とある科学の令和冷戦   作:大体三恵

8 / 18
鉄のカーテンから覗き見るもの

「日本が接触に成功したあとでも、まだ情報はないのか」

 

 セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレストフ書記長の問いに、答える者はいなかった。

 沈黙そのものが答えとなっている。

 

 クレムリンの会議室には、国家保安委員会、国防省、参謀本部、外務省、宇宙軍、太平洋艦隊から集められた幹部が並んでいた。

 

 机の中央に置かれているのは、東京湾周辺を示す粗い地図だった。

 その上に、赤い鉛筆で円が描かれている。写真も映像もない。

 日本の首都に近い海上。

 

 そこに、巨大な島が出現した。

 

 島は空中に浮いていて、多数の建造物があり、人間らしき住民がいる。

 

 島から発進した未確認飛行物体は、日本の戦闘機を振り切って華央人民共和国へ向かった。

 華央国軍は迎撃した。

 核兵器まで使用された可能性がある。

 

 だが核爆発は起きなかった。

 

 未確認飛行物体は東京湾へ戻った。

 そして日本政府は、島の住民との接触に成功した。

 

 ソ連が把握している事実は、それだけだった。

 情報というより、各国の発表や傍受した通信からつなぎ合わせた噂に近い。

 

「日本側が交わした文章は?」

 

 ベレストフが尋ねる。

 

 外務次官が資料へ目を落とした。

 

「食料と水が足りているかを日本側が問い、島側が『足りている、ありがとう』と返答した模様です。その後、『こちらも話したい』という意思表示があったとされています」

 

「模様、か」

 

「日本政府は、正式には交信成立とだけ発表しています。文章の全文は確認できていません」

 

「では、なぜ内容を知っている」

 

「日本国内の報道関係者から断片的に漏れています」

 

「日本の報道関係者が知っていて、我々が知らないのか?」

 

 外務次官は答えなかった。

 書記長の発言は非難ではなく、事実の確認だった。

 そして、その事実こそが最も重かった。

 

「衛星画像は」

 

 宇宙軍司令官が口を開く。

 

「衛星通過時が曇天のため、雲量と軌道条件が悪く、事件発生直後の鮮明な画像は得られていません。後続の偵察衛星で、東京湾上空に異常な構造物が存在することは確認しました」

 

「構造物? 島の上に人工的な都市があると?」

 

「都市とも島と断定できる解像度ではありません。現在、大使館で録画したテレビ映像をこちらに転送中です」

 

「それは遠影なのだろ? だが、アメリカは島だと認識している」

 

「アメリカの光学偵察能力は、我々より上です」

 

 室内の空気がわずかに重くなる。

 

「飛行物体については?」

 

「熱源と航跡の一部を捕捉した可能性があります。しかし、記録は断片的です。航空機かミサイルかさえ判別できません」

 

「華央国は、その物体を迎撃したのだろう」

 

「そのようです」

 

「ならば、華央国は見ているはずだ」

 

 華央国の地上レーダーは、未確認飛行物体を追跡した。

 沿岸基地からミサイルを多数発射した。

 戦闘機まで接近させた可能性が高い。

 

 核ミサイルの残骸が海へ落ちたなら、それを回収できるのも華央国だ。

 

 この事件について、最も多くの物証を持つ国は、ソ連の同盟圏に属する華央人民共和国であるはずだった。

 

「華央国からの回答は?」

 

 外相が立ち上がる必要もないのに、立ち上がって答える。

 

「現在、関係機関が調査中である。国家安全保障に関わるため、情報の整理には時間を要する。友好国には適切な時期に説明する――以上です」

 

「適切……適切だと? 適切な時期とはいつだ」

 

「回答はありません」

 

「映像の提供は? レーダー記録は?」

 

「ありません。提供されていません」

 

「核兵器を発射したのか、問いただしたのか?」

 

「はい。その質問にも明確な回答していません」

 

 ベレストフは椅子の背へ身体を預けた。

 長いため息が漏れた。

 

「……もう一度問い合わせろ」

 

「既に三度、正式に照会しています」

 

「よろしい。ならば四度目を送れ」

 

「どの程度強い表現を使いますか」

 

 よい確認だという目を向けたあと、ベレストフ書記長は少し考えた。

 

「同盟国として重大な懸念を共有する用意がある、と伝えろ」

 

 外相の眉がわずかに動いた。

 共有する用意がある。

 通常、外交上は穏当な表現だった。

 

