「横須賀のラジオが、島に音楽を流したそうですな。これに反応するか、一つ賭けませんか」
そう言って、サー・マルコム・レンは、銀のティーポットへ手を伸ばした。
ロンドン、セント・ジェームズ地区。
通りから見れば何の変哲もない石造りの建物の二階に、古い会員制クラブの談話室があった。
正式な会員名簿はあるが、誰がいつ来て、誰と何を話したかについては、記録が残らない。
政府機関ではないし、王室の付属施設でもない。情報機関の支部でもない。しかし伝統はある民間のクラブだ。
ただし、午後三時になると、元軍人、外交官、学者、貴族、銀行家、新聞社主、そして現在の職業を尋ねても曖昧に笑う者たちが、紅茶と菓子を前に世界について考える。
首相官邸で決まったことも、まだ官邸に届いていないことも、ここでは同じ卓上へ並べられた。
なんのために?
賭けのために。
「反応なら、もうしていますよ」
窓際の長椅子に座るハーコート氏が言った。
年齢は六十前後に見える。
名簿には、単に政府顧問とだけ記されている人物だ。
「放送開始から十二分後、島の南側にある通信設備が、横須賀方面へ指向性を変えた」
「それは聴取しただけでしょう」
若い物理学者のフィンチ博士が、スコーンを割りながら言う。
「音楽に反応した証拠ではない。新たな電波源を分析しただけかもしれません」
「分析しながら踊っている可能性もある。こう、うきうきうき、と」
ソーン卿が、杖を片手に身体を揺らして言った。踊っているようには見えない。
この老人は、競馬、選挙、戦争、王族の結婚、降雨確率まで、賭けの対象にできないものは存在しないと信じている。
「では条件を決めましょう。二十四時間以内に、島側が横須賀の放送へ何らかの返信を送る。三対一でどうです」
「安すぎますな」
マルコムが紅茶を注ぐ。
「アメリカ人の放送をどんなものを?」
「録音があります」
ハーコートが答えた。
ソーン卿が、卓上の小型録音機へ手を伸ばす。
再生ボタンを押すと、室内へ陽気すぎる男の声が響いた。
『ミルキーウェイからこぼれ落ちた子猫ちゃんたちぃ! 地球のシャワーは気持ちイイぜ!』
しばらく、誰も口を開かなかった。
暖炉の上に置かれた古い時計だけが、静かに秒を刻んだ。
『東京湾の空に浮かぶプリティ・アイランド! 今夜もご機嫌かい、ベイビー!』
ソーン卿が録音を止めた。
「どう評価します?」
「不快です」
フィンチ博士が即答した。
「うむ、下品だ」
クラブ最年長のペンブルック公が言った。
「しかし、これはまあ、実にアメリカ的ですな」
マルコムが続ける。
「そして、おそらく非常に有効だ」
マルコムの評価に、フィンチ博士が顔をしかめた。
「あれがですか」
「未知の相手へ、最初から国家、所属、軍事力、意図を尋ねれば、警戒される。音楽を流し、馬鹿なことを言い、退屈している者だけを振り向かせる。相手が返事をすれば、年齢、言語、文化、通信能力、生活時間帯の全てが少しずつ分かる」
「CIAですか」
「当然でしょう」
ハーコートが紅茶を一口飲んだ。
「声の主がCIA職員かどうかは重要ではない。放送設備、周波数選定、受信分析は彼らの仕事だ」
「本人は本職のDJかもしれませんな」
マルコムが言う。
「その方が成功する。工作員が陽気な男を演じるより、本当に陽気な男へ台本を渡した方が自然だ」
「台本どおりに喋る男には聞こえませんでしたが」
「それも含めて自然です」
ソーン卿は、小さな手帳へ何かを書き込んだ。
「島から最初に返される非公式通信は、音楽のリクエスト。五対二」
「三対一なら乗りましょう」
マルコムが言う。
「ただし、返信者は成人ではない。学生です」
「なぜ学生だと?」
「島の建物を見れば分かる」
マルコムは卓上に置かれた航空写真を指した。
東京湾に浮かぶ巨大な陸塊。
洋風の校舎。寄宿舎。これは非常に英国の形式に似ていた。
