「日本が接触に成功したあとでも、まだ情報はないのか」
セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレストフ書記長の問いに、答える者はいなかった。
沈黙そのものが答えとなっている。
クレムリンの会議室には、国家保安委員会、国防省、参謀本部、外務省、宇宙軍、太平洋艦隊から集められた幹部が並んでいた。
机の中央に置かれているのは、東京湾周辺を示す粗い地図だった。
その上に、赤い鉛筆で円が描かれている。写真も映像もない。
日本の首都に近い海上。
そこに、巨大な島が出現した。
島は空中に浮いていて、多数の建造物があり、人間らしき住民がいる。
島から発進した未確認飛行物体は、日本の戦闘機を振り切って華央人民共和国へ向かった。
華央国軍は迎撃した。
核兵器まで使用された可能性がある。
だが核爆発は起きなかった。
未確認飛行物体は東京湾へ戻った。
そして日本政府は、島の住民との接触に成功した。
ソ連が把握している事実は、それだけだった。
情報というより、各国の発表や傍受した通信からつなぎ合わせた噂に近い。
「日本側が交わした文章は?」
ベレストフが尋ねる。
外務次官が資料へ目を落とした。
「食料と水が足りているかを日本側が問い、島側が『足りている、ありがとう』と返答した模様です。その後、『こちらも話したい』という意思表示があったとされています」
「模様、か」
「日本政府は、正式には交信成立とだけ発表しています。文章の全文は確認できていません」
「では、なぜ内容を知っている」
「日本国内の報道関係者から断片的に漏れています」
「日本の報道関係者が知っていて、我々が知らないのか?」
外務次官は答えなかった。
書記長の発言は非難ではなく、事実の確認だった。
そして、その事実こそが最も重かった。
「衛星画像は」
宇宙軍司令官が口を開く。
「衛星通過時が曇天のため、雲量と軌道条件が悪く、事件発生直後の鮮明な画像は得られていません。後続の偵察衛星で、東京湾上空に異常な構造物が存在することは確認しました」
「構造物? 島の上に人工的な都市があると?」
「都市とも島と断定できる解像度ではありません。現在、大使館で録画したテレビ映像をこちらに転送中です」
「それは遠影なのだろ? だが、アメリカは島だと認識している」
「アメリカの光学偵察能力は、我々より上です」
室内の空気がわずかに重くなる。
「飛行物体については?」
「熱源と航跡の一部を捕捉した可能性があります。しかし、記録は断片的です。航空機かミサイルかさえ判別できません」
「華央国は、その物体を迎撃したのだろう」
「そのようです」
「ならば、華央国は見ているはずだ」
華央国の地上レーダーは、未確認飛行物体を追跡した。
沿岸基地からミサイルを多数発射した。
戦闘機まで接近させた可能性が高い。
核ミサイルの残骸が海へ落ちたなら、それを回収できるのも華央国だ。
この事件について、最も多くの物証を持つ国は、ソ連の同盟圏に属する華央人民共和国であるはずだった。
「華央国からの回答は?」
外相が立ち上がる必要もないのに、立ち上がって答える。
「現在、関係機関が調査中である。国家安全保障に関わるため、情報の整理には時間を要する。友好国には適切な時期に説明する――以上です」
「適切……適切だと? 適切な時期とはいつだ」
「回答はありません」
「映像の提供は? レーダー記録は?」
「ありません。提供されていません」
「核兵器を発射したのか、問いただしたのか?」
「はい。その質問にも明確な回答していません」
ベレストフは椅子の背へ身体を預けた。
長いため息が漏れた。
「……もう一度問い合わせろ」
「既に三度、正式に照会しています」
「よろしい。ならば四度目を送れ」
「どの程度強い表現を使いますか」
よい確認だという目を向けたあと、ベレストフ書記長は少し考えた。
「同盟国として重大な懸念を共有する用意がある、と伝えろ」
