ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~ 作:匿名設定
意外と深い。
青白い月の光が差し込み、泡立つ水面を静かに照らしている。夏の初めとはいえ身を切るような冷たい清水の中を潜りながら、ナズナは、これは単なる自然物ではない、と感じていた。自然にえぐれたにしては、この滝つぼはあまりに深すぎる。おそらくは何らかの意思、自然発生的に生まれた“神”が介在しているのだろうか。水底は月の光も届かず闇に包まれ、先に飛び込んだ男の子の姿は確認できない。彼女は潜りながら袂に手をやると、小さな魚のおもちゃのようなものを二、三個取り出した。
(あの子の匂いを辿って)
そう念じると、それはたちまち輝きながら生きている本物の小魚のように身をくねらせて泳ぎだした。それは水底付近を素早く動き回っていたが、やがて一か所に固まり自ら発光して強い光で水底を照らしだす。光の中に、横たわったまま動かない子供の姿が見えた。
(……見つけた)
ナズナが傍らに寄り添い、男の子を抱き上げる。呼吸は止まっていたが、脈はまだゆっくりと動いている。おそらく仮死状態となっているようだ。飛び込んでからさほど時間は経っていないし、幸いにも呼吸が止まったことで肺に水が入ることも避けられただろう。今すぐに引き上げて息を吹き返させれば脳に後遺症も残るまい。ナズナは男の子の肩に腕を回して抱き上げると、水面を目指して泳ぎ始めた。
……がくん!
ナズナの身体が揺れた。
いつの間にか片足にヒモのようなものが絡みついている。ナズナは振りほどこうともがいたが外れず、それはやがて物凄い力で彼女の身体を水底へと引きずり込みはじめた。異変を察知したのか生命無き作り物の小魚たちが激しく動き回りながら光を放ち、水底を照らし出している。大きな岩の陰に、ヒモを繰り出している“何か”の影がかすかに見えた。
ごぼり、と音を立てながらナズナの肺から空気が抜けてゆく。絶体絶命の危機ではあったが、ナズナの頭は意外と冷静に働いていた。このまま無事に振りほどいて水面に浮上できる確率と、男の子の命が助かるまでの残された時間、作り物の小魚がうまく相手をかく乱してくれる可能性―。そして瞬時に決断を下す。
荒事だけど、やるっきゃない。“相手の無事を慮る”時間的猶予はない。
ナズナは左腕で男の子を抱えながら、右手で左の袂を探った。水の中で動きにくそうではあったが、やがて何か小さなものを取り出した。それはよく見るとファンのようなプロペラのついた、換気扇のミニチュアのような不可思議な代物であった。彼女はそれを片手でそっと握りしめて額に押しつけると、心の中で念じた。
(……祖親たる国産土命、国産土女姫命の御名に於いて、その名代たるまほろばの守り神、神成人のナズナが我が言霊を以て天地自然の理に命ずる――)
――水よ、逆巻け!
ナズナは握りしめていたそれをそっと放した。プロペラは静かにくるくると回りながら水底へと落ちてゆく。一瞬、時が止まったかのような沈黙の後、それは大きなうなり声をあげて振動を始めた。
水の流れが、変わった。
水中に大きな渦巻が生じると、たちまち空中へと大量の水が噴き上げられてゆく。ナズナは足に巻き付けられたヒモが緩むと同時に男の子を抱えたまま軸線をずらし、水の奔流から外れた緩やかな流れを利用して水面へと浮上してゆく。自分の作った道具で生じた力の直撃を喰らったら間抜けもいいところだ。だが、件の主はそううまく避けることは出来なかったようだ。水の奔流の直撃を喰らい、岩陰から巨大な“何か”が引きずり出されて空中へと吸い出されてゆく。ナズナは背中に衝撃が走るのを感じ、男の子をかばうように抱きしめると受け身をとった。大量の水とともに地面に叩きつけられ、男の子と共に地面をころころと転がりながら、自分が川岸に打ち上げられたことに気がついた。
彼女は難を逃れ、男の子を救ったのだ。『神器』の力で。
「何これ?」
崖下にたどり着いたキャルロットの目に飛び込んできたのは、今までに見たことも聞いたこともない光景だった。滝の水が逆流し、まるで巨大な噴水のように滝壺の水が空中に噴出している。霧のようなしぶきが辺りに降り注ぐ中、何か巨大な物体が宙を舞い川岸に叩きつけられるように落ちてきた。
「……ナマズ?」
「鯰ですね」
こよりがぽつりと答える。「ただの鯰ではない、とは思いますが」
明らかに二メートルを超えている大鯰だ。キャルロットの母国にもこんな大きなナマズがいる。浅い川にも生息し、犬や人間の子供も狙う恐ろしいナマズだ。だが、これは単なる生物学的なナマズとは異なる、得体の知れないものを内部に溜めこんでいるように見えた。
「……けほっ、こほっ……」
咳き込みながらナズナが身を起こす。あちこちに打撲を負ってはいたが、彼女が身を挺して庇ったお陰で男の子は無傷のようだ。傍らに倒れている男の子を水から引き上げると、身体に軽く手を添えて念を込めながら背中の一点を押す。男の子は、ぶるっ、と一度身震いをすると、激しく咳き込み始めた。どうやら呼吸を取り戻せたようだ。