庭園に運動施設。
通学路を思わせる道路配置。
「軍事基地としては花壇が多すぎる。都市としては学校らしき建物が多すぎる。研究施設としては寄宿舎が華美すぎる」
「日本の秘密兵器開発区画では」
フィンチ博士が言う。
「おもしろい。実におもしろい。空に浮く秘密兵器を建造できる国が、甲板へ手書きで『食べ物はありますか』と掲げると思いますか」
ペンブルック公が尋ねる。
「偽装かもしれませんぞ」
「何でも偽装と言えば、考察にならない」
ハーコートが淡々と言った。
「日本は、昨日の夜、島との意思疎通に成功した。貨物船へ食料と水を積み、大きな文字を書いた。島側は建物の照明で返答した」
「足りている。ありがとう」
マルコムが静かに読み上げた。
「そして、こちらも話したい」
「うむ、実に日本らしい。日本らしい始め方ですな」
ソーン卿が楽しそうに言う。また動き出しそうだ。踊りとはいえない動きだ。
「日本らしい?」
フィンチ博士が尋ねる。
「アメリカなら、まず代表者を出せと言う。ソ連なら、所属を明らかにせよと言う。華央国なら、領空から退去せよと言う。我々なら、誰の土地かを確認する」
「日本は、飯を食っているかと?」
ペンブルック公は満足そうに頷いた。
「悪くない。うむ、悪くない」
「外交としては原始的ですな」
フィンチ博士はなおも抵抗した。
「だから成功したのだろう」
ハーコートが言う。
「高度な通信方式の解析に固執していた各国より先に、布へ文字を書いた。言語が通じるか分からない相手に対し、最初に食料の不足を尋ねた。あれで少なくとも島側は、日本が直ちに攻撃する意思を持たないと理解した」
「分下竹流は、存外やりますな」
マルコムが言った。
「危機に強い首相という評判はなかったはずですが?」
「評判は、危機が起きる前に作られるものです。今が、いえ。先ほどまでが危機でした」
ペンブルック公が言う。
「資質は、危機が起きたあとに分かる」
「米国はどう評価します」
ソーン卿が尋ねた。
「コールドウェルは日本を前面へ出すでしょう」
ハーコートが自論で答える。
「島は日本の首都圏に現れた。最初の接触権を奪えば、侵略的に見える。だから日本に扉を開かせ、その扉が開いた瞬間、支援の名目で横に立つ」
「横ではなく後ろでしょう?」
フィンチ博士が、アメリカとはそういう国だという顔でいった。
「うむ。そう。最初は後ろですな」
マルコムはカップを持ち上げる。
「気づいた時には隣にいる。そして、次に気づいた時には、会議室で最も大きな資料を持っている」
「コールドウェルなら、本人は善意だと思っているでしょうな」
ペンブルック公が訳知り顔に言う。
「米国には力がある。ゆえに保護する義務がある。その保護を拒む者は、自分の利益を理解していない。あの男の世界観は、その程度には一貫している。大変、有能です」
「危険かどうかは、相手が米国の保護を望むかで変わるか」
「そしてCIAは既に勝手に放送を始めている」
ハーコートが録音機へ視線を向けた。
「日本政府が外交文書を整えている間に、誰か一人でもあのDJへ返事をすれば、米国は公式交渉の外側に個人的な回線を持つ」
「下品な声で築かれた外交経路ですな」
「歴史上の外交経路など、たいてい後から見れば似たようなものです」
マルコムは笑った。
「華央国については?」
ソーン卿が次の項目へ進む。
「最悪の挨拶をして、最高の資料を得た」
ハーコートが答えた。
「ミサイルを撃ち、核兵器まで使った可能性がある。だが、接近した戦闘機が対象を撮影しているはずだ。核ミサイルの残骸も、海から回収できる」
「世界で最も詳しく見た国が、世界で最も嫌われる可能性がある」
フィンチ博士の感想は、ただしく世界を捉えていた。
「外交とはよくできていますなぁ」
マルコムが応じ、まったくその通りという意味でうなずく。