外相の眉がわずかに動いた。
共有する用意がある。
通常、外交上は穏当な表現だった。
しかし、この場合は逆だった。
こちらは何も知らず、共有すべき情報を持っているのは華央国だけだ。
それでも、情報を寄越せと正面から圧力をかければ、華央国はさらに口を閉ざすかもしれない。
核兵器の無断使用が事実なら、なおさらだった。
「太平洋艦隊からは」
海軍総司令官が報告する。
「日本近海へ展開可能な艦艇を選定中です。ただし、米海軍が既に監視を強化しています。こちらが大規模に動けば、緊張を高めます」
「動けば、アメリカに利用される……か」
「はい」
何をしても遅い。
偵察衛星を向けても、アメリカは先に見ている。
艦隊を動かしても、現場は日本と米軍に押さえられている。
日本へ問い合わせても、回答は接触の準備中で、文字通り取り付く島がない。
華央国へ問い合わせても、調査中。
情報機関へ命じても、対象に近づく手段がない。
何もない。
何もないから、何も決められない。
敵なのか。国家なのか。難民なのか。
そもそも人間なのか。
核兵器を無力化したという情報さえ、本当かどうか確認できない。
「アメリカ側の動きは」
国家保安委員会議長が答える。
「日本を前面に置きながら、通信解析、科学調査、危機管理支援の名目で接触へ参加しようとしています」
「らしいな。当然だ」
「中央情報局も動いています」
「何を狙っている」
「全てでしょう」
それだけは、情報がなくても分かった。
核ミサイルを無効化する何かが実在するなら、第二次世界大戦後の軍事均衡を一夜で過去のものにする。
アメリカは日本を窓口にして入り込む。
日本は、目の前の住民を支援しようとしている。
華央国は、映像も残骸も隠している。
そしてソ連は、会議室の中で各国へ問い合わせを続けている。
「日本へは、公式代表団への参加を申し入れろ」
外相が慎重に尋ねる。
「受け入れるでしょうか?」
「受け入れないだろう。だが申し入れたという事実を残す」
「承知しました」
「アメリカには、事件に関する情報交換を提案する」
「向こうが提供するとは思えません」
「分かっている」
「華央国には四度目の照会を」
実働する高官たちが退出し、会議室に再び沈黙が落ちる。
指示は出したが、どの指示も状況を前へ進めるものではなかった。
ソビエト連邦は超大国だった。
世界の半分へ影響を及ぼし、アメリカと共に人類の生死を左右する核戦力を持つ。
その超大国が今、何も見えないまま、他国から情報が届くのを待っている。
ベレストフは、机の上に置かれた赤い表紙の資料へ目を落とした。
今回の会議の議題とは、まったく関係のない文書だった。
今後もそうだろう。関係しない文書だ。
本来なら、数日後に政治局へ提示する予定だった。
経済再編に行政の透明化。
軍需産業への過度な依存の是正と同時に、地方への権限移譲。
情報公開の段階的拡大を条件に、西側との緊張緩和。
軍事支出を抑え、民生へ資源を振り向け、硬直した国家を、壊れる前に作り直す。
ペレストロイカ。
これはまだ公にしていない言葉だった。
ベレストフが長い間、胸の内で育ててきた夢だった。
ソ連には改革が必要だ。
このままでは、軍事力を維持するために経済が痩せ、経済を隠すために官僚機構が嘘を重ね、嘘を守るために国家が閉じていく。
いずれ、自重に耐えられなくなる。
だから開き、情報を流し、責任の所在を明らかにする。
軍事ではなく生活を豊かにする。
人々が祖国を恐れるのではなく、祖国を信じられるようにしたい。いや、する。
その準備を、ベレストフは進めていた。
だが今、東京湾に島が現れた。
核兵器を無力化するかもしれない飛行物体が現れた。
アメリカはその正体へ近づいている。
華央国は何かを隠している。
ソ連だけが見えていない。
この状況で軍事費を削減できるか? いや、できない。
情報機関を縮小できるか? いや、できない。
国境を開けるか? 論外だ。
