憧れの背中を追いかけて 作:カイカイ
俺が前世を思い出したのは、四歳の夏だった。
三日ほど続いた高熱がようやく下がったとき、頭の中へ知らないはずの記憶が流れ込んできた。
――否、知らない記憶ではない。
眠い目をこすりながら電車へ乗り、仕事を終えて薄暗い部屋へ帰る日々。
休みの日には、明日から何かを始めようと思いながら一日を終えていた。
日本という国で、成人した男として生きていた記憶だった。
「……なんだ、これ」
喉から出たのは、幼い子供の高い声だった。
両手を持ち上げ、指を見る。小さな指だ、腕には筋肉らしい筋肉もない。
部屋も記憶の中の自宅ではなかった。木造の壁に丸みを帯びた照明、見慣れない形の窓。枕元には、母が置いていった水差しと、表紙に動物の絵が描かれた子供向けの本がある。
俺の名はレイジン。
町の外れにある小さな家で、父さんと母さんと三人で暮らしている。
その記憶も、確かに俺のものだった。
今まで閉じていた扉が開き、忘れていた人生を思い出したような感覚だった。
流れ込んできたのは、仕事に追われていた大人の記憶だけではない。
学校から帰るなりテレビの前へ座り、夢中になって画面を見つめていたこと。友達と技の名前を叫びながら走り回り、両手を腰へ構えて、あるいは手を上に掲げて、本当に何かが出るのではないかと力を込めた。
幼い頃の俺には、なりたいものがあった。孫悟空だ。
その名前とともに、とうに忘れたつもりでいた憧れまで蘇ってきた。
子供の頃は、悟空のようになりたかった。
空を飛びたかった。かめはめ波を撃ちたかった。どんな敵にも負けないほど強くなりたかった。
けれど、大人になるにつれて、そういう願いは口に出せなくなった。仕事もあるし、疲れている。何よりあれは空想の物語だ。
もっともらしい理由を並べ、結局、俺は何も始めなかった。買った運動靴は数回走っただけで靴箱の奥へ入り、ジムも結局無料期間で辞めてしまった。
強さそのものではない。
強くなることを楽しむ姿。
どれだけ強くなっても、その先を見ようとする姿。
俺が本当に憧れていたのは、そういう生き方だった。
「レイジン?」
扉が開き、母さんが顔を覗かせた。
まだ若い。けれど、三日間まともに眠っていなかったのか、目の下には薄い隈がある。
「起きたの? 気分はどう?」
「……大丈夫」
そう答えると、母さんは俺の額へ手を当てた。
「本当ね。熱も下がってる」
安心したように息を吐き、俺を抱き締める。
前世を思い出しても、母さんが他人になったわけではない。俺も短い腕を背中へ回した。
「心配かけて、ごめん」
「元気になってくれれば、それでいいの」
その声は少し震えていた。
転生したのだと理解するには、少し時間がかかった。
神に会った記憶もなければ、死んだ瞬間の記憶も曖昧だった。前世最後の日がどう終わったのかさえ、はっきりしない。
けれど、ここが日本ではなく、俺が以前とは違う人間として生きていることだけは間違いなかった。
問題は、ここがどんな世界なのかだ。
熱が下がった翌日から、俺は家の中にあるものを調べ始めた。
最初に確認したのは新聞だった。
四歳児が急に難しい記事を読み始めれば不審がられる。だから、居間の床で絵本を広げながら、父さんが読んでいる新聞を横から盗み見た。
知らない国名。知らない都市。見慣れない動物。
前世の地球ではない。
それだけなら、まだ何も分からなかった。
だが、数日後、テレビから聞こえた言葉に俺は反応した。
『今回の遺跡発掘には、三名のプロハンターが参加しており――』
俺は積み木を持ったまま、画面を見上げた。
プロハンター。
偶然、とは言い切れない。
その日の夜、父さんと母さんが話していた。
「今年も試験の時期らしいな」
「ハンター試験? また大勢亡くなったりしないといいけど」
「どうだろうな。ハンター協会は試験内容を公表しないから」
ハンター試験。
ハンター協会。
胸の鼓動が速くなった。
翌日、俺は町の図書館へ連れていってほしいと母さんへ頼んだ。子供向けの図鑑が見たいと言えば、特に怪しまれることもなかった。
図書館には、職業を紹介する子供向けの本があった。
賞金首や未知の食材、遺跡を追うさまざまなハンター。そして、試験合格者へ発行されるハンターライセンス。
まだ断定するには足りない。
俺は本棚を探し、旅行案内の棚で決定的な名前を見つけた。
『天空闘技場観戦案内』
二百階を超える巨大な塔。
勝ち上がるほど高額な賞金を得られ、世界中から腕自慢が集まる格闘施設。
複数の名前が、前世で読んだ漫画の記憶と一致している。
偶然ではない。
「ここ……HUNTER×HUNTERの世界なのか」
