「竹流や。ちゃーんとお腹いっぱい、ご飯を食べてるかい」
日本国首相 分下 竹流は、豊かになりつつある日本で育った。
祖母はいつも、幼い分下にそう問いかけていた。
学校は楽しいか、勉強はできているか。学校の友達とは仲良くしているか。
そんなことを尋ねるより先に、祖母は必ず食事の心配をした。
終戦直後を生きた祖母にとって、子供が腹を空かせていないことは、何より先に確かめなければならないことだったらしい。
東京湾の上空に、巨大な島が浮かんでいる。そこには建物があり、大勢の人間らしき影がいる。
外部との通信は成立していない……。
島から発進した飛行物体は華央国軍の攻撃を受け、核ミサイルらしきものまで飛んだ。
それでも、島側は報復しなかった。
飛行物体は東京湾へ戻り、島は再び沈黙している。
官邸の危機管理センターでは、軍事、外交、通信、科学の専門家たちが、朝から休みなく議論を続けていた。
「短波通信については、現在も解析を継続しています」
通信担当者が説明する。
「音声と思われる部分に規則性はあります。ただし、機械信号など同期方式と符号化方式の推定に時間がかかっています」
「日本語らしきものはないのか」
「明確には確認できていません」
「向こうが、こちらの放送を受信している可能性は」
「あります。昨夜発進した飛行物体が、広い周波数帯を走査していた形跡があります」
防衛庁から派遣された担当官が口を挟む。
「ただし、相手が日本語を理解している保証はありません。飛行物体が収集したのも、軍事情報や電波特性だけかもしれません」
「それでも人間なんだろう」
竹流は、壁面に映し出された島の映像を見た。
昼を迎え、昨夜より鮮明になっている。
緑地があり、不規則だが道路がある。
洋風の建物に、学校のように見える施設。
建物の屋上や広場には、やはり多くの人影が集まっていた。
望遠映像でも、年齢や性別までは判別できない。
ただ、軍隊が展開しているようには見えなかった。
武器を並べているわけでもないし、隊列を組んでいるわけでもない。
人々は集まり、海と都市を見下ろして状況を理解できず、外を眺めている。
竹流には、そう見えた。
「島の中に食料がある保証は?」
問いかけると、農林関係の官僚が資料を確認した。
「上空から耕作地らしき場所は狭いですが確認されています。倉庫、温室と思われる施設もあります。ただし、備蓄量は不明です」
「水は」
「給水施設らしきものがあります。しかし、外部から切り離された状態と想定した場合、どの程度維持できるかは分かりません」
「人数は? 推測でよいので」
「推定不能です。数千から数万の幅があります」
「数万ですか……」
竹流は小さく繰り返した。
数千、場合によっては数万人が、突然、見知らぬ海の上へ放り出された。
それが事実なら、彼らが最初に必要とするのは、国際法の説明ではない。
「米だ」
「コーヒーですか? 首相」
秘書官が聞き返した。
室内の何人かが、何を言っているのか分からない顔をした。
「米は足りているかと聞いてみろ」
「米、ですか」
「食べ物だ。水だ。医薬品だ。話が通じるかどうかを考える前に、困っているかどうかを確かめましょう」
外務省の担当者が慎重に口を開く。
「総理、支援物資を送るという意味でしょうか。まだ接触方法が確立していませんが」
「船を出してください」
「島は空中に浮遊しています。接岸は不可能です」
「真下まで持っていけばいけばいいでしょう」
「相手が攻撃と判断する危険があります」
「武装しない船を使ってください。甲板に食料を積む。乗員は最小限にして、島の下へ近づく前に退避させれば問題ありません」
「物資を受け取る方法がありません」
「それは向こうが考える。少なくても回収できる、できない、しないを観測できます」
なるほどと閣僚たちが思うなか、国防関係者が難色を示した。
「相手が、高度な飛行技術と対核能力を持っている可能性を考えれば、食料の提供は侮辱と受け取られるかもしれません」
「腹が減っていないなら、そう答えればいいのです」
「答えられないから困っているのです」
「だったら、字で書く」
竹流は机上の書類を一枚取り、裏面に大きく文字を書いた。
紙面には収まりきらない。
途中で手を止める。
「もっと大きいものはないか」
「何をお書きになるのですか」
「食べ物は足りていますか、と」
「日本語で?」
「まずは日本語です。英語も並べます。絵も描きましょう」
外務省の担当者が困惑する。
「絵、ですか」
「米と水と薬の絵です。必要なら丸。いらないならばつ。言葉が分からなくても、多少は伝わるはずです」
「総理、それは外交交渉というより、遭難者の救助です」
「遭難者ではないと、誰が確認したのですか?」
誰も答えなかった。
分下は椅子から立ち上がった。
彼は調整型の首相である。背が低く、温和で、いつも笑顔がそのままシワになったかのようなおじいちゃんである。
ここまでしっかりと、これをしろという人物だったろうか?
