とある科学の令和冷戦   作:大体三恵

9 / 19
ティーカップを回す国

「横須賀のラジオが、島に音楽を流したそうですな。これに反応するか、一つ賭けませんか」

 

 そう言って、サー・マルコム・レンは、銀のティーポットへ手を伸ばした。

 

 ロンドン、セント・ジェームズ地区。

 通りから見れば何の変哲もない石造りの建物の二階に、古い会員制クラブの談話室があった。

 

 正式な会員名簿はあるが、誰がいつ来て、誰と何を話したかについては、記録が残らない。

 

 政府機関ではないし、王室の付属施設でもない。情報機関の支部でもない。しかし伝統はある民間のクラブだ。

 

 ただし、午後三時になると、元軍人、外交官、学者、貴族、銀行家、新聞社主、そして現在の職業を尋ねても曖昧に笑う者たちが、紅茶と菓子を前に世界について考える。

 

 首相官邸で決まったことも、まだ官邸に届いていないことも、ここでは同じ卓上へ並べられた。

 なんのために?

 賭けのために。

 

「反応なら、もうしていますよ」

 

 窓際の長椅子に座るハーコート氏が言った。

 年齢は六十前後に見える。

 名簿には、単に政府顧問とだけ記されている人物だ。

 

「放送開始から十二分後、島の南側にある通信設備が、横須賀方面へ指向性を変えた」

 

「それは聴取しただけでしょう」

 

 若い物理学者のフィンチ博士が、スコーンを割りながら言う。

 

「音楽に反応した証拠ではない。新たな電波源を分析しただけかもしれません」

 

「分析しながら踊っている可能性もある。こう、うきうきうき、と」

 

 ソーン卿が、杖を片手に身体を揺らして言った。踊っているようには見えない。

 

 この老人は、競馬、選挙、戦争、王族の結婚、降雨確率まで、賭けの対象にできないものは存在しないと信じている。

 

「では条件を決めましょう。二十四時間以内に、島側が横須賀の放送へ何らかの返信を送る。三対一でどうです」

 

「安すぎますな」

 

 マルコムが紅茶を注ぐ。

 

「アメリカ人の放送をどんなものを?」

 

「録音があります」

 

 ハーコートが答えた。

 ソーン卿が、卓上の小型録音機へ手を伸ばす。

 再生ボタンを押すと、室内へ陽気すぎる男の声が響いた。

 

『ミルキーウェイからこぼれ落ちた子猫ちゃんたちぃ! 地球のシャワーは気持ちイイぜ!』

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 暖炉の上に置かれた古い時計だけが、静かに秒を刻んだ。

 

『東京湾の空に浮かぶプリティ・アイランド! 今夜もご機嫌かい、ベイビー!』

 

 ソーン卿が録音を止めた。

 

「どう評価します?」

 

「不快です」

 

 フィンチ博士が即答した。

 

「うむ、下品だ」

 

 クラブ最年長のペンブルック公が言った。

 

「しかし、これはまあ、実にアメリカ的ですな」

 

 マルコムが続ける。

 

「そして、おそらく非常に有効だ」

 

 マルコムの評価に、フィンチ博士が顔をしかめた。

 

「あれがですか」

 

「未知の相手へ、最初から国家、所属、軍事力、意図を尋ねれば、警戒される。音楽を流し、馬鹿なことを言い、退屈している者だけを振り向かせる。相手が返事をすれば、年齢、言語、文化、通信能力、生活時間帯の全てが少しずつ分かる」

 

「CIAですか」

 

「当然でしょう」

 

 ハーコートが紅茶を一口飲んだ。

 

「声の主がCIA職員かどうかは重要ではない。放送設備、周波数選定、受信分析は彼らの仕事だ」

 

「本人は本職のDJかもしれませんな」

 

 マルコムが言う。

 

「その方が成功する。工作員が陽気な男を演じるより、本当に陽気な男へ台本を渡した方が自然だ」

 

「台本どおりに喋る男には聞こえませんでしたが」

 

「それも含めて自然です」

 

 ソーン卿は、小さな手帳へ何かを書き込んだ。

 

「島から最初に返される非公式通信は、音楽のリクエスト。五対二」

 

「三対一なら乗りましょう」

 

 マルコムが言う。

 

「ただし、返信者は成人ではない。学生です」

 

「なぜ学生だと?」

 

「島の建物を見れば分かる」

 

 マルコムは卓上に置かれた航空写真を指した。

 

 東京湾に浮かぶ巨大な陸塊。

 