小さく呟き、慌てて口を閉じた。
近くにいた母さんは別の棚を見ていて、聞こえていなかったらしい。
背中に冷たい汗が流れた。興奮だけではない。
この世界には、化け物じみた人間がいる。
素手で人を殺せる者。銃弾を口で咥える奴もいれば、人を食って進化する怪物もいる。今までの常識では測れない世界だ。
何より、念能力。
生命エネルギーであるオーラを操る技術。
強化系、変化系、放出系。纏、絶、練、発。
前世の記憶を探れば、言葉はいくつも出てきた。
胸が熱くなる。
もし念を身につけられれば、悟空たちが使っていた気に近い力を、俺も扱えるかもしれない。
空を飛ぶ。身体を強化する。掌からビームを放つ。
前世なら空想でしかなかったことが、この世界では完全な夢物語ではない。
試してみたい。
今すぐにでも座り込み、オーラを感じる修行を始めたい。
そんな衝動が湧いた。
けれど、俺は図鑑を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
覚えているのは漫画の知識だ。
纏がオーラを身体の周囲へ留める技術だとは知っている。練が多くのオーラを生み出す技術だということも知っている。
だが、どうすれば習得できるのか、細かな感覚までは分からない。
精孔を無理やり開く方法が危険だったことも、悪意あるオーラが念を知らない人間を圧倒することも覚えている。
四歳の子供が、曖昧な知識で手を出していい力ではない。
念は、きちんと教えられる人間を見つけてから学ぶ。
そう決めた。
焦る必要はない。
俺には時間がある。
前世で何度も無駄にした時間が、今度は身体ごと目の前に残されている。
なら、今できることから始めればいい。
四歳の俺は健康だ。
病み上がりであることを除けば、手足に不自由はない。けれど、特別に強いわけでもない。庭を走り回ればすぐに息が切れる。
サイヤ人でもなければ、ゾルディック家に生まれたわけでもない。
ただの子供だ。
だからこそ、やることは明確だった。
まずは走る。
身体を柔らかくする。
思った通りに手足を動かせるようになる。
拳の打ち方も、戦い方も、今は後でいい。基礎もないまま技だけ欲しがるのは、前世で何も続かなかった俺と同じだ。
翌朝。
空がわずかに白み始めた頃、俺は寝台から抜け出した。
着替えを済ませ、音を立てないよう玄関を開ける。
冷たい朝の空気が頬へ触れた。
家の前から伸びる土の道は、昨日までとは違って見えた。
ここから始める。
そう思うだけで、胸が高鳴った。
準備運動のつもりで腕を回し、足を伸ばす。前世の記憶を頼りにした動きは、四歳の身体では思ったようにいかなかった。
それでも、俺は走り出した。
最初のうちは快調だった。
朝露に濡れた草が光る。眠っていた全身が目を覚ましていくようで、思わず笑った。
「いける……!」
だが、家から五百メートルも離れないうちに、息が苦しくなった。
脚が重い。
脇腹が痛い。
呼吸を整えようとしても、喉の奥からひゅうひゅうと音が漏れる。
「ちょっと、待て……」
立ち止まり、膝へ手をついた。
前世の大人の感覚で考えていた。近所を軽く走る程度なら問題ないと思っていた。
だが、今の俺は四歳だ。しかも病み上がり。
さらに悪いことに、行きの距離しか考えていなかった。
走った分だけ、帰らなければならない。
「……馬鹿だろ、俺」
自分で自分へ呆れた。
結局、帰りはほとんど歩いた。
途中で何度も立ち止まり、最後には家の塀へ手をつきながら玄関へ辿り着いた。
身体中が汗で濡れ、脚は震えていた。
昨日までの俺なら、ここで嫌になっていたかもしれない。
想像よりできなかった。自分には向いていない。
もう少し大きくなってからでいい。
そうやって、やめる理由を探していただろう。
けれど、不思議と落ち込まなかった。
むしろ、笑いが込み上げてきた。
今の俺がどれだけ弱いのか、分かった。
一キロも走れない。
帰り道まで考えられない。
最初の一日としては、情けない結果だ。
でも、昨日までの俺は、走ってすらいなかった。
玄関の前で乱れた呼吸を整えながら、俺は朝日に照らされた道を振り返った。
悟空みたいにはなれないかもしれない。
同じ身体も、同じ才能もない。それでも。
昨日の自分より、今日の自分が少しだけ先へ進むことはできる。
それを何年も、何十年も続けた先に何があるのか。
今度こそ、確かめてみたい!
「明日は、もう少しゆっくり走ろう」
帰りの分も残して。
そう付け加え、俺は笑った。
明日もまた走る。
その決意だけは、疲れた胸の中に残っていた。
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