学舎の園が東京湾へ現れてから、一か月半が過ぎた。
「長かったのか、短かったのか──」と、美琴が呟けば、黒子が「夏休みとしては短かったですわね。青春の1ページとしては長すぎましたの」と、疲れた様子で答えた。
美琴に限らず、生徒たちが朝に日本政府との物資協議を行い、昼にはアメリカの技術担当者と通信し、夕方には華央国の外交団から届いた質問へ回答する。
夜になれば翌日の会談資料が運ばれてきた。
一方、世界の側から見れば、異常なほど短い一か月半だった。
学舎の園は、すでに日本、アメリカ、華央国だけでなく、国連加盟国のおよそ半数と、何らかの形で会談を終えていた。
もっとも、そのすべてが正式な二国間交渉だったわけではない。
複数国をまとめた合同説明会などもあった。
三十分だけのオンライン会談で、各国首脳や閣僚と話すこともあった。
質問事項をあらかじめ文書で交換し、確認だけを行う外務当局間協議。
日本政府が通訳、通信設備、時間調整、参加者確認、議題整理を一括して引き受けたことで、ようやく成立していた外交日程である。
主要国との間では、すでに条約や協定の草稿まで作られ、状況によっては、知的資産の開示も盛り込まれている。
日本政府の合同調整室では、壁一面の予定表が書き出されていたが、面倒くさがりな食蜂は読まずに尋ねることにした。
「次の会談、どこかしらぁ?」
「ラタナシリ王国となってます」
「ラタナシリ……ああ、微笑みの国ね」
食蜂は頭の中にあるわかりやすい記憶のスイッチを押して、脳内にある深く細かい資料を表層に浮かび上がらせる。
能力を使わなくても、自分の記憶の使い方には長けている。
学舎の園側も、日本側も、会談そのものに慣れ始めていた。
最初の頃は、外国代表団が到着するたびに緊張が走った。
今では食蜂操祈の派閥が資料を配り、通信担当が音声を確認し、各校の技術・経済担当者が必要に応じて席へ着く。
教師は責任者として同席し、時には不可逆な約束を求められれば止める。
生徒の権利に触れる条件が出れば、教師会議へ持ち帰るが、そうでなければ実務は生徒へ任せていた。
ラタナシリ王国は、東南アジアの立憲君主国である。
長い王統を持ち、複数の大国と関係を保ちながら、いずれか一方へ完全には属さない外交を得意とし、それでいて王室の権威と議会政治が、複雑に重なった国だ。
学舎の園との最初の会談には、日本側の外務省だけでなく、教育省の高官も参加していた。
どの国も、技術、科学、教育、軍事、産業の担当者を送り込みたがったため、このような布陣となっている。
だが、ラタナシリ代表の質問は不思議なほど普通だった。
園内の学校はいくつあるのかという公開されている情報をとっかかりとし、授業は再開されているのか、共通の教育課程はあるのかなど教育に関する質問に終始した。
生徒たちは、元の世界の歴史と、この世界の歴史の違いをどこまで把握しているのか。
食蜂は回答しながら、何度か相手の意図を探った。
教育に興味を示しているようで、その実、能力開発や技術への探りをいれているのか?