 洋風の校舎。寄宿舎。これは非常に英国の形式に似ていた。

 

 庭園に運動施設。

 通学路を思わせる道路配置。

 

「軍事基地としては花壇が多すぎる。都市としては学校らしき建物が多すぎる。研究施設としては寄宿舎が華美すぎる」

 

「日本の秘密兵器開発区画では」

 

 フィンチ博士が言う。

 

「おもしろい。実におもしろい。空に浮く秘密兵器を建造できる国が、甲板へ手書きで『食べ物はありますか』と掲げると思いますか」

 

 ペンブルック公が尋ねる。

 

「偽装かもしれませんぞ」

 

「何でも偽装と言えば、考察にならない」

 

 ハーコートが淡々と言った。

 

「日本は、昨日の夜、島との意思疎通に成功した。貨物船へ食料と水を積み、大きな文字を書いた。島側は建物の照明で返答した」

 

「足りている。ありがとう」

 

 マルコムが静かに読み上げた。

 

「そして、こちらも話したい」

 

「うむ、実に日本らしい。日本らしい始め方ですな」

 

 ソーン卿が楽しそうに言う。また動き出しそうだ。踊りとはいえない動きだ。

 

「日本らしい?」

 

 フィンチ博士が尋ねる。

 

「アメリカなら、まず代表者を出せと言う。ソ連なら、所属を明らかにせよと言う。華央国なら、領空から退去せよと言う。我々なら、誰の土地かを確認する」

 

「日本は、飯を食っているかと?」

 

 ペンブルック公は満足そうに頷いた。

 

「悪くない。うむ、悪くない」

 

「外交としては原始的ですな」

 

 フィンチ博士はなおも抵抗した。

 

「だから成功したのだろう」

 

 ハーコートが言う。

 

「高度な通信方式の解析に固執していた各国より先に、布へ文字を書いた。言語が通じるか分からない相手に対し、最初に食料の不足を尋ねた。あれで少なくとも島側は、日本が直ちに攻撃する意思を持たないと理解した」

 

「分下竹流は、存外やりますな」

 

 マルコムが言った。

 

「危機に強い首相という評判はなかったはずですが?」

 

「評判は、危機が起きる前に作られるものです。今が、いえ。先ほどまでが危機でした」

 

 ペンブルック公が言う。

 

「資質は、危機が起きたあとに分かる」

 

「米国はどう評価します」

 

 ソーン卿が尋ねた。

 

「コールドウェルは日本を前面へ出すでしょう」

 

 ハーコートが自論で答える。

 

「島は日本の首都圏に現れた。最初の接触権を奪えば、侵略的に見える。だから日本に扉を開かせ、その扉が開いた瞬間、支援の名目で横に立つ」

 

「横ではなく後ろでしょう?」

 

 フィンチ博士が、アメリカとはそういう国だという顔でいった。

 

「うむ。そう。最初は後ろですな」

 

 マルコムはカップを持ち上げる。

 

「気づいた時には隣にいる。そして、次に気づいた時には、会議室で最も大きな資料を持っている」

 

「コールドウェルなら、本人は善意だと思っているでしょうな」

 

 ペンブルック公が訳知り顔に言う。

 

「米国には力がある。ゆえに保護する義務がある。その保護を拒む者は、自分の利益を理解していない。あの男の世界観は、その程度には一貫している。大変、有能です」

 

「危険かどうかは、相手が米国の保護を望むかで変わるか」

 

「そしてCIAは既に勝手に放送を始めている」

 

 ハーコートが録音機へ視線を向けた。

 

「日本政府が外交文書を整えている間に、誰か一人でもあのDJへ返事をすれば、米国は公式交渉の外側に個人的な回線を持つ」

 

「下品な声で築かれた外交経路ですな」

 

「歴史上の外交経路など、たいてい後から見れば似たようなものです」

 

 マルコムは笑った。

 

「華央国については?」

 

 ソーン卿が次の項目へ進む。

 

「最悪の挨拶をして、最高の資料を得た」

 

 ハーコートが答えた。

 

「ミサイルを撃ち、核兵器まで使った可能性がある。だが、接近した戦闘機が対象を撮影しているはずだ。核ミサイルの残骸も、海から回収できる」

 

「世界で最も詳しく見た国が、世界で最も嫌われる可能性がある」

 

 フィンチ博士の感想は、ただしく世界を捉えていた。

 

「外交とはよくできていますなぁ」

 

 マルコムが応じ、まったくその通りという意味でうなずく。

 