そんな空気が室内に広がっていた。
「我々は、相手が国家か、研究施設か、学校かさえ分かっていないのです。代表者がいるかも分からない。なら、最初に聞くことは一つだ」
口調が変わった。島の映像を指す。
「あそこで暮らしている人間が、今日の昼飯を食べられるのか」
それから、日本政府の動きは速かった。
大規模な外交使節を編成するより、食料を積んだ船を用意する方がはるかに簡単だった。
海上保安庁の船を前面へ出せば警戒される。
海上自衛隊の艦艇など論外だった。
最終的に選ばれたのは、政府が借り上げた大型の貨物船だった。
白い布で甲板の大部分を覆い、その上に物資を並べる。
米。保存食。飲料水。粉乳。医薬品。衛生用品。
どれも密封されたまま、内容が分かる写真と絵を添えた。
甲板中央には、船上からでも島上部からでも読めるよう、巨大な布が広げられた。
何十人もの職員が、太い刷毛で文字を書く。
日本語と英語に、書けるだけの言語。もちろん、絵記号。ピクトグラムなど最適だった。
文章は短くした。
――たべものは ありますか。
――みずは ありますか。
――ひつようなら はこびます。
その下に、米袋、水筒、薬瓶の絵。
必要なら丸。不要ならばつ。
「漢字を使わないのですか」
官房長官が尋ねた。
「子供がいるかもしれない」
分下は答えた。
島の住人が日本語を読めるとしても、難しい漢字まで通じるとは限らない。
子供達だけの遭難者、という可能性もある。
ひらがなであれば、少なくとも日本語を知る者には読める可能性が高い。
いまにも雨が降りそうな曇天の下、貨物船が東京湾へ出る。
護衛艦艇は遠方へ置き、戦闘機も近づけない。
船は一定の距離で停止し、警笛も鳴らさず、ただ甲板を島へ向けた。
官邸の大型画面には、上空から撮影された映像が流れていた。
「島側に動きがあります」
報告が入り、映像にみなが視線を向ける。
建物の屋上や外周部へ、人影が集まっていく。
双眼鏡のようなものを使っている者もいるらしい。
「物資へ接近する飛行物体は」
「確認されません」
「攻撃の兆候は」
「ありません」
────船は動かない。
島側にも目立った変化はない。
「読めないのでしょうか」
誰かが呟いた。
「あるいは、読めても対応を協議している」
分下は画面を黙って見続けた。
急がせてはいけない。
日本側でさえ、行動を決めるまで何時間もかかった。
向こうも同じはずだ、いや同じだ。
「島の一部で、光が変化しています」
通信担当者が言った。
映像が切り替わる。
島上部の建物。
昼間なので分かりにくいが、それでも曇天の空。窓の明かりが規則的に点滅していた。
「信号ですね、モールスでは?」
「一致しません」
「文字を作ろうとしているのでは」
映像を拡大する。
一棟だけではない。
複数の建物で、窓の照明が消えたり点いたりしている。
最初は不規則に見えた。
だが、上空から全体を見ると、明かりの配置が文字の形へ近づいていく。
「日本語です」
担当者の声が上ずった。
「窓の明かりで、カタカナを作っています」
官邸の全員が画面を見た。
島上部に並ぶ建物の窓。
点灯した部屋と消灯した部屋。
その組み合わせが、大きな文字を作っている。
一文字づつ、ゆっくりと読む
「タ……リ……テ……」
「た、り、て、い、る」
誰かが読み上げた。
最後に、短い一文が作られる。
――たりている ありがとう。
官邸の中で、誰も声を出さなかった。
分下はゆっくりと椅子へ腰を下ろし、ゆっくりと肩から力が抜ける。
「読めたんだな」
「はい、日本語を理解しています」
官房長官が答えた。
「会話が成立したな」
たべものはあるか? たりてる、ありがとう。たった一往復だった。
ほとんどなにもいまだにわからないが、意思は通じた。
相手は、こちらの問いを理解して感謝を返した。
言葉が読めただけでなく、統制して窓の明かりで文字を返してきた。
よく見れば、カタカナで使用しないであろう窓はカーテンやブラインドで閉じられている。
よりわかりやすくするためだろう。かなりの工夫が感じられる。
分下は両手で顔を覆った。
笑っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からなかった。
「次の文章を作りましょう」
「何と」
分下は少し考えた。
外務省が用意する外交文書なら、所属、目的、代表者、交渉意思を尋ねるだろう。
だが、最初から長い文章を送れば、また意味が通じなくなるかもしれない。
「けが人はいますか」
巨大な布へ、新しい文字が書かれる。
貨物船の甲板に広げられる。
島では、再び建物の灯りが動き始めた。
窓明かりが、一文字ずつ形を作る。
――いない。
しばらくして、もう一文が加わった。
――こちらも はなしたい。
その瞬間、危機管理センターの空気が変わった。
昨日から続いていた警報と怒号と恐怖。
核戦争への怯え。
未知の兵器への警戒。
それらの向こうに、初めて道が見えた。
「こちらも話したい、か」
竹流は何度も、その文字を読み返した。
外務省の担当者が、静かに息を吐く。
「正式な接触へ進めます」
分下は頷いた。
「お願いしますよ。今度は、ちゃんと話しましょう」
窓の明かりで作られた短い文章は、間もなく消えた。
それでも、官邸にいた誰も不安には思わなかった。
沈黙ではない。
次の言葉を考えている時間だと、もう分かっていた。
冷戦世界と学園都市のある日本はモールス信号が違う設定とします。
アルファベットの書き順で、たぶん同じになると思うし、違っても数文字ですからすぐわかると思うのですが……。