足裏から地面の感触が消え、浮いた、と思う暇もなかった。
視界が一度だけ白く弾け、ナリサ・ウォラチャイは反射的に目を閉じた。
次に足が着いた時、そこはもう船の甲板ではなかった。
「っ!」
息を呑む。
眼前には白い石畳が広がっていた。
左右には手入れの行き届いた街路樹が並び、その向こうには、尖塔やドームを持つ校舎らしい建物が見える。道路を挟んだ先には、歴史ある欧州の街並みを思わせる建物と、ガラスを多用した近代的な施設が、不思議なほど自然に隣り合っていた。
背後を振り返れば、東京湾。そのさらに向こうに、日本の都市が霞んでいる。
ほんの一瞬前まで海上の連絡船にいたナリサは、今は学舎の園の門前に立っていた。
「い、今のが……空間移動」
何かが歪むような音と共に、隣へ現れたピムチャナー・シリパットが、胸元を押さえながら目を見開いている。
少し離れた場所に立つ、縦巻きの髪をした少女が涼しい顔で答えた。
「お荷物を含め、指定された座標へ移動させましたの。体調に異常はございませんか?」
触れた物体を、自身を含めて離れた場所へ瞬時に移動させる様子を映像で何度も見た。
しかし、自分の身体が海を越えて一瞬で運ばれる経験は、見ると聞くと説明されると理解させられるのでは大違いだった。
「黒子さん、もう一度できますか?」
カンラヤー・ラタナウォンが、目を輝かせて尋ね、黒子がわずかに眉を上げる。
「構いませんけど、慣れないうちは少々気分を悪くする方もいらっしゃいますので、無用な反復はおすすめいたしませんわ」
「もう一度くらいなら……」
「カンラヤー」
ナリサは思わず友人の袖を引いた。国家の代表として選ばれた最初の留学生である。
到着直後から、遊園地の乗り物をねだるような真似は慎むべきだった。
そう考えたナリサ自身も、胸の奥が落ち着かなかった。
もう一度体験したいなどと口に出せば、三人の中で最も落ち着いた人物として振る舞ってきた自分の立場が崩れるかもしれない。
「休日や帰りにも機会はございますの」
黒子は、三人の様子を見て小さく笑った。
海風が感じてナリサはもう一度、学舎の園の街並みを見回した。
事前に航空写真も地図も見ていた。それでも、実際に中へ立ってみると印象が違う。
複数の学校と学生寮、商店、研究施設、公園、医療施設が集まっている。一つの教育地区であり、コンパクトながら一つの街だった。
しかも、そこにいるのは全員、自分たちとは異なる世界から来た少女たちである。
まるで異世界にきた気分だった。
建設が進む背後の外付け昇降機の工事の様子を見た方が、ナリサの心が落ち着くまである。
街路の奥から、制服姿の生徒たちが歩いてきた。
揃いの制服ではない。
学校ごとに意匠が大きく違い、肩章のついた格式高い制服の高校生に、明るい色のブレザーの中学生。修道服を思わせる装いの生徒に、メイド服の生徒までいた。
どの生徒も姿勢がよく三人の前まで来ると整然と足を止め、中央にいた高校生らしき少女が、一歩進み出る。
「ラタナシリ王国よりお越しの皆様、ようこそ学舎の園へおいでくださいました」
裾を軽くつまみ、優雅に腰を落とす。
左右の少女たちも、ほとんど同時に礼をした。
ナリサは一瞬、返礼を忘れた。
王室行事で正式な作法を見る機会はあった。自分自身、外国使節を迎える最低限の礼法は教えられている。
だが、目の前の少女たちの所作は、演技めいた誇張がなく、それでいて映画の一場面のように洗練されていた。
年齢は自分たちより下に見える者もいる。
それなのに、外交儀礼の場へ立つことへ少しも怯えていない。
「こちらこそ、受け入れていただき光栄です」
ナリサはようやく言葉を返してラタナシリ式の礼をし、ピムチャナーとカンラヤーも続く。
歓迎役の少女は柔らかく微笑んだ。
「滞在中に必要なことがございましたら、どうぞ遠慮なくお申し付けくださいませ」
すばらしいと、ナリサは素直にそう思った。
異世界の最先端技術を有し、世界中の国家と対等に交渉しながら、それでも学校としての品格を失っていない。
これが学舎の園。
自分はここで三週間、共に学ぶのだ。
期待は、到着前よりはるかに大きくなっていた……と、その時だった
「あー、みんなが留学生?」
整然と並んだお嬢様たちの後ろから、ひょい、と一人の少女が顔を出した。
長い黒髪に、花飾りで、制服はごくごく普通のセーラー服に見えた。
歩き方も、先ほどの少女たちとはまるで違う。片手を上げ、友人の待ち合わせ場所へやって来たような調子で近づいてくる。
黒髪の少女は三人を順番に見て、まるでアニメの少年探偵のように顎に手を当てて言った。
「うんうん。みんなラタナシリっぽいなー」
黒髪の少女の発言に、ナリサは反応できなかった。
ラタナシリっぽい、とは何だろう?
