ナズナのアトリエ ~悩める錬金術師とまほろばの神~ 作:匿名設定
神社の裏手から山道に入ると、そこはもうヤマガミの領域だ。
鬱蒼とした木立が山道を覆い、昼でもなお夕暮れのように暗い。所々にある生い茂った木々の枝の切れ目からは、午後の日差しが帯のように降り注いでいる。薄暗い中にまるで光の靄がかかっているような幻想的な光景は、別世界に迷い込んだのかと勘違いしそうなほどだ。近くに川があるのか、小さな沢蟹が足元を小走りに駆け抜けていった。
この国の森は、怖い。
キャルロットは心の底からそう思う。
南蛮船に乗ってやって来たキャルロットは、この国に来るまでに様々な森を見てきた。
立ち入ったら二度と出て来れないような南アジアの鬱蒼とした深い森、精霊が住んでいると言われても信じてしまいそうな東南アジアの熱帯雨林。時には極彩色の鳥が空を飛び交い、無数の猿の吠え声が木霊したかと思えば、息詰まるような静寂の中で肉食の大きな獣が哀れな犠牲者に向けてゆっくりと忍び寄る。
危険というならばそれらの森の方がはるかに危険だろう。だが、ずっと穏やかに見えるこの森は、それらの森より不気味に感じられた。
多分、― 神域 ―、なのだろう。
何か得体の知れない巨大生物のお腹の中にいる感じがする。自分は最近の科学で明らかとなったバクテリアとかいう目には見えない微生物の一匹になったようなもので、神の腸という培地の中で油断すれば宿主に消化されながら、生と死のサイクルを繰り返す存在にすぎないのではないか。
西洋の聖域は皮膚がひりつくまで余白を排除している。キャルロットは教会に入った時、「神を讃えよ」という意思をこれでもかというくらいに感じる。それ以外の異論は許さない、のだと。かつては教会が主導して錬金術を異端として弾圧していたので、余計にそう感じるのかもしれない。
だが、アヅマの国の神域は違う。一見豊かな自然の風景に見えるが、大半が余白で占められたページに、薄墨でぽつんと自分を示す文字が一文字だけ書かれているようだ。余白が大きすぎる分、自身の存在が異様なまでに目立ってしまう。そこには私という存在がただ居るだけ。押しつけがましくない代わりに面倒も見てくれはしない。常に気を張っていなければ、いつしか自分自身も余白の中に溶け込んで無となってしまう。なるほど、これは八百万の神々の殆どが祟り神なわけだ。必死で命乞いをしなければ、自分自身の存在が自然の中に溶け去ってしまうのだから。
かなりの急高配が続く。ところどころに丸太が階段状に埋められ足場の役割を果たしていたが、ごく一部を除いて苔が生えて朽ちかけている。ほとんどの部分は小石の混じった自然のままの地面が露出し、滑りやすく歩きにくい事この上ない。故郷ではスポーツ好きの活発な少女であったキャルロットだが、普段使わない筋肉を酷使しているためか、たちまち息が切れて体のあちこちが悲鳴を上げ始めた。
そんなところでもナズナはふわふわと、まるで蝶が舞うように軽やかに山道を登ってゆく。単に慣れているというのとはわけが違う。一体、この娘には体重があるのだろうか、自分は妖精か何かに変な幻覚を見せられているのではなかろうか、という気にさえなってくる。
「ねえ、ナズナ」キャルロットがふと疑問を口にした。「倒木の場所ってわかってるの?」
「えーっと、わからないわけじゃないんだけど」
と、ナズナがこめかみに指をあてる。どうやら考え込むときのクセらしい。
「大体の場所しかわからないかな。揺らいでいるから――」
ふと一瞬、ナズナが顔をしかめた。すぐにいつものおっとりとした表情に戻ったが、キャルロットに不安を抱かせるには十分だった。察したのか、ナズナが心配そうに声をかける。
「大丈夫? 少し休もっか」
「ううん、平気。……だと思う」
不安そうな様子を見て、ナズナが微笑む。
「な、なによ」
「うん、キャロちゃんの才能は本物だよ」
「……意味が、わかんない」
落ち着かせるように、ナズナはキャルロットの手を取った。
「この山が、怖い?」
「……うん、ちょっとね」
素直に答える。故郷であれば、たとえば尊敬する兄や姉が相手でも、心の底を見透かされれば若干の反発を覚えただろう。ここまで正直になれるのは、他には錬金術の師匠である叔父さんに言われた時くらいだ。
