ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~ 作:匿名設定
「見たか、あれを」
日没から二刻ほど過ぎた。街頭などない時代、辺りは漆黒の闇に包まれている。ましてやこんな山の中だ。手探りでも周囲がわからぬ中で、焚火の炎であろうか、遥か遠くのほうに一点、赤い炎が浮かび上がるように揺らめいている。
「見た」
闇の中から返答が響く。
「神の御業、か」
クックッという忍び笑いが漏れる。姿は見えぬが、低い男の声だ。その声音にはどこか、この世界そのものを蔑んでいるような皮肉な響きがあった。
「攻めぬのか?」
先ほどの返答の主が問いかける。
「攻めぬ」
「お主らしくもない」
「今は分が悪い。あれを見てなお攻められるか? お主こそ怒って当然だろう。なにせ何年もかけて仕組んだ罠を台無しにされたのだからな」
声の主は不快を感じた。その台無しにされた罠とやらがなければ、お前たちの計画は白紙を余儀なくされていたはずなのに。
「計画は既に達成されている。我々は次に進むまでだ」
「フフ、計画か。まあよい、まあよい」
低い声の男は満足げに言った。
「膳頭も鶤上も既に我が手にある。宗城めを逃したのは痛いが、今さらあの小倅一人に何ができるわけでもあるまい。あとはお主の生み出す“神”とやらが、幕府の連中を喰らい尽すのを待つだけよ。なあ、錬金術師どの?」
ローブの衣擦れの音が響く。暗闇の中にうっすらと長身の男の姿が浮かび上がるが、フードの奥に隠れた表情まではわからない。
「幻宗斎は知っておるのか」
「何を、だ」
「神になること。いや、神となった者の運命を、な」
「全て承知の上だ」
「奴が砕け散ったところで、よもやそれで終わりというわけではあるまいな錬金術師どのよ。真なる神が砕かれては元も子もない」
ローブの男には、相手が笑ったのがわかった。声も出さず、歯をむき出し、獣のごとく喉笛を食いちぎろうとするかのような殺気に背筋が凍り、冷たい汗が額を流れる。
「あと少し、あと少しだ。完成させるにはあと少し実験データが足りぬ。そのために幻宗斎は自らを差し出した。彼の犠牲は無駄にはせぬ」
「そうであって欲しいものだな。なればこそ、我らはエウロッパとやらにいる貴様の元へ長い間、幕府の監視の目をかわしながら危険を冒して神器を送り続けたのだからな」
「わかっている。失望はさせぬよ……、雷蔵殿」
雷蔵と呼ばれた男は軽蔑したように鼻を鳴らした。媚びるような態度を感じ取ったのか、あるいはその裏に隠されているものを読み取ったのかもしれない。七つの海を支配した欧州人が持つ、特有の意識を。
「我らアズマ人は、お主ら白人のための実験動物ではないのでな。期待しているぞ、錬金術師どのよ」
沈黙が続いた。声は発すれど姿は見えず、殺気が来てもどこから狙われているのかもわからない。まるで地獄の闇の中、悪魔に頭の中から囁かれてい るような気分だ。
幻宗斎も恐ろしい男だが、この雷蔵という男はその上をいく。何よりも何を考えているのか全く読めない。真なる神とはいうが、神殺しの剣の使い手であるこの男が本当に神など奉じているのか?
「あの小娘は、殺す。殺さねばならぬ」
不意に沈黙を破り、暗闇から雷蔵の声がした。その声音には憎しみも同情も悲しみもなく、ただ既定の事実だとでも言わんばかりの確信のみが宿っていた。
「あの程度では、まだまだ本気ではあるまい。なにせ神なのだからな、出来損ないの神の残滓のようなものを数十匹倒した程度では、神を名乗るのはおこがましかろう。だからこそ、幻宗斎をぶつけるのだ。あの歪な憎しみに満ちた神と小娘の神が喰らい合い、共に倒れてくれればよし。もし幻宗斎が敗れ去ったところで、あの小娘の真の力は測れる。見切れさえすれば、神殺しの我にはわけもない」
「随分と……、ご執心だな。あの小娘がそれほどの相手か?」
不意に目の前に男が現れた。まるで目の前の闇が凝り固まり、そのまま人の姿を取ったかのようだ。ローブの男がたじろいでいると、その男――、雷蔵はおどけたように笑みを浮かべながら男の顔に指を突き付けた。
「貴様らの神は、ひとり。この国には、八百万。少しは減らしておかねば、ちと数が多すぎる」
突然、まるで夢でも見たかのように、ふっ、と雷蔵の姿が消えた。声だけが闇の中から響いてくる。
「執心というならば、貴様はどうなのだ錬金術師よ。あの焚火を囲む連中の中に、貴様の見知った顔がいるようだがな。お前はお前の目的のために、そいつを生かすか殺すのか。さて、フフ、フ……」
男の声が、消えた。
だが、ローブの男は動けなかった。気配など初めから無かった。雷蔵が本当に去ったかどうかも分からなかったのだ。きっと雷蔵は自らの気配を消す術を身に着けることで、周囲の者たちを恐怖で支配してきたに違いない。
(……見抜かれたか)
遠くの赤い点を見つめる。
彼は正直なところ、この国の神など見下していた。その力を目の当たりにした今となっても、どこかで自分たち西洋人の力が介在しているのだろうと思ってきた。彼が神器を利用してドラゴンを模した怪物を造り上げたとき、それを打ち破ったのは確かに彼の一族に伝わる、錬金術の術式だったのだから。あの小娘の力にしたところで、何らかの形で西洋の錬金術が関わっているのだろう。
神器の力はまた別だ。未だにその構造は明らかではないし、その力は西洋の錬金術の力をはるかに凌ぐ。だが、それはあくまで古代の超技術だ。今なお西洋の各地で見つかる、かつて大陸をも宙に持ち上げたとも語られる、今では失われた古代錬金術のガラクタのようなオーパーツと何ら変わることはない。いやむしろ、かつては西洋こそがこの世界のあらゆるものを支配し、あらゆる文明を生み出したのではと錯覚さえ覚えるものだった。この神器とやらはきっと、我々の先祖である錬金術師がこの地を征服し、下等な原住民どもに文明をもたらした証であるに違いない。
神など、悪習。神など、蛮習。それは偏見に満ちた敵意の象徴であり、自らの暴力衝動を正当化する欺瞞の象徴であり、文明化されていない愚かさの象徴であった。
彼は神が一族に何をもたらしたのかを知っていた。絞首、断頭、火あぶり……、理不尽な死と破滅。そして愛する者に何をしたのかを知っていた。彼の母親に何をしたのかを知っていたのだ。それは彼だけではない、一族の誰も彼もに骨の髄まで染み込んだ、長い間に渡る憎しみであった。
それなのにあの小娘が、よもや下等な蛮族の神などと行動を共にしていようとは……。
男は憎悪のこもった眼で遠くの焚火の火を睨みつけた。怒りと、微かな誇り。かつてその才能を認め、その才能を愛し、その才能に嫉妬すらした相手が、自分が苦難の末に解明し編み出した術式を打ち破り、彼が人生をかけて立てた計画を水泡に帰そうとしている。
一体何故、あいつがこの国に、この場所に、この俺の前に出てきたのだ……?
(お前は間違っている。お前はこちらの側につくべきだったのだ、……キャルロット!)