 しかし、この場合は逆だった。

 

 こちらは何も知らず、共有すべき情報を持っているのは華央国だけだ。

 

 それでも、情報を寄越せと正面から圧力をかければ、華央国はさらに口を閉ざすかもしれない。

 核兵器の無断使用が事実なら、なおさらだった。

 

「太平洋艦隊からは」

 

 海軍総司令官が報告する。

 

「日本近海へ展開可能な艦艇を選定中です。ただし、米海軍が既に監視を強化しています。こちらが大規模に動けば、緊張を高めます」

 

「動けば、アメリカに利用される……か」

 

「はい」

 

 何をしても遅い。

 偵察衛星を向けても、アメリカは先に見ている。

 艦隊を動かしても、現場は日本と米軍に押さえられている。

 日本へ問い合わせても、回答は接触の準備中で、文字通り取り付く島がない。

 

 華央国へ問い合わせても、調査中。

 情報機関へ命じても、対象に近づく手段がない。

 

 何もない。

 

 何もないから、何も決められない。

 

 敵なのか。国家なのか。難民なのか。

 

 そもそも人間なのか。

 

 核兵器を無力化したという情報さえ、本当かどうか確認できない。

 

「アメリカ側の動きは」

 

 国家保安委員会議長が答える。

 

「日本を前面に置きながら、通信解析、科学調査、危機管理支援の名目で接触へ参加しようとしています」

 

「らしいな。当然だ」

 

「中央情報局も動いています」

 

「何を狙っている」

 

「全てでしょう」

 

 それだけは、情報がなくても分かった。

 核ミサイルを無効化する何かが実在するなら、第二次世界大戦後の軍事均衡を一夜で過去のものにする。

 

 アメリカは日本を窓口にして入り込む。

 日本は、目の前の住民を支援しようとしている。

 

 華央国は、映像も残骸も隠している。

 

 そしてソ連は、会議室の中で各国へ問い合わせを続けている。

 

「日本へは、公式代表団への参加を申し入れろ」

 

 外相が慎重に尋ねる。

 

「受け入れるでしょうか?」

 

「受け入れないだろう。だが申し入れたという事実を残す」

 

「承知しました」

 

「アメリカには、事件に関する情報交換を提案する」

 

「向こうが提供するとは思えません」

 

「分かっている」

 

「華央国には四度目の照会を」

 

 実働する高官たちが退出し、会議室に再び沈黙が落ちる。

 

 指示は出したが、どの指示も状況を前へ進めるものではなかった。

 

 ソビエト連邦は超大国だった。

 

 世界の半分へ影響を及ぼし、アメリカと共に人類の生死を左右する核戦力を持つ。

 その超大国が今、何も見えないまま、他国から情報が届くのを待っている。

 ベレストフは、机の上に置かれた赤い表紙の資料へ目を落とした。

 

 今回の会議の議題とは、まったく関係のない文書だった。

 今後もそうだろう。関係しない文書だ。

 本来なら、数日後に政治局へ提示する予定だった。

 

 経済再編に行政の透明化。

 

 軍需産業への過度な依存の是正と同時に、地方への権限移譲。

 

 情報公開の段階的拡大を条件に、西側との緊張緩和。

 

 軍事支出を抑え、民生へ資源を振り向け、硬直した国家を、壊れる前に作り直す。

 

 ペレストロイカ。

 

 これはまだ公にしていない言葉だった。

 

 ベレストフが長い間、胸の内で育ててきた夢だった。

 

 ソ連には改革が必要だ。

 

 このままでは、軍事力を維持するために経済が痩せ、経済を隠すために官僚機構が嘘を重ね、嘘を守るために国家が閉じていく。

 

 いずれ、自重に耐えられなくなる。

 

 だから開き、情報を流し、責任の所在を明らかにする。

 

 軍事ではなく生活を豊かにする。

 人々が祖国を恐れるのではなく、祖国を信じられるようにしたい。いや、する。

 

 その準備を、ベレストフは進めていた。

 

 だが今、東京湾に島が現れた。

 核兵器を無力化するかもしれない飛行物体が現れた。

 

 アメリカはその正体へ近づいている。

 

 華央国は何かを隠している。

 

 ソ連だけが見えていない。

 この状況で軍事費を削減できるか? いや、できない。

 情報機関を縮小できるか? いや、できない。

 国境を開けるか? 論外だ。

 軍需工場を民生へ転換できるか? 少なくても今ではない。

 