軍需工場を民生へ転換できるか? 少なくても今ではない。
答えは明らかだった。
「書記長」
国防相が声をかける。
「極東方面の警戒態勢について、ご決裁を」
ベレストフは赤い資料から目を離した。
「提案を」
「極東軍管区の防空戦力を増強。太平洋艦隊の偵察能力を拡充。偵察衛星計画を前倒し。華央国および日本国内の情報網を再構築します」
「費用はどれほどかかる」
「ぼ、莫大です」
「どこから出すのか?」
「書記長。民生転換計画と行政改革予算を延期すれば、初年度分は確保できます」
民生転換計画は、まさに赤い資料の中心だった。
老朽化した軍需工場を、住宅設備や交通機器の生産へ切り替え、軍のための技術を市民の生活へ戻す。
改革の最初の一歩。
「延期すれば、再開は困難になります」
経済担当の書記が言った。
「工場側は改革そのものを拒否するでしょう。地方党組織も、中央が方針を撤回したと受け取ります」
「そうだな。そのとおりだ」
ベレストフは再び、赤い表紙へ手を置いた。
この文書を政治局へ出せば敵が増え、軍も官僚も地方組織も抵抗する。
それでも出すつもりだった。
ソ連を守るために、ソ連を変える。
そう決めていた。
だが、彼が守ろうとしていた世界そのものが、一夜で変わってしまった。
核兵器が国家を守る最後の保証ではなくなるかもしれない。
未知の力をアメリカが先に手に入れるかもしれない。
同盟国の華央国でさえ、ソ連へ情報を渡さない。
今ここで国家を緩めれば、改革が実る前に外から崩される。
そう考えること自体が、古い体制の論理であることは分かっていた。
脅威を理由に閉じて、秘密を理由に監視する。
国防を理由に生活を後回しにする。
その積み重ねが、今のソ連を作った。
それでも書記長は、国民の未来だけでなく、明日の国境も守らなければならない。
「改革案は延期する」
誰も反応しなかった。
聞き間違いではないかと、確認を待っているようだった。
「行政改革、情報公開、民生転換の全計画を凍結する」
「期限は明記しますか」
経済担当の書記が、かすれた声で尋ねる。
この危機がいつ終わるか分からない。
未知の島の正体が判明した後には、別の軍拡競争が始まっているかもしれない。
「情勢が明らかになるまでだ」
曖昧な答えだった。
政治において、期限のない延期は、しばしば中止と同じ意味を持つ。
「極東方面の増強案を承認する。情報機関の予算も増やせ。宇宙偵察計画を最優先に変更する」
「民生部門への配分は」
「削れ」
「国民生活への影響が出ます」
「それでもだ」
言葉にするたび、胸の中で何かが閉じていった。
ベレストフは赤い資料を手に取って……破らない、焼きもしない。
机の脇に立つ秘書へ渡す。
「私の執務室の金庫へ戻しておけ」
「承知しました」
「封印指定にする」
秘書が一瞬だけ顔を上げた。
「最高機密として、ですか」
「違う」
ベレストフは首を振る。
「誰にも見せるな。だが、捨てるな」
いつか情勢が落ち着いた時。
ソ連が安全だと確認できた時には、もう一度、この文書を取り出せるかもしれない。
そう思いたかった。
だが、秘書が赤い資料を抱えて会議室を出ていく背中を見ながら、ベレストフは理解していた。
夢は、捨てられた時よりも、金庫へしまわれた時の方が静かに死ぬ。
会議は国防計画へ移り、国家を開くための議論は消えた。
残ったのは、国家を守るための議論だけだった。
セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレストフは、東京湾を示す赤い円を見つめた。
そこに何がいるのか、まだ何も分からない。
何も分からないからこそ、彼は改革を止めた。
世界へ向けて開こうとしていた扉を、自分の手で閉ざしまった。
「まず、生き残る」
誰に聞かせるでもなく、書記長は呟いた。
「改革は、生き残った国でしかできない」
それが正しい選択なのか、恐怖に屈しただけなのか。
答えを持つ者は、ソ連のどこにもいなかった。