民族衣装を着ているわけではない。三人とも、王国の学校制服を基礎にした派遣用の服装である。
顔立ちだろうか。それとも、何か国籍を見分ける能力を持っているのか?
黒髪の少女は、自信たっぷりに自分の胸元を指した。
「私は佐天涙子。今日から案内役するねー。よろしく!」
あまりにも普通の少女たちだった。
ナリサは、佐天涙子という少女の後ろへにいる歓迎役のお嬢様たちを見たが、補足する様子はない。
黒子も、当然の人選だという顔をしている。
「まあ私も授業あるし、雑務の日もあるから、ずっと隣にいるわけじゃないけど、分かんないことがあったら、だいたい誰か知ってるから聞いてね」
佐天は楽しそうに笑り、ナリサの胸の中に学舎の園で最初の不安が生まれた。
この少女で大丈夫なのだろうか。
+ + + + + + + + +
結論から言えば、佐天は学舎の園の施設に詳しくなかった。
「こっちが医療技術の建物で、検査とかするところ。私もまだ入ったことないんですよ」
佐天は三人を連れ、案内をしながら街路を歩いていた。
白井黒子と歓迎役の生徒たちは、正式な到着手続きを終えると別の仕事へ戻っている。
三人の質問に明瞭に答えられたことのない佐天は悪びれなかった。
「でも、中を見たいなら──あ、ちょうどいいや。薬師さん!」
佐天が不意に声を上げ、道の向こうを歩いていた白衣姿の少女が振り向く。
「あら……佐天さん。どうしました?」
「今日から来た留学生の三人。医療施設について知りたいって」
「初めまして。基本的な診療体制についてでしたら、私から説明できます。設備見学には許可が必要ですので、希望される場合は申請してください」
「ありがとうございます」
ピムチャナーが答えると、白衣の少女は端末を取り出し、医療体制と外国人留学生向けの健康支援について簡潔に説明して、最後に連絡先を三人の端末へ送った。
「何か体調に変化があれば、深夜でも構いません。佐天さんを通さず、直接連絡してください」
白衣の少女が去り、ナリサは手を振る佐天に尋ねる。
「お知り合いでしたか?」
「うん。前に一緒にご飯食べたんですよ。その時、医療担当してるって聞いたから」
「そうですか…………。聞いたから、それだけですか?」
「そうだね。あ、あの佐倉さーん、この人たち、留学生の子です」
会話の途中、目の端に知り合いを見つけたのか、声をかけて呼び止める。
制服の違う女子生徒が佐天に呼ばれ、振り返る。
「あら、佐天さん。そちらが留学生の?」
「うん、そう。えっとね、ナリサさん。佐倉さんは物流担当なんです。いわば、宅急便の受付!」
「その言い方であっていますが、宅急便のように届けませんからね。学舎の園で、個人的に購入される方から受けて、日本へ発注する担当です」
佐倉はそういって、発注受付と荷物受け取り場所を案内してくれた。
郵便局の倉庫のようだが、今は外と荷物の受け渡し場所になっているという。
「なにか入り用のものがありましたら、この施設と連携させた端末で発注。受け取りはこの施設でお願いします」
「はい、わかりました」
必要なものは最低限持参し、学舎の園でもある程度購入できるというが、一般的でない薬品や特殊な製品はここを経由する必要があるという。
留学生たちは貸与された端末でQRコードを読み込み、連携を済ました。
「次は……あ、宝山さーん。留学生を紹介したいんですっ!」
せわしない佐天は、道路の反対側の2階テラスにいた女子生徒を見つけ呼びつけた。
宝山と呼ばれた女子生徒は、2階のテラスの手すりを軽やかに越え、ふわりと佐天の前まで飛んで降りてきた。
「と、飛んだ!」
「飛ぶと言うほどのものではありませんわ。滑空でしかありません」
「宝山さんは、船上に降りる時、滑空してくれます。黒子さんがいない時とか、船上へ降りる場合、お願いする時があるんです」
「私は降りるだけなので、交代要員というほどではありません。あくまで緊急、どうしても降りる事情がある時です……あと、身一つで飛び降りる覚悟と準備はなさってくださいね」
「は、はい。ええっと、その時はお願いします」
ナリサは引き攣りながら、なんとか返事をした。
テレポートは一瞬で切り替わるため、怖さより驚きが強い。だが、滑空で降りるとなると、船の上まで降りる間がそのまま上空体験時間となるだろう。
想像するだけで怖い。
ピムチャナーは楽しそうと言っているが、カンヤラーは少し青ざめている。
宝山と別れたあと、佐天は施設案内というより人物案内を続けた。
昼前には、佐天は警備担当、食堂職員、複数校の生徒、店舗従業員、教師二人にまで声をかけていた。