(……うん、もう平気かな)
「ナズナっ! 大丈夫?」
彼女の姿を認めて慌てて駆け寄ってくるキャルロットとこよりに、無事だという意味で軽くピースサインを向けると、未だ意識が戻らずぐったりとした少年の身体を二人に預けた。
「この子をお願い」
「うん」
二人は手際よく男の子の着ていた濡れた服を脱がせると、全身をこすって温めながら体を横にして飲んだ水を吐かせにかかる。そんなやり方どこで覚えたのかと感心するが、皆、見た目によらずそれなりの修羅場をくぐり抜け経験を身に着けてきたのだろう。
「やいやい、村の子供を拐かそうなんてふてえ野郎だ! てめぇみてえな妖怪風情が……」
そう叫びながら拳(?)を振り上げる権之助の身体に、鯰の髭が巻き付き引き寄せられる。
「……あっ!」
ぱくり。
喰われた!
男の子の無事を確認したナズナが、体をくねらせながら地面に横たわる鯰の方へ振り向き、近づいて傍らにしゃがみ込み声をかける。
「もう夜明けも近い刻だから簡潔に言うね。これからまほろばの里では、あなたを神として祀ります。祭日はそう、来月の三日――」
「三日は埋まってまーす」のんびりした声でこよりが答える。
「じゃあ、十日」
「そこなら空いてまーす」
こよりは赤い綴り紐で綴じられた可愛らしい本と筆を取り出した。
「お供えものはぁ、笹の葉で包んだ蓬団子六つに、豊作の折には翌年にお米のお団子三つ追加。鯎三匹に塩ひと盛り。朝辰の刻より開始、ナズナさんの祝詞が小半時に里長からの挨拶、水の恵みに対するヤマビトとヒラビトそれぞれの長老による感謝の言葉で合わせて四半時ほど。その後は村の力自慢によるお相撲が三組、飲めや歌えの無礼講――」
すらすらと書き綴っていたこよりが手を止め、少し考えるようなしぐさの後で付け足す。
「お神酒二本追加。農作業や狩りとの兼ね合いもありますので、午の刻には解散が無難かと。雨天時は形依神社にて決行。簡易式にて、ナズナさんとわたしの奉納の舞に里長からの挨拶のみで」
「それでいこう。ありがとこよりちゃん」
ナズナは鯰の目を見据えて言った。
「その代わり、二度と人を襲わないこと。日照りの時には水神として里の為に手を貸すこと。よろしいですか?」
しばしの沈黙の後、大鯰はこくりと頷いた。だがナズナは容赦しない。
「お・返・事・は?」
じいぃぃぃ……
大鯰の額に冷や汗が浮かぶ。ナズナは少しおっとりとした雰囲気のある朗らかで可愛らしい女の子だが、じっと見つめた時の得体の知れない正体不明の目力が凄まじい。アイコンタクトが当たり前の国から来たキャルロットですら時折そう思う。別に睨みつけるとかそういうのではない。その澄んだ目で見つめられると、心の奥まで見透かされているようで不安になるのだ。キャルロットは母国で言い伝えられるある言葉を思い出した。『悪魔は純真無垢なものを恐れる――』
大鯰は居心地悪そうにもぞもぞと蠢いていたが、やがて耐えかねたように口をひらいた。
「……わ、がった。いう……とおりに、する……」
「契約成立、ですね」
ナズナがにっこりと微笑む。
「うわっ! しゃ、しゃべった?」
驚愕するキャルロットにこよりが答える。
「言霊、ですからね。一度口にした以上は違えることは出来ません。もちろん、わたしたちも。あれは人の気を受けた“神”ですので、祟り神と化す前に言葉で縛るのが穏便に済ます一番無難な方法です」
これが『神成人(カムナビト)』、アラヒトガミの力……。
キャルロットは頭がクラクラしてきた。とても理解が追いつかない。
環境マナとは数値で測り方程式で示されるもののはずだ。いや、はずだった。少なくともこの国へ来るまでは。モノや自然に宿る力を数値化し、彼女の先祖が何世代もの長い時間をかけて組み上げ発展させてきた独自の方程式に従って素材を錬金釜で加工し、元の素材とは全く性質の違う物を生み出す。それこそが一族が命がけで編み出した錬金術、禁忌の時代には捕まって処刑され何人もの犠牲者を出しながら受け継ぎ発展させてきた誇り高き錬金術の根幹だったはずなのに。
この国では環境マナが生命を持ち、意思を持ち、方程式を感覚的なものと捉えてヒトが望む方向へと向けさせ制御している。
兄様も姉様もこのことを知っていたのだろうか。あたしなんかよりよっぽど優秀だったあの二人は。
「……あれ、ここは……」
男の子が目を開け、ゆっくりと辺りを見回す。
「あ、目が覚めたね」
「母さんはどこ? 僕、母さんに呼ばれて……」
まだ少し夢見心地ながら、どうやら意識が戻ったらしい。何が起きたのかをこの子に問いただすのはまだ早い。まずは里に戻りひと休みしたいところだ。霧状に降り注いだ水を浴びさらに男の子を介抱していたせいでずぶ濡れだし、一晩中起きていた上に色々なことがありすぎて頭が混乱している。
「大丈夫、立てる?」
「……うん」
キャルロットが男の子の手を握って立たせると、ナズナが近寄ってきた。
「終わったよー、って、……あれ、ごんちゃんは?」
ぺっ!
