ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~ 作:匿名設定
小さな影が動く。
それは蚤のように大地を蹴って跳ね上がると、絶叫と血飛沫が飛び散った。だが周囲を無数に取り囲む魔物、人とも狼とも猿ともつかぬ姿をした奇怪な怪物はひるむ様子もない。紅丸は目の前の奴に足払いをかけると、そのまま太刀を振り下ろしながら頭上を跳躍した。軽く薙いだだけだが、とどめを刺している間に背後から討たれるようなへまはしない。そいつを無視して転がるように地面で一回転すると、別の一体に体当たりをした。体を落とし、そのまま踏み込む。するとそれは「ぎゃっ!」という悲鳴を上げて血を吐き倒れた。背中には矢が突き立っており、射手が憎々しげに舌打ちをする声が聞こえる。
「兄者ッ、オレが切り破る! 後に続いてくれっ!」
「……ばかな!」
紅丸は小兵だ。おまけに童顔なために、よく女子に間違えられる。剣術においても決して一族の中でも優れているとは言い難く、特に立ち合い稽古となると同じ年頃の女子も含めて勝ったためしがまるでない。唯一の長所といえば、めげずに何度でも立ち向かってゆくことぐらいか。
「俺がやる! お前は後に続け!」
「兄者にもしものことがあったら、オヤジ殿に申し訳が立たん!」
言うが早いか跳躍した。今まで居た場所に矢が突き刺さる。そのまま二転三転すると、二の矢三の矢が次々と降ってきた。
(……まずいな)
宗城は呟いた。霧が晴れ始め、弓の狙いが正確になってゆく。
宗城は背が高くがっしりとした体格の若者だ。文武に優れ豪胆にして冷静沈着、剣の腕は父の勘九郎ですら凌ぐ。せめて宗家の子であったらと惜しまれるほどの才能あふれる青年で、小兵で直情型の紅丸とは雲泥の差だ。だからこそ、紅丸の気持ちが痛いほどよくわかる。
紅丸は数え年で十五歳。成人したばかりの若者だ。まだまだ経験が少なく、帝の盾であった鶤上はこうあるべし、という想いが強い。
アイツは父の跡継ぎである自分を逃がすために、囮となるつもりではないか……?
だとしても、尚更それを許すわけにはゆかない。宗城にも分家とはいえ父の跡継ぎという誇りがある。
「紅丸! 後に続け!」
既に霧は晴れ、魔物が十重二十重にも彼らを取り囲もうとしている。包囲を突破するなら今しかない。宗城は刀を左に引いて構えた。鶤上の剣は神殺しの剣、仲間を信じ自らの命すら顧みぬ捨て身の剣――。
「……ぐっ!」
左肩に矢が突き立った。
だからとて止める訳にはゆかぬ。宗城はそのまま突進すると、胴切りに魔物を切り捨てた。続けて二匹三匹と切りかかるが、不意打ちで勢いが削がれ行き足が止まる。こうなると鶤上の剣術は最大の特徴である突進力を失い、技としての威力を失ってしまう。背後で紅丸の怒声が響いた。
「おのれ、小次郎!」
矢が尽きたのか、小次郎が馬から飛び降り刀を抜いて向かってくる。勝利を確信した不気味な笑みを浮かべながら。
「無様だな、宗城!」
そう言いながら宗城へと迫る。武勇に優れた宗城を討てば自分の勇名も上がるだろう。きっと雷蔵様もお褒め下さるに相違ない。なにせ戦国時代が終わってから百数十年、このような名を上げる機会は滅多に訪れぬ。これを逃すのならば、そいつはよっぽどの無欲か無能な愚か者だ。宗城めがけて刀を振りかざす小次郎に、横合いから紅丸が襲いかかる。
「控えろっ、小童! 女にも勝てぬお前が……ふげっ!」
小次郎の顎が砕けた。
紅丸は無言のまま魔物の死体を踏み台にして近くの木に駆け上がり、三角飛びで脛当てに覆われた右足を小次郎の顔面に叩き込んだ。
確かに紅丸は弱かった。――戦場以外では。
かつて戦国時代に、磐堂恒寿の覇業を助けた本田某という武将がいたそうだ。彼は恒寿に付き従い戦場に立つこと六十有余回、激戦でも常に先陣を切り一度も手傷を負うことはなかったが、御前試合となるとからっきし弱かったと言われている。
戦場の刀法は練習試合とはおのずと異なる。小次郎はそのことを理解できぬままに気を失い、折れた歯と鼻血を振りまきながら斜面を転げ落ちていった。
「あっ……」
勢い余って紅丸も一緒に転げ落ちる。二転三転しながら滑り落ちるうち、その先の視界が切れて青空が広がっていた。切り立った崖になっていたのだ。とっさに小刀を引き抜くと、気を失った小次郎の上に覆い被さる。
「この野郎っ!」
刃を下にして、小次郎の手を手甲ごと地面まで貫いた。
力の抜けた小次郎の身体ががくんと揺れ、止まった。手は二度とうまく使えぬかもしれないが、崖から転落するよりはマシだろう。
正直、紅丸には小次郎を生かしてやる理由も、そのつもりもなかった。単なる幼いころに二、三度会っただけの間柄であり、知り合いというほどですらもなかった。それでも見知った顔の人物を我が手で殺すことにためらいがあったのかもしれない。彼は小次郎ほどには割り切れなかったのだ。
紅丸の小さな身体が崖から宙へと投げ出された。
「紅丸ーッ!」
兄の絶叫が響く。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。重さを感じなくなり、落ちているのか浮き上がっているのかもわからない。ただ、ああ、俺はこれで死ぬんだな、と思った瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「……ぐっ!」
思ったほど高くはなかったらしい。大きな木に叩きつけられ、折れた枝ごと落下する。夢中で手を伸ばして別の枝を掴むが、折れてまた枝ごと落下した。枝、また枝……。そうして四、五本の枝をへし折ったところで、ようやく掴んだ枝で体の落下が止まった。
思わず安堵の吐息を漏らす。どうやら生き延びたようだ。と思った瞬間、掴んでいた枝が折れた。その下の太い枝に体がぶつかり、くるくると回転しながら胸から地面に叩きつけられた。
「……ぐ、ふっ」
息ができない。
視界が霞み、意識が急速に薄れてゆく。ぼやけた視線の先に、周りを取り囲んで近づいてくる魔物の姿が見えた。体が痺れたように動かず、ただ、どくんどくんという脈の音だけが生きている証を主張するが如く、耳元で奇妙なほどに大きく鳴り響いていた。
父と母は無事だろうか。兄はうまく逃げ延びただろうか。膳頭や鶤上の者たちは、何人が生き残っているだろう。もはや九尾が裏切った理由などどうでもいい。懐に入れた密書とやらが何なのかすらもはやどうでもよくなっていた。ただこれのせいで多くの者が殺され、自分は役目を果たせずにここで命が尽きようとしている。
(……父上、母上、兄上。皆、すまぬ……)
がくり、と首が垂れる。
意識を失った紅丸を魔物が取り囲む。牙を剥き出し、唸り声をあげながら距離を縮めてくる。だが奇妙なことに、それらは急に唸るのをやめ、やがて一頭、また一頭と立ち去っていった。怯えたような鳴き声をあとに残して。
いつの間にか青白い毛並みを持つ巨大な狼が紅丸の上に覆い被さり、野獣の冷たい目で彼を見下ろしていた。