「あははー、なんか案内してるっていうか、人を紹介している感じだね」
「え? そうでしたか? ちゃんと案内されていませんでした?」
カンヤラーは目を丸くして首を傾げた。
佐天は施設へ足を向けず、誰かに声をかけて、その人が施設を案内するという形式を無意識にやっていた。
カンヤラーは佐天がそういう案内をしていたと思っていたようである。
ナリサは三人目で気がついた。
佐天涙子は学舎の園に詳しくないが、学舎の園に暮らす人たちに詳しくて親しい。
親しげではあるが、馴れ馴れしすぎない。相手が忙しそうなら短く切り上げる。説明が必要なら、より詳しい人物へ繋ぐ。
佐天本人は何も専門的な説明をしていない。
しかし、三人が疑問を口にすると、数分後には必ず答えられる人物が現れる。
この少女は、施設を案内しているのではなく、人を紹介して間接的に案内していた。
「佐天さん……もしかして、大部分の生徒とお知り合いなのですか?」
「そんなわけないよ。二千人以上いるんだよ? でも、知り合いの知り合いくらいなら、だいたい誰かに繋がるかも。そのくらいの人数だよ」
わけもなさげにいう佐天だが、ナリサはあることに気がついていた。
佐天涙子の制服を着ている少女は、学舎の園にはいない。
もしやと思って、ナリサは訊ねた。
「佐天さんは制服がみなさんと違うようですが、学校はどちらに?」
「それがねぇ。友達のところに、初春って子と泊まりにきてて巻き込まれたから、学校は学舎の園の外だったんだぁ。私とその初春って子は、学校違うし、お嬢様でもないんですよ」
「……夏休み前にから、園内にお知り合いは?」
「御坂さんと婚后さんたちくらいだから、五人?」
少ない。
ナリサは息を飲んだ。
この佐天涙子という少女は、ほぼ知り合いがいない環境に取り残され、たった一ヶ月半でこれほどの交友関係を築いたことになる。
「まあ、佐天さんはお友達つくりがお得意なんですね」
「そうかなぁ、そうかも〜」
カンヤラーの無邪気な反応に、無邪気な返答をする涙子。
だが、ナリサとピムチャナーはその笑顔を神妙な表情で見つめた。
+ + + + + + + + +
留学生たちが、学舎の園で受けた最初の授業は数学だった。
三人は留学生用の特別教室へ案内されるものと思っていたが、そこは普通の教室で、席の半分ほどが埋まっていた。
制服は統一されていない。
事情が事情だけに、複数の学校からカリキュラムに合わせて生徒が交代で参加しているという。
佐天は三人を空いている席へ案内すると、自分もその隣へ座った。
「佐天さんも受けるのですか?」
ナリサが尋ねる。
「うん。みんな案内と合わせて今日、授業の日だから」
佐天涙子は中学一年生と、ナリサは聞いていた。
教師が少なく、転移でカリキュラムが止まっていたというから、中学生でも参加できる授業になるのだろうか?
ナリサは少し残念に思った。
「先に言っとくけど、私、数学苦手だからねー。数学の案内はできないですよ」
ナリサは、わずかに肩の力を抜いた。
やはり留学生向けの調整授業なのだろう。
学舎の園には高度な教育課程があると聞いていたが、初日に難しい内容を詰め込む必要はない。まずは互いの水準を確認する程度か──。
ナリサは自分の向上心に理由をつけて落ち着かせる。その時、教師が入室し、端末を操作した。
前方の大型画面に、数式が表示される。
「今日は、微分方程式を用いた変化の記述について扱います」
ナリサは姿勢を正した。
「前回、一次の常微分方程式について確認しました。本日は、モデル化した現象のどの部分が仮定で、どの部分が結果なのかを区別します。留学生の方々はこれらを収めているとラタナシリ教育担当官から伺ってますので、この内容で進行させてもらいますよ」
「は、はい。大丈夫です」
中学生向けではなかったので、ナリサは少々おどろいた。
少なくともラタナシリ王国では、高等学校上級課程から大学初年級にかかる内容である。
数学競技の準備と自主学習で触れており、未知ではない。
ピムチャナーとカンラヤーも、選抜前の集中課程で基礎は学んでいルので問題ないはずだ。
問題は、隣に佐天がいることだった。
「くわー」
見れば佐天が小さく呻く。
「いきなりこれかー。数学苦手なんだよなぁ」
授業が始まり、ナリサはときどき横目で佐天のノートを見た。
書き始めが遅い。
教師が一つ説明するたびに、数秒考えてから式を書き写している。途中で符号を間違え、消して書き直していた。
やはり、案内役だから同席しているだけなのだろうと考えた。
