ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~   作:匿名設定

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第四章 神と忌巫女と変えるべき世界(1)

 それは森の中を疾走していた。

 霧が立ち込めている。木々の姿は虚ろで、乳白色の海に沈んだ幻のように影だけが浮いている。その中をそれは飛ぶような速さで毛ほども触れることなく疾駆してゆく。いくつもの黒い影が後方へと飛び去って行ったが、それは息を切らせるでもなく平然と走り続けた。

 狼であった。

 この国では古くから、“山犬”と呼ぶ。もっとも動物分類学の発達していないこの国では、犬のような姿をした野生動物を総称してそう呼んでいる。だがそれは野犬でも、この国固有の犬のような姿をした短毛の小柄な狼でもなく、風になびく長い白銀の毛並みを持った巨大な狼であった。

 七尺五寸から八尺近くはあろうか。熊より大きく、人をも飲み込むほどの巨躯。おそらく北の大陸から入り込んできたのだろう。遊牧民が崇める蒼き狼、死と破壊、自然への畏怖の象徴。それは急に速度を落とすと、警戒するように小さく唸り声をあげ、鼻をひくひくと蠢かした。どこかが違う。野生の動物ゆえに環境マナへの感受性が高いのか、自然とは違う“何か”を感じ取ったらしい。

 雨の残り香、常とは異なる力。だがそれは急速に自然へと馴染み、循環する環境の一部となってその痕跡すら消え去ろうとしている。どうやら先頃使われた力とは異なるようだ。あの大地に突き刺さった棘のような、いつまでも残る不快な感覚。大自然を捻じ曲げ、不自然に固定化しようとする力。今回はそれが無い。あの奇妙に人臭い欲望が感じられない。

 神、か。

 狼は咆哮した。周囲の獣がそれに応える。あるものは梢を揺らしながら逃げ去り、遠くから唱和するような遠吠えが響く。空気を震わせ、泣くような応答が消えては浮かび、浮かんでは消えてゆく。これは警告だ、“近寄るな”という神威が示された。従わぬものは血と肉で償うことになる。遠くで小さな叫び声が聞こえ、がさがさと音を立てながら何者かが必死で逃げてゆく気配がした。もはや追うまでもない。ここの支配者は俺だ、そう言わんばかりに狼はそれとは異なる方向に走り出した。

 再び疾駆する青い影。しばらくすると、そこに黒い影が付き従った。形すら定かでないそれは狼に寄り添うと、しばらく並走を続けた。獣の呼吸する低い音だけが響いていたが、やがて黒い影は呟くように声を上げた。

「……承知」

 そう聞こえたような気がした。

 ふっ、と黒い影が離れてゆき、霧の中で蒸発するように霧散する。狼は気にするでもなく走り続け、やがてふたたび足を止めた。鼻を蠢かし、不快そうに唸る。山の中腹にある開けた場所、倒木が地脈を遮るように埋められた場所で。

 そこはかつて不自然な死に満ちていたが、何者かの手によって堰き止められていた地脈の流れが戻り、元の自然な状態へと復そうとしていた。狼は巨体を揺らしながらゆっくりと広場に進入し、唸るのを止めた。棘は既に抜けている。暫くはじくじくとした痛みは残るだろうが、程なくそれも癒えるだろう。

 狼は広場の端へと移動した。眼下には小さな里が見える。彼がその気になれば、一瞬で全員が捕食され壊滅してもおかしくない、ちっぽけな里だ。山の中にも少なからぬニンゲンがいるようだが、要となっているのは眼下に見えるこの狭い盆地だ。ここが破れれば残りの者は霧に映った幻影のように霧散し消え去るだろう。

 狼は口元を歪めて笑った。狼に笑うという感情があるとも思えなかったが、少なくともそう見えた。一度、二度、と遠くまで響く遠吠えをあげる。さあ、気づくがいい。そして、恐れよ。今は存在を誇示するべき時だ。

 為すべきことを為すために。

 

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