鯰の口から何かが吐き出された。
小さな権之助の体はまるで毬のように弾みながらころころと転がると、両足を天に向け仰向けの状態でぴたりと静止した。やがてぶるっと身震いをして怒りの形相、と言ってもウリ坊の表情なぞ見分けはつかないが、とりあえず怒り心頭の様子で立ち上がる。
「こ、こいつふざけやがって! 俺は神だぞ神! お前みたいな妖怪風情が……!」
そう叫びながら拳(?)を振り上げる権之助の身体に、鯰の髭が巻き付き引き寄せられる。
「……あっ!」
ぱくり。
喰われた!
ぺっ!
吐き出された権之助の体は毬のように弾みながらころころと転がり、ふたたび両足を天に向けてぴたりと静止した。
「あんたそのゴキブリみたいな死に方なんとかなんないの?」
「死んでねえよ! 南蛮娘、勝手に殺すな!」
怒り狂う権之助の体をナズナがひょいと抱き上げる。
「お話はもうついたんだから、ごんちゃんも仲良くしなきゃダメだよ」
「おいナズナっ! お前、俺が喰われたの見てねーのかよ! アイツが俺に喧嘩を売ってきやがって――」
べろべろ、ばあぁぁぁ
「あっ、コノヤロー!」
ナズナが背を向けたのをいいことに、大鯰は権之助に向かって舌を出し馬鹿にしたように振って見せる。
「ふざけんなこの妖怪ヤローが! おいっ、ナズナ! 俺はこのヤローの祭りなんかぜってー出てやんねえからなっ!」
「はいはいわかったよ。ごんちゃんは免除します」
ナズナは怒りが収まらぬ権之助の体をこよりに預けると、男の子の手を取った。
「歩けるかな? おねえちゃんがおぶってあげようか?」
「ううん、大丈夫。ひとりで歩けるよ。その、ありがとう神さま」
ナズナが微笑んで男の子の頭を撫でる。いつの間にか太陽が山の向こうから顔を出し、光が染み込むように闇を払ってゆく。大鯰はのたうちながらゆっくりと水の中へと入って姿を消し、辺りで様子を窺っていた魔物たちの気配も未だに闇の残る森の奥へと消えていった。
「夜が明けちゃったね」
「そうですね」
いつものんびりとしているが冷静で感情の見えないこよりも、さすがに緊張が続いたせいで眠気をかみ殺した表情を浮かべた。キャルロットは伸びをして遠慮なく大きなあくびをひとつしながら、こんなところを母さんに見られたらうるさいだろうな、と思った。没落貴族の娘が「淑女らしくしなさい」と言われたところで、農地の領民と一緒に畑仕事をしているような名ばかりの貴族なのだから説得力がない。それに上品に大人しくしているのはキャルロットの性分に合わなかった。紳士淑女としてお上品に振舞うなんてのは、錬金術師の名門として将来を嘱望されている兄様や姉様に任せておけばよい。
しかし、それにしても眠い。柔らかな朝の光を浴びながらキャルロットはベッドに倒れこむ自分の姿を想像した。もっともこの国では床に直接に敷いた布団に寝るようだが、もうベッドだろうが布団だろうがどちらでもいい。こんな状況でも元気にぴんぴんしていられるのは、今だに怒り冷めやらぬ権之助と、まほろばの里を守る優しくて可愛らしい神さま――
まるで陽光のような優しい笑顔を浮かべてナズナが言った。
「さあ、帰ろっか。わたしたちのまほろばの里へ」