「不安に感じるというのは、錬金術に大切な環境マナへの感受性を持っているということなんだよ。普通この手の感受性を持つのは、小さい子供のうちだけ。大人になるにつれて、マナへの感受性は衰えるか消えてしまいます。
なぜなら、幼いころは自身を形作るマナが揺らいでいるから、外からの影響を受けやすいの。そんな頃に外界のマナの強い影響を受ければ、引かれてしまって二度と戻っては来られない。幼い子がよく神隠しに遭うのはそのため。だからこの国では『八つか九つになるまでは生まれてこないのと一緒』だなんて言われてるんだよね」
と、キャルロットを落ち着かせるような声色で言いながら、キャルロットの手のひらを上に向けて中心のツボを軽く押した。ひんやりとしたナズナの手の感触が心地良く、全身から無駄に強張った力が抜けてゆくのがわかる。
「錬金術の才能を持つ人が稀な理由は、大人になると自己を形作るマナが強く固定されてしまうため。もうひとつは大人になる前の子供のうちに引かれて循環する環境の一部になってしまうから。だから大人になってもマナへの感受性を保ち続けているのは、本当に珍しい神さまからの贈り物なんだよ」
ナズナはにっこりとほほ笑むと、キャルロットの手を持ったまま軽く上下に振った。
「ご気分はいかがですか」
「……別に、ちょっと暖かいくらい?」
「じゃあ、通すね。力を抜いて、心を落ち着けて」
そう言うと、目を瞑って何かの言葉を唱えだした。祝詞というのだろうか、それにしては以前に儀式の場で、ナズナやこよりが唱えたものとは異なっている。キャルロットが聞いたこともない不思議な言葉で、アズマ言葉らしき単語が断片的に混じるが殆ど意味は分からない。音程は高いが柔らかな鈴の音のようなナズナの声が耳に心地よく、うっかりすると寝入ってしまいそうになる。
しかし次の瞬間、眠気も一瞬で吹き飛ぶほどのショックを受けた。
(うわ、あ……、あ、あ……)
身体の芯が、熱い。
ものすごい力だ。この地が持つエネルギー、膨大な環境マナが自身の身体の中を吹き抜け、あらゆる属性が揺らぎ変化しながらあるものは宙へと霧散し、あるものは対流しながら大地へと還元されてゆく。キャルロットは知識としては知っていたが、今はそれを身をもって体感している。
万物は、流転している――。
錬金術では、物質を定量として扱う。そうでないとレシピを生み出す事ができない。もちろん環境マナが絶えず流転しているのは知識として知っており、それを補正値として数式化している。しかしキャルロットはこれまでその“揺らぎ”を、最終工程に至るまでの不確定な要素と見なしていた。だが、そうではないことが今でははっきりとわかる。
この“揺らぎ”こそが本質なのだと。
一方から一方へと変化する力。それは一方へと振り切れるわけではなく、混じり合って螺旋を描くように渦の底へ落ち込んだかと思えば、全く別の方向へと変化して勢いよく吹き上がる。だからこそ錬金術は一見、元の素材とは全く異なる物質を生み出すことが出来るのだ。さながら風化した岩が土へと還元され、土が水を得て粘土となり、火の力を受けて陶器となるように。でも、その材料が元の性質を完全に失うわけではない。元の性質を帯びつつも揺らいでいるからこそ、錬金術は様々な道具を生み出し利用することが出来る。不確定でやっかいな要素だと思っていたそのものが、まさか錬金術の根幹だったとは―。
(あたしは一体、今まで何をやってきたんだろう……)
物質の持つ環境マナを定量化する道具を生み出したのは、キャルロットに錬金術を教えた彼女の叔父だ。百年に一度と言われるほどの不世出の天才と呼ばれ、自ら発明した道具を使って物質の持つマナを定量として可視化し、特別な感性を持たなければ使いこなせなかった錬金術を、努力さえすればさほどの素質を持たなくても使えるようにした。これにより、弾圧されていた時代から続く秘密結社の中でひっそりと伝えられてきた錬金術を、学問として学校で学ぶことができる状況へと変えてみせた。キャルロットも、叔父の道具を使ってはじめて定量化されたマナを計測した時、言葉にならないほどの衝撃を感じたことをいまだに覚えている。
でも結果的に、それが良くなかったのかもしれない。
それ以来、マナを正確に感じ取ることが出来なくなった。それは体感するものではなく、測定するものに過ぎなかったからだ。機械で簡単に測れるのであれば、わざわざあいまいな直観に頼ろうとするほうがどうかしている。だが、そうして測定した値が揺らぎ続ける一時的なものに過ぎないのだとしたら、全面的に信じ込むのもまたどうかしているだろう。
