憧れの背中を追いかけて 作:カイカイ
第二話 身体を作る
最初の修行を終えて玄関へ戻ると、母さんが腕を組んで立っていた。
「レイジン。どこへ行ってたの?」
「……走ってきた」
誤魔化さずに答える。
身体を強くしたいこと。そのために、朝の涼しい時間に走ろうと思ったことを話した。
母さんは俺の汗で濡れた服を見て、深く息を吐いた。
「昨日まで熱を出していたのよ。それに、黙って外へ出たら心配するでしょう?」
「ごめんなさい」
そこは完全に俺が悪い。
強くなるために走り始めた初日から、家族へ余計な心配をかけていた。
朝食の席で父さんにも事情を話すと、いくつか決まりが作られた。
暗いうちは外へ出ない。町の外へ続く道には行かない。体調が悪い日は休む。走る前には必ず父さんか母さんへ伝える。
「最初は俺も一緒に行く」
父さんが言った。
「父さんも?」
「まだ四歳だぞ? 一人で走らせるわけにはいかないだろう」
そうして、翌日から俺の修行は正式に始まった。
最初から長い距離は走らない。
少し走り、苦しくなる前に歩く。呼吸が整えば、また走る。
前日のように行きだけで力を使い切らず、帰りの分を残して引き返した。
一週間は、走る時間より歩く時間の方が長かった。
一か月後には、最初の日に立ち止まった場所まで息を乱さず走れるようになった。
三か月後には、家から五百メートルほど離れた一本の木を回り、一度も歩かず戻ってきた。
「着いた……!」
玄関の前で両手を上げる。
脚は重く、息も切れている。それでも、初日のように膝へ手をつくほどではなかった。
「随分走れるようになったな」
隣にいた父さんが笑う。
たった一キロだ。
けれど、今の俺にとっては明確な成長だった。
できなかったことが、できるようになる。
それが、たまらなく嬉しかった。
走ることだけを続けたわけではない。
夏には、父さんに連れられて町の近くにある浅い池へ行った。
前世では泳げたはずなのに、小さな身体は水へ顔をつけただけで強張った。無理に進もうとして水を飲み、慌てて立ち上がる。
頭で知っていることと、身体でできることは別だった。
水へ顔をつけ、少しずつ息を吐く。身体を浮かせ、腕と脚を動かす。
何度も繰り返すうちに、浅瀬の対岸まで泳げるようになった。
家の裏にある木へ登ろうとした。
腕の力だけで身体を引き上げようとして、すぐに尻から落ちた。
それからは、手で引くのではなく、足で身体を押し上げることを覚えた。低い場所で何度も試し、転ぶときは頭を打たないよう身体を丸めた。
しばらく経つと、自分の身長より高い枝へ座れるようになっていた。
「登れた!」
思わず声を上げる。
「レイジン! ゆっくり降りてきなさい!」
下では母さんが青い顔をしていた。
登るより降りる方が難しく、最後は足を滑らせて父さんに受け止められた。
「まだ一人で登るのは禁止だな」
「……うん」
失敗しても、以前は届かなかった場所へ自分の力で登れた。
走れる距離が伸びる。
泳げるようになる。
木登りができる。
片足で立ったまま靴を履ける。
母さんの買い物袋を、玄関まで運べる。
どれも派手な力ではなかった。
それでも、自分の身体が少しずつ思い通りに動くようになることが楽しかった。
五歳も通り過ぎて、六歳になった。
身体の成長に合わせ、腕立て伏せや腹筋、スクワットも少しずつ取り入れた。
回数を増やすことより、姿勢を崩さないことを優先する。脚が重い日は歩くだけにし、疲れが抜けない日は休んだ。
休むことも修行の一環だ。
その日は腹いっぱい食べ、昼まで眠った。
翌朝には、脚の重さが消えていた。
家族も、最初は俺の運動を一時的な遊びだと思っていたらしい。
だが、二年、三年と続けば見方も変わる。
父さんは休みの日に一緒に走ってくれた。母さんは食事を少し多めに用意し、擦り傷を作れば呆れながら手当てしてくれた。
七歳になる頃には、俺は同年代よりかなり身体を動かせるようになっていた。
町の端から端まで走っても、すぐには息が切れない。
少し高い塀なら登れる。
年下の子供を背負って歩くこともできる。
けれど、それはあくまで身体を動かす力だった。
戦う力ではない。
その違いを思い知ったのは、七歳の秋だった。
走り込みを終えた帰り道、路地の入口で三人の子供が揉めていた。
一人は俺より幼い少年。残りの二人は十歳前後に見える。
年上の二人が、少年の持っていた木製の飛行機を取り上げていた。
「返してよ!」
「少しくらい貸せよ」
飛行機の翼が、乱暴に掴まれて軋んでいる。
「それ、返してやれよ」
声をかけると、二人がこちらを見た。
「なんだ、お前」
「嫌がってるだろ」
年上の一人が近づき、俺の胸元を掴んだ。
振り払おうと腕へ手をかける。
その瞬間、頬へ衝撃が走った。
「っ!」
拳が来ることは見えていた。
なのに、身体が反応しなかった。
怯んだところで足を引っかけられ、地面へ倒される。頭は打たなかったが、立ち上がる前に上から押さえつけられた。
「放せ!」
力を込めれば相手の身体は少し動く。
それでも、どこへ力を入れれば抜け出せるのか分からない。
腕を押せば体重をずらされ、身体を捻れば服を掴まれる。
「走るのが速いだけじゃ、喧嘩は弱いんだな」
悔しかった。
身体は動くし力もあるのに、それをどう使えばいいのか、俺は何も知らなかった。
騒ぎを聞きつけた近所の大人が現れ、年上の二人は飛行機を放り出して逃げていった。
「ありがとう」
飛行機を拾った少年が言った。
「よかった、取り返したのは俺じゃないけどね」
結局大人が来なければ負けてたんだから。
その夜、殴られた頬は少し腫れていた。
父さんと母さんには、起きたことをそのまま話した。
「怖かったか?」
父さんに聞かれ、俺は頷いた。
「怖かった」
拳が顔へ迫った瞬間、身体が固まった。
地面へ押さえつけられたときは、このまま何度も殴られるのではないかと思った。
「でも、分かったこともある、身体を鍛えるだけじゃ、戦えない」
走ることも、泳ぐことも、木へ登ることも無駄ではない。
転び方を練習していなければ、頭を打っていたかもしれない。
けれど、強い身体と、その身体を強く使うことは別だ。
拳をどう打つのか。
どこへ立てば攻撃を避けられるのか。
掴まれたとき、どう外すのか。
漫画で見た構えを真似るだけでは身につかない。
戦い方は、きちんと知っている人から学ぶ必要がある。
俺は父さんと母さんを見た。
「お願いがある」
二人が黙って続きを待つ。
「道場に通わせてほしい」
身体を作るだけではない。
作った身体を、強く使う方法を学ぶ。
ようやく俺は、武道家になるための次の一歩を見つけた。
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