ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~ 作:匿名設定
夕闇が迫る。どこかで獣の遠吠えが響き、山の向こうへと消えようとする太陽が最後の残光を地上へと投げかける。血のような赤い色に染まる大地に、家、田、畑、そしてそこかしこで忙しく立ち働く人々。そこにいるもの、そこに存在する全てのものが、まるでこれから起きる惨劇を予言するかのような不吉な色彩に染まっていった。
里人たちは桶を持って屋根に上り、中に入っている水をかけはじめた。こよりによれば、おそらく何者かの軍事援助を受けた野盗どもは、まず火矢を放って家々を焼き、混乱に乗じて馬で以って一気に攻め込んでくるつもりだろうとの事だ。火への対処はしてあるとのことだが、念には念を入れておくに越したことはない。
やがて屋根の上から、ふと西の方へ目をやった若者が、切迫した様子で大声で叫んだ。
「た、大変だ!」
「どうした?」
叫びを聞きつけてきた焔が、ふわりと音もなく屋根の上に飛び上がる。なかなかに恐ろしいまでの身軽さだったが、若者にはそれに気づく余裕はなかった。
「あ、あれを……!」
はるか遠くに見える、山の稜線を這ってにじり寄る無数の影。焔はそれが人ではない、魔物の群れであることに気がついた。まるで夢遊病か催眠術にでもかかったかのごとく、一定のリズムを以って近づいてくる。この分には夜半にはここに到達し、まほろばの里に襲いかかるだろう。
「まずいな」
騒ぎを聞きつけたのか、こよりも村人がかけたはしごを登って屋根の上へとやってきた。キャルロットから受け取っていた南蛮渡りの遠眼鏡を目にあて、こう呟いた。
「なるほど。数百体……、いえ、千体は超えているかもしれませんね。大型の魔物もいれば、小型の魔物もいます。本来、捕食し合うはずの種類の魔物ですら、まるでひとつの群れのように固まってこちらへと真っすぐに向かってきています。やはり操られているとみて間違いないでしょう。それも、この辺りでは見かけない魔物もいるので、相当な広範囲から集めてきたようですね」
「それで、どうする。あの数ではとても、代官所の軍隊ですら太刀打ちできないぞ」
「そうでしょうね」
と、こより。見た目では平静を装ってはいるが、内心どう感じているのかはわからない。
「さすがにあの数では、混乱した個体が数十体は里に侵入する可能性があります。そちらはとりあえずキャロさんに対処して頂きますので、焔さんは野盗の動きを見ながら臨機応変に彼女に手を貸してあげてください」
「それは構わぬが……。数十体ではない、千体だぞ?」
こよりは大きく息を吸い、吐いた。まるで自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「ナズナさんが、抑えます。信じてください、彼女を……私たちの神さまを」
その頃、錬金術師は馬に乗り、無数の魔物の群れとともにまほろばを目指していた。
「……ギギ、ギ……」
人とも狼とも猿ともつかぬ奇怪な怪物が、バランスを崩して倒れる。片足がもげ、黒ずんだもう片足を動かそうとするも、そちらもやがてちぎれた。怪物はしばらくもがきながら、残った両手で這うように前へと進もうとしていたが、やがて全身が崩れ落ちて黒い粉となり風に吹き飛ばされてしまった。
それでも魔物は前進を止めない。何者かに操られているかのように、虚ろな瞳をして。
錬金術師は舌打ちを漏らした。予想よりも肉体の崩壊が早く進んでいる。確かに最初に造り上げた時はわずか一時間にも満たない寿命であったが、技術を確立した後ではひと月近く保つようになったはずだった。しかし、何とか生み出した個体だけで百匹以上はいる。このままのペースでいけば、夜が明けるまでには半数近くが生き残れる計算だ。一体につき二十体以上の魔物の群れを操ることができるので、単純計算でもこの倍近い数の魔物を操れるはずだ。
これだけの魔物の数、とてもまほろばの里では対抗できまい。化け物が放つ催眠波により、魔物どもは脳の機能を完全に奪われている。もはや彼らは自らの意思も無く、痛みも感じず、化け物の命じるがままに喰らい、踏みにじり、全てを破壊するだろう。まほろばの里は綺麗さっぱり食い尽くされて人の骨すら残らず、かつてそこに人が住んでいたことすらわからなくなるに違いない。
もちろん、共に攻め込んだ野盗どもも含めて。
また一体、倒れた。
粉になって崩れ落ちるそれを眺めながら、男はもう舌打ちなどしなかった。地響きを立てながら進む何頭もの大型の魔獣の行進、それを見て錬金術師は心の中で呟いた。これこそが神の力、神の軍隊の行進……。いや、幻宗斎がのたまう真なる神、などではなかった。それは神々の黄昏であり、神をことごとく討ち滅ぼし喰らう、世界を滅ぼす巨人の軍勢そのものであった。
錬金術師は、笑った。高らかに、心の底から。彼の用意した世界を喰らう悪魔の軍勢を横目で眺めながら、今までにどれほどの発明をしても得られなかった高揚感が全身を駆け巡るのを感じていた。そう、今夜、神は死ぬ。人も、世界も、ことごとく滅ぼされ打ち壊される。だが、忘れるな。ラグナロクの後には世界は修復され、新たな世界が始まるのだ。
錬金術師を神とする、新たな世界が。
彼の生み出した怪物どもは、このペースなら二、三日もすれば崩壊して崩れ去る。それまでに怪物に操られた魔物どもは、山の中に逃げ散ったまほろばの民やヤマビトどもを喰らい尽くし、やがて魔法が解けて本来の生息場所へと戻ってゆく。蛮族どもの幕府とかいう無能な政府が動いたところで、何が起こったのか痕跡すら探し出すことはできまい。
まほろばの蛮族ども、そしてそれを率いる美しい偽物の神。下卑た野盗どもも、幻宗斎ですら含めて皆を、新たなる神の軍勢にその肉と魂を捧げる栄光に浴させてやろう……!