しかし技術移転でも、能力研究でもなさそうだった。
「最後に、一つ提案があります。よろしいですか?」
会談の終盤、ラタナシリ王国の教育次官が、手元の資料を閉じて言う。
資料を閉じたあとなので、大きな話ではないだろうと食蜂が微笑む。
「ええ、伺いますわぁ」
食蜂の堂々とした態度の、ラタナシリの教育次官は少しだけ姿勢を正して尋ねた。
「学舎の園は、留学生を受け入れるおつもりはありますか?」
会議室が静かになった。
通訳が訳し終えた後も、誰もすぐには声を出さなかった。
鷹揚としていた食蜂の笑顔が、ほんのわずかに止まり、学舎の園教師も質問の意味を確認するように教育次官を見て確認を取る。
「留学生、とおっしゃいましたか? 能力開発技術を学ばせたい、という意味ではなく?」
「はい、留学生です。能力開発のお話ではありません。貴園の技術研究施設へ立ち入らせることも、能力開発へ参加させることも要求しません」
「では、何を目的に?」
「授業を受けさせていただきたいのです」
今度こそ、食蜂は目を瞬いた。
「通常の授業を、かしらぁ?」
「そうです。通常の授業です。数学、語学、文学、歴史。それに倫理などもあるのでしょう? 非常に興味があります」
ラタナシリ側の外交官が補足した。
「皆様はこれまで、各国から技術協力、共同研究、能力に関する質問を受け続けたと承知しています」
「ええ。嫌というほどぉ」
「我が国も、それらに関心がないとは申しません。しかし学舎の園は、まず学校なのでしょう?」
そうだったわね、学校だったわ。ここに美琴がいれば、自分の代わりにそう言ってくれただろうと食蜂は小憎らしい相手の姿を思い浮かべた。
だが、ここに御坂美琴はいない。代わりに教師が、ゆっくり頷いた。
「そうです。学舎の園は、いえ、それぞれ中核となっている施設は学校です」
「であれば、学校として交流する方法もあるはずです。異なる世界の同世代が、同じ教室で同じ問題を解く。それこそに価値があります」
「ええ、たしかにそうね。まず人数はどれくらいを想定していて?」
自治や技術の絞り方ばかり考え、学校としてお付き合いすることをすっかり忘れていた食蜂は、リモコンで自分の頬を軽く叩いた。
「最初は三名を想定しています」
「三名。一人じゃ心細いだろうし、五人だとこっちが対応する人員が増えるし……まあそれくらいよねぇ」
「いずれも本人と保護者の同意を得たうえで、我が国が選抜します。身元、健康状態、学力、家族関係について必要な情報は提供します」
「諜報機関との関係は?」
「無論、関係のない者を選びます。貴園側が確認することも認めます」
さも当然と答えた教育次官だったが、それに冷水をかけるような目線を向ける食蜂。
「精神能力者による確認も?」
一線を越えれば手心はしないという意思表示に、ラタナシリ側の列席者にも、わずかな緊張が走った。
教育次官は負けじと答える。
「方法と範囲について、留学生に事前合意があるならば」
「あらぁ、本気なのねぇ〜」
食蜂の笑みが少し深くなる。
「教育は、長期的な外交なることでしょう。歴史が証明しています」
+ + + + + + + + +
交換留学。
これほど分かりやすく、軍事色が薄く、それでいて将来へつながり、かつ学舎の園のあり方を尊重した手段であるのに、なぜ誰も最初に思いつかなかったのか?
アメリカは即座に、成績優秀な高校生の派遣可能性について照会した。
最高峰の頭脳が集まる各学校では、なぜカットオフ・デイトなこの時期なんだと言う声もあがった。卒業直後の元生徒たちは悔しがり、入学したばかりの生徒たちは困惑している。
予定がサンクスギビングに重なるのではという意見も出た。
華央国は、東アジア文化交流の一環として共同教育事業を提案した。
手を挙げたものたちが、御坂美琴の名前ばかり口に出していたという噂も出た。
英国は、王立学校と学舎の園との姉妹校関係を検討すると伝えた。
しかしまず留学生の話ではないのですか、と担当に釘を刺されたと言う逸話が残った。
ソ連は理数系教育に優れた女子生徒を送る用意があると表明した……のだが、その名前が出てこず実在するのか?という懸念を向けられる。
EU、中東諸国からも問い合わせが届き、日本政府には、各国大使館から同じような電話が殺到した。
日本政府はその忙しさより、別の問題で頭を抱えていた。
「なぜ我々は、留学生に気が付かなかったんだ!」
政府高官が学舎の園へ訪問するより、学生と交流を持ってもらうほうがはるかに敷居が低いはずである。
日本の学生と能力を持つ学生を交流させる危険性を、無意識に念頭へ置いていたのか?
学舎の園のあまりに毅然とした態度を見て、無意識に彼女たちを学生でないと考えていたのか?
単純にポカなのか?