「もしも戦闘機のカメラに何も映っていなければ、華央国はとっくに公表している。日本の新兵器による侵略だと非難できるからな」
「隠しているということは、日本の兵器だと断定できない何かが映った、というわけですな」
ハーコートが続ける。内心、これも賭けにできたな、と思いつつ。
「人間でしょうか?」
「人間、それも少女だという噂があります」
マルコムの発言に対し、誰も情報源を尋ねなかった。
この部屋では、聞かないことも礼儀だった。
「三人」
別の卓で新聞を読んでいた男が、紙面から目を離さずに言った。
それまで会話へ参加していなかった。
「一機に三人。うち一人が飛び出し、核弾頭を止めた」
フィンチ博士がその男を見る。
「どこからその話を?」
「上海で保険を扱う友人がいましてね」
明らかに説明になっていなかった。
「華央国上層部は、三天女と呼んでいるそうです」
「天女? いやスリーですか。いやはや、もう確定ではないですか」
ソーン卿が賭けの対象にならないが、重要だと手帳へ書き加える。
「ソ連はどうなのでしょうか?」
ペンブルック公が尋ねた。
今度は、誰もすぐには答えなかった。
「遅れていますな」
やがてハーコートが確定ではないが、と添えながら答える。
「衛星では十分に見えていない。日本の接触には入れない。華央国は情報を渡さない。アメリカからも得られない」
「ベレストフは改革を止めるでしょうか」
フィンチ博士が尋ねる。
「止める。賭けるぞ」
ペンブルック公が言った。勝てるという顔だ。
「脅威が見えない時、国家は目を増やす。耳を増やす。兵を増やす。その費用は、未来から取る」
「彼は開明派ですが?」
「だからこそ止める」
老人は砂糖を入れずに紅茶を飲んだ。
「改革を嫌う者なら、喜んで軍拡する。改革を望む者は、改革によって国が弱った時に何が起きるかを想像する。いま彼の前には、核兵器を無力化したかもしれない存在がいる。しかも、アメリカの方が先に近づいている」
「ソ連にとっては、存在そのものが反改革的だと」
「未知は、常に強硬派の味方だ」
その通りなので、しばらく誰も喋らなかった。
給仕が新しい湯を運び、冷めたポットを交換する。
窓の外では、ロンドンの午後が静かに曇り始めていた。
「それで、我が国は何をするのです」
フィンチ博士が尋ねた。
「何もしない」
マルコムが毅然と答えた。
「正確には、全員が別々のことをする」
「まず無難に外務省は日本へ問い合わせますな」
ハーコートが指を折る。
「海軍は航跡を分析し、情報機関は華央国の映像を探す。学者は浮遊原理を論じて、新聞は日本の秘密兵器説を書く。王室周辺では、島側が君主制かどうかを気にする」
「そして我々は賭けるぞ」
ソーン卿が嬉しそうに言った。また動き出した。踊りなっていない。
「そして国策が決まる頃に、誰が正しかったか分かるだけだ」
「首相はどう考えているのでしょう」
「首相の考えは首相に聞けばよい」
ハーコートの答えは単純明快だった。
「情報機関の考えは情報機関へ。国王陛下の感想は王室へ。海軍の判断は海軍へ。そして、それぞれ違う答えが返る」
「それでは、英国として何を考えているか分からないではありませんか? 国家として意思統一は?」
フィンチ博士の言葉に、老人たちは一斉に彼を見た。
それから、マルコムが穏やかに笑った。
「そのとおり。これでこそ賭けが成立する」
まるで、それこそが望ましい状態であるかのように。
ソーン卿は手帳を開き、白い紙の中央に線を引いた。
「では、本日の賭けを整理しましょう」
万年筆を走らせる。
「第一。島の正体」
彼は候補を読み上げた。
「日本の極秘研究都市。十対一」
「買いません」
マルコムが手を下げる。
「未来の日本から来た教育都市。六対一」
「2ポンド」
ハーコートが応じた。
「異なる歴史を歩んだ別世界の学術都市。八対一」
