞こえなかった。
美琴は腕を組み直し、提案する。
「じゃあさ。ちょっとしたアイデアなんだけど、あんたの能力で、いっそ全員に『情報体でも問題ない』って植えつけるのは?」
食蜂が顔を上げ、すぐに視線を逸らす。
「御坂さんとディープコンタクトできれば、できるかもしれないわね」
「やっぱなしで」
「御坂さぁん……」
食蜂は少しだけ笑ったが、すぐ真顔へ戻る。
「冗談はともかく、無理なの。全員へ同じ価値観を植えつけたら、絶対に歪むわぁ」
「やっぱり、マズい?」
美琴を自分の案を引っ込める様に頭をふり、食蜂は自分の胸元へ手を当てた。
「情報体であることを受け入れる理由も、恐怖する理由も、人によって違う。家族のことを考える子もいる。自分が本物なのか悩む子もいる。能力が自分のものなのか疑う子もいる。それを全部まとめて『問題ない』で押さえつけたら、本人の思考との間に矛盾ができる」
美琴はしばらく黙って、沈むような食蜂の横顔を眺めた。
精神のことについて、食蜂以上に詳しい人間はいないため、美琴は軽々しく反論できなかった。
腕を解き、美琴は決断する。
「わかった。じゃ、私も発表する教師側に立たせなさい」
「何をするつもり?」
「決まってるでしょ。『なんで黙ってたんだ』って怒られたり、叩かれたりする側に回るって言ってんの」
美琴は食蜂を真っすぐ見た。
「あんただけが隠してたみたいになるのは違うでしょ。私も知ってたし、黙ることに同意した。だったら同じ場所に立つのスジでしょ?」
食蜂が目を細める。
「まあ、御坂さんも一緒に叩かれてもらうのは確定だったんだけどぉ」
「それ確定だったんかいっ!」
美琴は食蜂に掴み掛かろうとするが、間にあったテーブルと椅子が邪魔で、鈍いはずの食蜂はひょいと逃げ切った。
「御坂さんを壇上へ立たせない選択肢なんて最初からありませんけどぉ?」
「こ、このっ! 私の決意を返せ、食蜂!」
いつもの取っ組み合いが始まった割に、お互いどこかで安心していた。