「もしも戦闘機のカメラに何も映っていなければ、華央国はとっくに公表している。日本の新兵器による侵略だと非難できるからな」

 

「隠しているということは、日本の兵器だと断定できない何かが映った、というわけですな」

 

 ハーコートが続ける。内心、これも賭けにできたな、と思いつつ。

 

「人間でしょうか?」

 

「人間、それも少女だという噂があります」

 

 マルコムの発言に対し、誰も情報源を尋ねなかった。

 この部屋では、聞かないことも礼儀だった。

 

「三人」

 

 別の卓で新聞を読んでいた男が、紙面から目を離さずに言った。

 それまで会話へ参加していなかった。

 

「一機に三人。うち一人が飛び出し、核弾頭を止めた」

 

 フィンチ博士がその男を見る。

 

「どこからその話を?」

 

「上海で保険を扱う友人がいましてね」

 

 明らかに説明になっていなかった。

 

「華央国上層部は、三天女と呼んでいるそうです」

 

「天女? いやスリーですか。いやはや、もう確定ではないですか」

 

 ソーン卿が賭けの対象にならないが、重要だと手帳へ書き加える。

 

「ソ連はどうなのでしょうか?」

 

 ペンブルック公が尋ねた。

 

 今度は、誰もすぐには答えなかった。

 

「遅れていますな」

 

 やがてハーコートが確定ではないが、と添えながら答える。

 

「衛星では十分に見えていない。日本の接触には入れない。華央国は情報を渡さない。アメリカからも得られない」

 

「ベレストフは改革を止めるでしょうか」

 

 フィンチ博士が尋ねる。

 

「止める。賭けるぞ」

 

 ペンブルック公が言った。勝てるという顔だ。

 

「脅威が見えない時、国家は目を増やす。耳を増やす。兵を増やす。その費用は、未来から取る」

 

「彼は開明派ですが?」

 

「だからこそ止める」

 

 老人は砂糖を入れずに紅茶を飲んだ。

 

「改革を嫌う者なら、喜んで軍拡する。改革を望む者は、改革によって国が弱った時に何が起きるかを想像する。いま彼の前には、核兵器を無力化したかもしれない存在がいる。しかも、アメリカの方が先に近づいている」

 

「ソ連にとっては、存在そのものが反改革的だと」

 

「未知は、常に強硬派の味方だ」

 

 その通りなので、しばらく誰も喋らなかった。

 給仕が新しい湯を運び、冷めたポットを交換する。

 窓の外では、ロンドンの午後が静かに曇り始めていた。

 

「それで、我が国は何をするのです」

 

 フィンチ博士が尋ねた。

 

「何もしない」

 

 マルコムが毅然と答えた。

 

「正確には、全員が別々のことをする」

 

「まず無難に外務省は日本へ問い合わせますな」

 

 ハーコートが指を折る。

 

「海軍は航跡を分析し、情報機関は華央国の映像を探す。学者は浮遊原理を論じて、新聞は日本の秘密兵器説を書く。王室周辺では、島側が君主制かどうかを気にする」

 

「そして我々は賭けるぞ」

 

 ソーン卿が嬉しそうに言った。また動き出した。踊りなっていない。

 

「そして国策が決まる頃に、誰が正しかったか分かるだけだ」

 

「首相はどう考えているのでしょう」

 

「首相の考えは首相に聞けばよい」

 

 ハーコートの答えは単純明快だった。

 

「情報機関の考えは情報機関へ。国王陛下の感想は王室へ。海軍の判断は海軍へ。そして、それぞれ違う答えが返る」

 

「それでは、英国として何を考えているか分からないではありませんか? 国家として意思統一は?」

 

 フィンチ博士の言葉に、老人たちは一斉に彼を見た。

 それから、マルコムが穏やかに笑った。

 

「そのとおり。これでこそ賭けが成立する」

 

 まるで、それこそが望ましい状態であるかのように。

 ソーン卿は手帳を開き、白い紙の中央に線を引いた。

 

「では、本日の賭けを整理しましょう」

 

 万年筆を走らせる。

 

「第一。島の正体」

 

 彼は候補を読み上げた。

 

「日本の極秘研究都市。十対一」

 

「買いません」

 

 マルコムが手を下げる。

 

「未来の日本から来た教育都市。六対一」

 

「2ポンド」

 

 ハーコートが応じた。

 

「異なる歴史を歩んだ別世界の学術都市。八対一」

 

「5ポンド」

 

 フィンチ博士が言った。

 

「宇宙から来た人類系植民都市。十二対一」

 