「きたぞ、動いた!」
男が声を潜めるようにして、小声で叫んだ。軽鎧も腰に差した刀も立派なものであったが、馬子にも衣裳とはいかなかったようだ。むさくるしい髭も髭も泥にまみれ、鎧からはみ出した下着は固まった返り血で黒く汚れていた。
「ようやくだな」
お頭は刀の柄を拳で叩いた。いい加減、待ちくたびれていたところだ。もともと彼は決して、気の長い辛抱強い性格ではなかった。でも、これでようやく終わる。いや、始まるのだ。弱者どもの血で栄誉をあがなう、彼の望んだ世界が。
「奴らはちゃんと北と東の防備を固めているのか?」
「ああ、間違いねえ。一人だけまだ見張りとして山の上に陣取らせちゃあいるが、ちゃんと十回松明を振ってきやがった。だから俺たちの仲間もちゃんと到着して、ただの一人も欠けちゃいねえ。こっちが攻め込めば、奴らも気がついて一緒に攻め込んでくれるはずだ」
「上出来だな」
一番後ろに控えていた男が、不気味な笑みを浮かべた。
「よいか、まず里の中を一気に突っ切り、北の端にある神社を押さえよ。神を称する小娘とその巫女を捕らえ、切り殺せ。さすれば後は烏合の衆、さしたる抵抗もせずに崩れ去るじゃろう。よいか、正直、他の連中は二、三匹は仕損じても構わぬ。だが、その二人だけは絶対に逃すな。必ず、殺せ」
(……匹、匹ときやあがったか……)
お頭は嫌悪感を覚えたが、この程度でひるんではいられなかった。なにせ自分はこれから、剣一本で英雄の座へとのしあがる戦乱を引き起こし、戦国時代へと時代の針を引き戻そうとしているのだ。百年以上前のどんな英雄も、あの磐堂恒寿ですらも、女子供ですら容赦なく切り捨てたり、建物に閉じ込めて大勢焼き殺したりしているのだ。民草など虫ケラだと思えなければ、とても英雄の座を掴むことなどできない。
「幻宗斎さんよ、あんたが先頭に立って攻め込んでくれるかい?」
「儂が? バカを言え」
幻宗斎はさも心外だという風に鼻を鳴らした。
「儂が金を出すというに、なぜに貴様らを手伝ってやらねばならん。儂がここまでついてきたのは、別の役目を果たすためよ」
「別の役目、だと?」
「今にわかる。いや、わからぬ方が幸せというべきか。フ、フ……、せいぜい儂にその役目を果たさせぬよう、死ぬ気でかかれ」
お頭は、薄気味悪い野郎だ、とは思ったが、もはや引き返すことはできない。既に二股村を発ち、馬を引き連れて苦労して山を越え、まほろばの里の目前にまで迫っていた。
「火をつけろ」
部下に命じると、彼らは馬から降りて、油を染み込ませた布を先端に巻きつけた矢に火をつけ、弓を引き絞った。お頭はもう迷わなかった。引き返すことはできないし、引き返す気もなかった。引き返せぬというのなら、十年前に役人を殴り殺して逃げ出したあの日から、引き返すことなどとっくにできなくなっていたのに違いない。
甲高い音とともに、矢が闇夜に光の筋を描きながら飛んで行った。
戦いが、はじまったのだ。