ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~ 作:匿名設定
「里を出るのじゃろ」
老人は布団の上に身を起こしながら言った。
ナズナは老人の体を支え、背中や腰をさすりながらゆっくりと頷いた。この老人には、とても隠し事などできない。
「お前の好きにするがいい。なにせ、あんな光景を見せられた後じゃ。せっかく再臨した神がいなくなることに反対する者もおるかもしれんが、儂はいつだってお前の味方だ」
「ありがとう、おじいちゃん」
涙ぐむナズナに、老人はそっと彼女の手を取って言った。
「すまんが、もう立ち上がる気力が無いでな。そこの箪笥の一番上にある引き出しを、ちょっと開けてみてくれぬか」
ナズナが箪笥を開けると、そこには紙で包まれた何かが収められていた。そっと開いてみると、見たこともない虹色の不思議な光沢を持つ布が顔を出した。
「おじいちゃん、これは?」
「お前の襁褓じゃよ」
そう言いながら、老人は頷いた。
「あの夫婦がお前を置いていった時、お前の体を包んでいたものじゃ。ほれ、地上の若者と結婚した、天女の昔ばなしがあったじゃろう? それをお前に渡してしまうと、なんだかお前が天へと帰ってしまうような気がしてな。今まで渡せなかったのじゃよ」
老人は目を瞑った。久々にその不思議な布を見て、赤ん坊のナズナを抱いてあやしていた時の姿を思い出しているのかもしれなかった。
「じゃが、この里を旅立とうとしている今こそ、お前にそれを返すべきじゃと思うておる。儂からの餞別と思うて、大切にしてくれ」
「……おじいちゃん、ありがとう」
涙を浮かべながら老人の体をそっと抱きしめる。老人はあやすかのように、ナズナの手を握った。
「お前が次にこの里へ戻ってきたとき、儂はもうこの世にはおらんじゃろ。いや、こんなことを言うては、旅立とうにも旅立てんな。しかし前にも言うたが、儂はもう十分に生きた。そして人生の最後に、この世のものとは思えぬ夢のようなものを見させてもらった。きっと……」
老人はそこで感極まったかのように言葉を切った。不思議そうな顔をするナズナに、老人は微笑みかける。
「儂らはな、神さまが人間を見捨てずにいてくれたことが嬉しいのじゃ。それだけでもう十分、この世に生まれた価値があった。だからナズナよ、お前はこの里を守る神成人などではなく、この里に生まれた人間のひとりとして、この広い世界を見て、楽しんで、お前の道を歩んでゆきなさい。きっと、きっと里人たちもそう思っているじゃろう」
ナズナも微笑んだ。仮に自分がいなかったとしても、人が現実をあきらめてしまわなければ、いつかは神成人の生贄信仰も遠い昔話として語られるようになるだろう。きっと神さまに出来ることは、人が悩みながらより良き道を進もうとするときに、ちょっと背中を押して少しばかりの勇気を与えることしかないのだろう。
老人は枯れ木のような腕をナズナの身体に回した。少々話し疲れた様子で、荒く短い息をついている。ゆっくりと体を倒して老人を優しく寝かしつけたナズナに、老人は笑っていった。
「では、元気でな。なあに、儂はまだまだ死ねんわい。儂はお前さんの作る“神さまのいらない世界”とやらを見届けねばならんからの。なあ、そうじゃろ」
ナズナは笑顔で頷いた。老人の細い手に優しく手を添えながら。
「おじいちゃん、約束するよ。わたしは神成人ではなくひとりの人間として、誰もが人らしく生きてゆける世界を作ってみせるって」
その後、ナズナは形依神社へと戻った。そして一日中、夜遅くまで何かをひとりで一生懸命に作っていた。
「……これは?」
神を祀る拝殿で、ナズナとこよりが向かい合って座っている。相も変わらずナズナとこよりでピカピカに磨き上げられた柱や床は、木材で出来た建物が持つ独特の清涼さを放っている。外から吹いてくる風は、もうすっかり秋の気配を漂わせていた。
「わたしの新しい人形見だよ」
と、ナズナ。
それはいつものごとく、ナズナの姿を模った二頭身のぬいぐるみであった。首にペンダントを模した布を巻きつけ、どことなく大人びた雰囲気なのは気のせいだろうか。
こよりがそれを受け取り、匂いを嗅ぎ、愛おしそうに抱きしめたり撫でまわしたりする度に、ナズナはくすぐったそうに身をよじったり困ったような笑みを浮かべていた。
正直に言えばナズナは、こよりはもう大丈夫だろうと思っていた。彼女は既に自分の意志で、大きな一歩を踏み出していた。ナズナがいなくても、こよりは里人の一員として十分に役目を果たしてゆけるだろう。それでも、へこたれそうなぐらい大きな困難に直面した時は、この人形がちょっとだけ背中を押してくれるに違いない。
「ナズナさん。きっと、無事に帰ってきてください。こよりはずっと待ってます。きっと、どんな困難が待ち受けていようとも、ナズナさんはきっと戻ってきてくれると信じていますから」
ナズナは頷いた。
それは、ナズナの覚悟でもあった。ナズナの慕う老人は、彼女にひとりの人として生きるように言った。そして彼女は、ひとりの人として“神さまのいらない世界”を作ると誓った。
でも、そう言えばそれで済む問題ではない。いや、そうであるからこそ、こよりの魂を救い、人が人として生きる“神さまのいらない世界”を作るためには、彼女がこの里で“最後の”神成人でなければならなかった。
「大丈夫だよ、こよりちゃん。わたしはずっとずっと、この里を守る神成人だから」