「1ポンド」

 

「国家ではなく、学生だけで構成された巨大な寄宿学校。十五対一」

 

 マルコムがカップを置いた。

 

「十ポンド」

 

 フィンチ博士が驚く。

 

「本気ですか?」

 

「建物を見た印象です」

 

「少女たちの集団的な精神現象が、都市ごと物質化した。三十対一」

 

 誰も手を挙げなかった。

 別の卓から声が飛ぶ。

 

「少女の幽霊たちならば1ポンド」

 

 オカルト好きらしい賭け条件の訂正だった。

 

「乗った」

 

 ソーン卿は楽しそうに記録した。

 

「第二。三人の少女について」

 

「姉妹」

 

「同級生」

 

「軍人」

 

「学生」

 

「人間ではない」

 

「三人が揃わなければ、あの兵器を動かせない」

 

 マルコムが最後の説を出した。

 

 ハーコートがわずかに目を細める。

 

「根拠は」

 

「一人乗りに見える機体へ、三人で密着して乗っていた」

 

「それは……単に狭かったのでは」

 

「それなら一人を降ろせばよい。三人必要だったから、無理に乗ったと考える方が面白い」

 

「面白い方を選ぶのですか」

 

「賭けですから」

 

 まあその通りですなと、ソーン卿が倍率を書く。

 

「三人の接触が兵器の起動条件。二十対一」

 

「十ポンド」

 

 マルコムが言った。

 

「あなた、今日はやけに攻めますな」

 

「老後の楽しみですからなぁ」

 

「第三。最初に島側から名を呼ばれる外国人」

 

「日本の首相」

 

「日本の外交官」

 

「アメリカ大統領」

 

「華央国のパイロット」

 

「横須賀のDJ」

 

 最後の候補が出た瞬間、全員が少し考えた。

 録音機の中には、先ほどの陽気な声が残っている。

 

『ミルキーウェイからこぼれ落ちた子猫ちゃんたちぃ!』

 

「DJ」

 

 マルコムが言った。

 

「私もDJに」

 

 ソーン卿が応じる。

 

「本気ですか」

 

 汗を拭きながらフィンチ博士が呆れる。

 

「日本は国家として会話する。アメリカは個人へ話しかける」

 

 ハーコートが説明した。

 

「ならば名を呼ばれるのは、個人の方が早い」

 

「では倍率は低くなりますな。二対一」

 

「三対一にしてください」

 

「二・五」

 

「乗りましょう」

 

 硬貨と紙幣が卓上へ置かれていく。

 最後に、ペンブルック公がゆっくりと財布を取り出した。

 

「私は別の賭けをしよう」

 

「何です」

 

「島の少女たちが、最初に信用する国だ」

 

「それは流石に日本では?」

 

 賭けにならないという意味で、フィンチ博士が言う。

 

「日本は既に、信用され始めている」

 

「ではアメリカ」

 

「好かれることと信用されることは違うだろう」

 

「華央国は、まずありませんな」

 

「少なくとも当分はな」

 

「ソ連も遅れている」

 

 ペンブルック公は、一枚の紙幣を卓上へ置いた。

 

「英国です」

 

 室内に笑いが起きた。

 

「まだ何もしていませんよ」

 

「だからだ」

 

 老人は平然としていた。

 

「日本は食料を差し出した。アメリカは音楽を流した。華央国はミサイルを撃った。ソ連は情報を求めている」

 

「英国は紅茶を飲んで賭けている」

 

「相手が疲れた頃に話を聞くには、ちょうどよい」

 

「倍率はどうする?」

 

 ソーン卿が尋ね、ペンブルック公は少し考えた。

 あまりに英国は関係がなさすぎる。

 

「五十対一で」

 

「百です」

 

「七十五」

 

「成立」

 

 万年筆が紙の上を走る。

 

 その日のアフタヌーンティーは、いつもより長く続いた。

 

 日本では、政府が次の文章を島へ送る準備をしていた。

 

 アメリカでは、陽気なDJが次の放送台本を無視していた。

 

 華央国では、三天女の映像が最高機密として複製されていた。

 

 ソ連では、改革計画が金庫へ戻されていた。

 

 そして英国では、誰一人として国家の正式な意思を代表しない男たちが、世界の行方に倍率をつけていた。

 

 島が何で、三人の少女は何者で、誰が最初に信頼を得るのか。

 

 ただひたすら、賭け札の片隅には、マルコムの筆跡で小さく一つの説が書き足されていた。

 

 だが冷戦の行く末に、倍率はつけられていなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。