教師が例題を提示する。
ある物質の量が時間経過によって減少する単純なモデルだった。
「では、初期条件を与えた場合の解を求めてください」
ナリサはすぐに手を動かした。
式の形を見た時点で、解法は分かっている。
ピムチャナーも少し遅れて計算を始め、カンラヤーは教師の説明を確認しながら式を組み立てた。
佐天は、問題文を二度読んでいる。
「えーっと……これをこっちに持っていって……」
独り言を呟きながら、ゆっくり式を変形する。
途中で止まり、先ほどの教師の説明をノートで確認する。
「ここは……積分してぇ……。するんだっけ?」
ナリサが解き終えた時、佐天はまだ半分ほどだった。
当然だ…………が数分後、佐天は答えまでたどり着いた。
計算は整っている。
一か所、余計な式変形がある。もっと短く解けるのだが、結果は正しい。
綺麗ではないが、中学生が自力でみちびきだしたのなら評価に値する。
教師が各自の回答を確認して回り、佐天の机で足を止めた。
「佐天さん。途中で符号を間違えています」
「あー…………やっぱり? ここですね?」
「ただし、自分で修正できています。最終結果は合っています」
「よかったー」
「次は、途中式をもう少し整理しましょう」
「はーい」
佐天は本当に安心した様子で、椅子へ背を預けた。
佐天のやり方は速くないし、計算も美しくない。
だが、教師が説明した内容を理解し、時間をかけて問題を解いていた。
次の問題では一度答えを間違えた。その次は、ナリサよりかなり遅れて正解した。
応用問題が提示されると、「これは分かんない!」と言いながらも、教師の補足説明を聞くと、再び式を書き始めた。
ナリサは次第に、佐天の「数学が苦手」という言葉の意味が分からなくなっていた。
授業が終わり、佐天は机へ突っ伏した。
「あー、転移と夏休みボケで全然分かんなかったよー」
降参という態度の佐天に、ナリサは反射的に答える。
「最後まで解いていたではありませんか」
「先生が説明した通りにやっただけだよ?」
「それは……その説明を理解したということです」
「えー。でもナリサさんは、先生が全部説明する前から分かってて、問題を解けってさされたら偏微分方程式から答え出してましたよね?」
佐天は顔を上げ、感心したように笑った。
ナリサは戦慄した。
佐天涙子は、ナリサがどのように理解しているかを、理解している!
「ああいうのが頭いいっていうんだよ。私とは全然違うよー」
ナリサが優れていることは事実だ。そう自負している。
計算速度も、予備知識も、応用力もナリサが上だった。
だが佐天が本当に落ちこぼれなら、自分は何と比較されているのか。
──次の授業には、一人の少女が遅れてきた。
日本側との物資規格協議が長引き、遅れたと言うと教師は聞いていたのか咎めなかった。
だが授業の内容は、数式を用いた運動モデルの比較。先ほどの数学内容と接続しているが、前半の説明を聞いていなければ理解しにくい。
だが、その遅れてきた少女は授業の内容についてきているどころか、理解して先んじて答えをだしているようだった。
先ほどまでいなかったはずの少女が、授業へ追いついている。
いや、教師がまだ説明していない先まで答えている。
ナリサは教室を見回すと、それに誰も驚いていなかった──。
+ + + + + + + + +
「さきほどの方は、三、四日に一度しか授業へ来ないそうです」
「まあ、優れた方なのですね」
休み時間、ピムチャナーが共有予定表を見ながら言って、カンラヤーが感心したように笑う。
ナリサは二人と違い、深刻に額を抑えていた。
カンラヤーの言う『優れた方』というのが、一人ではないことが問題なのだ。
ナリサは授業内容についていけた。
学舎の園の生徒たちに負けていないと言う確信がある。
だが、学舎の園は学校自体がリハビリテーション中という状態だ。
生徒は片手間の授業を受け、日常は学舎の園維持に注力している。
さらに言えば、夏休みは移転後の対応に追われ、学生らしい生活はしていなかったはずである。
そんな生徒たちが、ラタナシリの才女である自分たちと同レベル?
比べる条件が、不平等ではないのか?
異世界へ来て、各国政府と渡り合い、帰ることもできず必死に生きるため奔走していた学生たちが、昨日まで留学のため必死に前準備してきた留学生と肩を並べている。
その中には、自分を落ちこぼれだという中学生一年生までいるという事実はナリサを打ちのめすには十分だった。
「なんなの、ここ……」
覚悟してきたナリサでも、そう呟くしかなかった。