 答えは明らかだった。

 

「書記長」

 

 国防相が声をかける。

 

「極東方面の警戒態勢について、ご決裁を」

 

 ベレストフは赤い資料から目を離した。

 

「提案を」

 

「極東軍管区の防空戦力を増強。太平洋艦隊の偵察能力を拡充。偵察衛星計画を前倒し。華央国および日本国内の情報網を再構築します」

 

「費用はどれほどかかる」

 

「ぼ、莫大です」

 

「どこから出すのか?」

 

「書記長。民生転換計画と行政改革予算を延期すれば、初年度分は確保できます」

 

 民生転換計画は、まさに赤い資料の中心だった。

 老朽化した軍需工場を、住宅設備や交通機器の生産へ切り替え、軍のための技術を市民の生活へ戻す。

 改革の最初の一歩。

 

「延期すれば、再開は困難になります」

 

 経済担当の書記が言った。

 

「工場側は改革そのものを拒否するでしょう。地方党組織も、中央が方針を撤回したと受け取ります」

 

「そうだな。そのとおりだ」

 

 ベレストフは再び、赤い表紙へ手を置いた。

 この文書を政治局へ出せば敵が増え、軍も官僚も地方組織も抵抗する。

 それでも出すつもりだった。

 

 ソ連を守るために、ソ連を変える。

 

 そう決めていた。

 

 だが、彼が守ろうとしていた世界そのものが、一夜で変わってしまった。

 

 核兵器が国家を守る最後の保証ではなくなるかもしれない。

 

 未知の力をアメリカが先に手に入れるかもしれない。

 同盟国の華央国でさえ、ソ連へ情報を渡さない。

 今ここで国家を緩めれば、改革が実る前に外から崩される。

 

 そう考えること自体が、古い体制の論理であることは分かっていた。

 

 脅威を理由に閉じて、秘密を理由に監視する。

 国防を理由に生活を後回しにする。

 

 その積み重ねが、今のソ連を作った。

 

 それでも書記長は、国民の未来だけでなく、明日の国境も守らなければならない。

 

「改革案は延期する」

 

 誰も反応しなかった。

 

 聞き間違いではないかと、確認を待っているようだった。

 

「行政改革、情報公開、民生転換の全計画を凍結する」

 

「期限は明記しますか」

 

 経済担当の書記が、かすれた声で尋ねる。

 この危機がいつ終わるか分からない。

 未知の島の正体が判明した後には、別の軍拡競争が始まっているかもしれない。

 

「情勢が明らかになるまでだ」

 

 曖昧な答えだった。

 政治において、期限のない延期は、しばしば中止と同じ意味を持つ。

 

「極東方面の増強案を承認する。情報機関の予算も増やせ。宇宙偵察計画を最優先に変更する」

 

「民生部門への配分は」

 

「削れ」

 

「国民生活への影響が出ます」

 

「それでもだ」

 

 言葉にするたび、胸の中で何かが閉じていった。

 ベレストフは赤い資料を手に取って……破らない、焼きもしない。

 

 机の脇に立つ秘書へ渡す。

 

「私の執務室の金庫へ戻しておけ」

 

「承知しました」

 

「封印指定にする」

 

 秘書が一瞬だけ顔を上げた。

 

「最高機密として、ですか」

 

「違う」

 

 ベレストフは首を振る。

 

「誰にも見せるな。だが、捨てるな」

 

 いつか情勢が落ち着いた時。

 ソ連が安全だと確認できた時には、もう一度、この文書を取り出せるかもしれない。

 

 そう思いたかった。

 

 だが、秘書が赤い資料を抱えて会議室を出ていく背中を見ながら、ベレストフは理解していた。

 夢は、捨てられた時よりも、金庫へしまわれた時の方が静かに死ぬ。

 

 会議は国防計画へ移り、国家を開くための議論は消えた。

 

 残ったのは、国家を守るための議論だけだった。

 

 セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレストフは、東京湾を示す赤い円を見つめた。

 

 そこに何がいるのか、まだ何も分からない。

 何も分からないからこそ、彼は改革を止めた。

 世界へ向けて開こうとしていた扉を、自分の手で閉ざしまった。

 

「まず、生き残る」

 

 誰に聞かせるでもなく、書記長は呟いた。

 

「改革は、生き残った国でしかできない」

 

 それが正しい選択なのか、恐怖に屈しただけなのか。

 

 答えを持つ者は、ソ連のどこにもいなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。