「5ポンド」
フィンチ博士が言った。
「宇宙から来た人類系植民都市。十二対一」
「1ポンド」
「国家ではなく、学生だけで構成された巨大な寄宿学校。十五対一」
マルコムがカップを置いた。
「十ポンド」
フィンチ博士が驚く。
「本気ですか?」
「建物を見た印象です」
「少女たちの集団的な精神現象が、都市ごと物質化した。三十対一」
誰も手を挙げなかった。
別の卓から声が飛ぶ。
「少女の幽霊たちならば1ポンド」
オカルト好きらしい賭け条件の訂正だった。
「乗った」
ソーン卿は楽しそうに記録した。
「第二。三人の少女について」
「姉妹」
「同級生」
「軍人」
「学生」
「人間ではない」
「三人が揃わなければ、あの兵器を動かせない」
マルコムが最後の説を出した。
ハーコートがわずかに目を細める。
「根拠は」
「一人乗りに見える機体へ、三人で密着して乗っていた」
「それは……単に狭かったのでは」
「それなら一人を降ろせばよい。三人必要だったから、無理に乗ったと考える方が面白い」
「面白い方を選ぶのですか」
「賭けですから」
まあその通りですなと、ソーン卿が倍率を書く。
「三人の接触が兵器の起動条件。二十対一」
「十ポンド」
マルコムが言った。
「あなた、今日はやけに攻めますな」
「老後の楽しみですからなぁ」
「第三。最初に島側から名を呼ばれる外国人」
「日本の首相」
「日本の外交官」
「アメリカ大統領」
「華央国のパイロット」
「横須賀のDJ」
最後の候補が出た瞬間、全員が少し考えた。
録音機の中には、先ほどの陽気な声が残っている。
『ミルキーウェイからこぼれ落ちた子猫ちゃんたちぃ!』
「DJ」
マルコムが言った。
「私もDJに」
ソーン卿が応じる。
「本気ですか」
汗を拭きながらフィンチ博士が呆れる。
「日本は国家として会話する。アメリカは個人へ話しかける」
ハーコートが説明した。
「ならば名を呼ばれるのは、個人の方が早い」
「では倍率は低くなりますな。二対一」
「三対一にしてください」
「二・五」
「乗りましょう」
硬貨と紙幣が卓上へ置かれていく。
最後に、ペンブルック公がゆっくりと財布を取り出した。
「私は別の賭けをしよう」
「何です」
「島の少女たちが、最初に信用する国だ」
「それは流石に日本では?」
賭けにならないという意味で、フィンチ博士が言う。
「日本は既に、信用され始めている」
「ではアメリカ」
「好かれることと信用されることは違うだろう」
「華央国は、まずありませんな」
「少なくとも当分はな」
「ソ連も遅れている」
ペンブルック公は、一枚の紙幣を卓上へ置いた。
「英国です」
室内に笑いが起きた。
「まだ何もしていませんよ」
「だからだ」
老人は平然としていた。
「日本は食料を差し出した。アメリカは音楽を流した。華央国はミサイルを撃った。ソ連は情報を求めている」
「英国は紅茶を飲んで賭けている」
「相手が疲れた頃に話を聞くには、ちょうどよい」
「倍率はどうする?」
ソーン卿が尋ね、ペンブルック公は少し考えた。
あまりに英国は関係がなさすぎる。
「五十対一で」
「百です」
「七十五」
「成立」
万年筆が紙の上を走る。
その日のアフタヌーンティーは、いつもより長く続いた。
日本では、政府が次の文章を島へ送る準備をしていた。
アメリカでは、陽気なDJが次の放送台本を無視していた。
華央国では、三天女の映像が最高機密として複製されていた。
ソ連では、改革計画が金庫へ戻されていた。
そして英国では、誰一人として国家の正式な意思を代表しない男たちが、世界の行方に倍率をつけていた。
島が何で、三人の少女は何者で、誰が最初に信頼を得るのか。
ただひたすら、賭け札の片隅には、マルコムの筆跡で小さく一つの説が書き足されていた。
だが冷戦の行く末に、倍率はつけられていなかった。