学舎の園が世界が求めていたものを、突然提示したわけではなかった。
世界の側が、ようやく求め方を思い出したのだ。
「で? 留学生まで受け入れて授業、再開できんの?」
食蜂から報告を聞いて、美琴は開口一番、そう言った。
なにに対抗心を燃やしているのか、食蜂はキラキラしたお目目を燃え上がらせて答える。
「一緒に意地でも再開して見せつけてあげましょうぉ、御坂さん」
+ + + + + + + + +
ラタナシリ王国からの提案が届いた時、学舎の園では、ちょうど授業再開について話し合われていた。
食蜂は「できらぁっ」とばかりに意欲的だったが、通常授業の完全再開は不可能だった。
まず教師は四十三人しかおらず、生徒の多くは行政、物流、通信、技術維持、店舗運営、警備補助に関わっている。
以前と同じ時間割へ戻せば、園内機能が止まるのだが、教育を無期限に停止することにも問題があった。
生徒は仕事へ慣れ始め、各部署の交代要員も少しずつ育っている。
緊急対応ばかりだった日程にも、わずかな余白ができてきた。
この状況を見て、教師の一人が言った。
「まずは週に一日だけでも、授業日を設けるべきではありませんか」
別の教師が頷く。
「完全な通常課程は無理です。しかし、生徒が行政職員や技術者として固定されるのも望ましくありません。同時に、完全な休日も必要です。週に一日は生徒ごとに勤務も授業もない日を置くことも予定にいれるべきです」
具体的な時間割を後回しにし、授業と週一の休日だけは確保することを大前提とする、
「そうね。私たち教師も、たまには教師をしないと」
最後の発言で、教師会議の何人かが苦笑した。
情報再現体としての身体調査は続けられている。
園内行政と日本政府との協議、これに平行して生徒の生活相談が立て込み、教師たち自身も、授業から離れすぎていた。
教師であることを守るためにも、教壇へ戻る必要があった。
その議論へ、ラタナシリ王国の留学生案が持ち込まれたわけである。
教師会議はすぐに要員を集め、留学受け入れが可能かを協議する会議へと移行した。
食蜂とその派閥に各校代表の技術、経済、生活、警備を担当する生徒と、会議室には、予想以上の人数が集まった。
「受け入れていいんじゃない?」
美琴が最初に軽く言った。
「早いわねぇ〜、御坂さぁん」
食蜂が横目を向ける。
「だって、三人でしょ? 技術を渡せって話じゃない。能力開発を受けさせろって話でもないじゃん」
「それでも、外部の生徒を園内へ入れることになるわ」
「あっちにいたころだって、申請すれば普通に他の学校の女子生徒も入れたでしょ? 実際、佐天さんと初春さんを編入扱いして一緒に授業受ける予定だったし。これに合わせて留学生も普通に数学とか、一緒に勉強すればいいじゃない」
美琴は机上の提案書を指で叩いた。
「私たちだって、ずっと仕事ばっかりじゃおかしくなる。学校を一日やって、休みを一日取って、残りで仕事する。そこに三人増えるくらいなら、なんとかなるでしょ」
「御坂さんにしては、ずいぶん穏当な意見ねぇ」
「にしては、って何よ。まさかつっぱねろって言うと思ったの?」
「いえ。飛び出すの大好きな御坂さんのことだからぁ、先にこっちが留学してから受け入れようって言い出すかなって──そのやり方があったか、って顔しないで御坂さん」
「まああんたがそこまで言うなら」
上目遣いになり、食蜂の言い出した別案の方にしようかとした美琴の袖を掴んで止める食蜂。
単に外へ出たいという顔もしていたので、大人しく先に留学する案に切り替えなかった美琴に教師陣は安堵した。
レザネリエも提案書を叩いて意見を述べる。
「私は賛成だ。外の人間を初めて園内生活へ受け入れるなら、軍人や研究者より同年代の生徒がよい」
「なりほど。学舎の園へ最初に立ち入るこの世界の人は学生……。これはこの上ないアピールになりますね」
教師たちのほとんどが、この記録に残る意味を理解してレザネリエの意見に同意した。
レザネリエは教師たちの支持を受け、まだあると言葉を続けた。
「なにより我々も同じ学徒。彼女たちが何を考えているか理解しやすい。向こうも同じだろう」
レザネリエの考え方が教師に受け入れられ、留学生を受け入れるという方向性になったため、ある学校の代表が慎重に手を挙げた。
「となると科学関係の授業は、基礎課程までがよいと思います」
会議室内の全員が頷き、それを見た食蜂が答える。
「園内独自技術へ接続する内容は除外。能力開発関係も扱わない。実験設備への立ち入りも制限」
「数学なら問題ないでしょう。もちろん語学と文学も……でも歴史関係は難しくありませんか?」
この世界では冷戦が続き、ここ四十年近い現代史が異なる。
下手に元の世界の現代史を伝えれば、いらぬ混乱をもたらすと言えた。
「私はむしろ面白いと思うわ。あ、現代史じゃないわよ。結構、徳川歴代将軍とか、歴代総理とかアメリカ大統領も違うし、知らない近代の事件もあったから、差異を比べることで冷戦が続いた理由、冷戦が終わった理由が判明するかもしれないし」
美琴は気軽に答え、食蜂以外の会議室内の誰もが目を輝かせた……食蜂はいつも目が輝いているが──。
他校代表が美琴の案に乗る。
「私たちの世界と、この世界でどこから歴史が違ったか比べられます。非常に研究しがいがあることですわ」
「……それはそれで政治問題になりそうねぇ」
一人だけ目を輝かせていない食蜂が冷静に危険性を指摘する。
「その問題は教師である私たちの仕事です。こちらで精査します」
教師会議の代表が、そこで口を開いた。
会議室が静かになる。
授業内容について、最終的な決定と具体的なカリキュラムは教師の領分だ。
わかりましたと全員がうなずく。
この空気の中、物おじしない美琴が次の問題を尋ねる。
「で、留学生の扱いはどうするんですか、先生」
「外国政府の代表ではありません。技術取得のための要員でもありません。園内規則に従い、授業を受け、必要な生活支援を受ける生徒です」
「問題が起きた場合は?」
「教師会議が責任を負います」
王冠が、受け入れを認めた瞬間だった。
この決定を受け、食蜂が再び主導権を握る。
「では、細部を詰めましょうかぁ」
その後の決定は、異例なほど速かった。
きっと政治以外の仕事もしたいと言う気持ちが、生徒と教師たちにあったのだろう。
みな軽やかに、晴々とした様子で会議が進む。
「──留学生は日本から始めるべきでは? 地理的にも緊急対応が容易です」
「そこは最初に申し入れした国でしょぉ? 学校であることを思い出させ、背中を押してくれた。そこは評価してあげてもいいんじゃなぁい?」
食蜂の意見に、いつも対抗する美琴が素直に頷いた。
「私も賛成。まさか授業が楽しみなるなんて思わなかったし」
レザネリエも異論を唱えなかった。
教師会議は短い協議の後、承認した。
その日の夕方、日本政府を通じて、ラタナシリ王国へ正式回答が送られた。
『学舎の園は、貴国からの留学生三名を試行的に受け入れる用意があります』
+ + + + + + + + +
ラタナシリ王国が選んだ三人の女子生徒は、いずれも国を代表するにふさわしい頭脳と品格の持ち主であった。
王都の国立校に通い、数学競技で国際入賞経験を持つナリサ・ウォラチャイ。
地方都市の公立校から選ばれ、五か国語を操るピムチャナー・シリパット。
農村部の学校に通いながら、環境科学の研究発表で教育省表彰を受けたカンラヤー・ラタナウォン。
三人とも単純な学力だけで選ばれたわけではない。
異文化環境への適応力と、親元を離れて同世代との共同生活の経験が勘案された。
さらに政治的宣伝へ利用される可能性を理解したうえで、それでも参加を希望する意思。
特に重要な家族の同意。
そして、学舎の園へ何を学びに行きたいかという面接には、ナリサはこう答えた。
「同じ数学を学んだ人が、別の世界ではどのように考えるのか知りたいです」
ピムチャナーは言った。
「言葉が通じても、同じ意味になるとは限りません。それを確かめたいです」
カンラヤーは嬉しそうに答える。
「友達ができるか、楽しみです」
ラタナシリ教育省の選考官は、その答えを最も高く評価した。
世界は技術供与を巡る条約草稿を、一か月半経ても完成していない。
安全保障協定も、自治に関する法的整理も、まだ何度も書き直されるだろう。
だが、三人の少女が同じ教室で数学を学ぶという合意だけは、提案から驚くほど短い期間で成立した。
世界はようやく、学舎の園へ兵器や研究者ではなく、生徒を送る方法を思いついたのである。