師匠である叔父のせいではない。しかし、便利な道具というのは人の目を曇らせるのかもしれない。この国に伝わるおとぎ話では、かつて不思議な道具を使う神さまが地上に楽園を築き上げたという。しかし人間を堕落させた罪を問われ滅ぼされてしまった。便利すぎる道具というのは諸刃の剣のように、常に相反するリスクをはらんでいるのかもしれない。
「ご気分はいかがですか」
「うん、なんだかすっきりした。鼻づまりがなおったみたい」
「あはは」
急勾配の山道を登りながら、キャルロットはこの地のマナを感じ取れるようになっていた。白紙に薄墨なのは相変わらずだが、まるで水墨画のように白紙の中に急に景色が立ち現れてきたみたいだ。
「あ、これコゲ草」
「うん、この国ではケシズミ草と呼んでいるよ。秋になると葉っぱの一部が白くなるんだよね」
「こっちは……、バグの葉?」
「ここでは雷虫の木って名前だよ。葉っぱが雷虫に擬態してるんだよね。私たちが齧ってもおいしくないだけで何ともないけど、葉っぱを齧る虫の唾液に反応して雷属性が引き出され、相手を感電させることで身を守ってるみたいだね」
「まさに“でんげき”だね」
「あはは、そうだね」
たわいもない会話をしながら、キャルロットは見慣れない景色であるにもかかわらず、物質の持つマナの性質を見抜けることに気がついた。同時に、その感覚が少しずつ薄らいできていることも。
(これは、一時的なものなの……?)
不安そうな表情を浮かべるキャルロットに、ナズナは無邪気に微笑んだ。
「大丈夫。あと二、三回は通す必要があるけど、すぐに昔の感覚を取り戻せるようになるよ。大人は自分のマナが固まってるから、そもそもあまり通らない人が多いんだよね。キャロちゃんみたいに自分の持つマナが柔らかい人は珍しいんだよ」
「ナズナはどうなの?」
「わたしは神さまだから」
「そっか」
その答えに妙に納得したが、同時に奇妙な違和感を覚える。なんだか底知れぬ、得体の知れないものを覗き込んだような気分。
「さあ、それじゃあ倒木の場所を探してみよっか。今のキャロちゃんならわかるはずだよ」
「マナの揺らいでいる場所を探せばいいんだよね」
「そうそう」
キャルロットは目を瞑り、意識を集中させた。マナを通した直後の感覚は大分薄らいでいるとはいえ、周囲の環境が手に取るようにわかる。環境マナは常に移ろい揺らいでいるとはいえ、形あるモノに関しては流動性は低くなる。でなければ物質としての形態すら保てなくなるだろう。倒木なんて無数にあるし、腐敗し崩壊する過程で揺らぎは大きくなるが、単なる揺らぎではなく特に違和感を感じる方向を探せばいい。
ナズナが顔をしかめた時のような。
(……これは?)
しばらくしてキャルロットは、信じられない、といった面持ちで顔を上げた。あの時、ナズナが顔をしかめた意味が分かった。でも、こんなことがあり得るのだろうか。いや、あり得てもおかしくはない、のかもしれない。何といっても、自分がここにいるのだから。でも、一体誰が……?
ナズナに声をかけようとして、彼女が男と話しているのに気がついた。立派な髭をたくわえ、毛皮を縫い合わせた服を着ており、絣の着物を着ているヒラビトとはずいぶんと趣が違う。大分年を取ってはいたが、がっちりとした逞しい体つきだ。そういえばここはヤマビトの領域だった。この山を歩き回っているうちに自然と鍛えられるのだろう。ナズナが振り返って笑顔を向けると、キャルロットは慌てて会釈した。男も軽く笑みを浮かべて会釈を返すと、茂みの奥へと消えていった。
「倒木の位置はここからちょっと歩いたところみたい。日が暮れる前に山を下りたいから、少し急ごうか」
「……うん」
ナズナの言葉にキャルロットが頷く。その様子が少しおかしいことにナズナは気づいていた。そしてその理由も、次に口を開いた時の言葉も。
「ねえ、ナズナ」キャルロットが聞いた。平静を装ってはいるが、自分でも少し声が震えているのがわかる。「あたしより前に、この辺りに南蛮人が来たことがある?」
ナズナは黙って首を振った。
環境マナの不自然な揺らぎ。常に変化する世界で、マナを自らの望む方向へと制御しようとする力。無から有を生み出すのではなく、有を別の有へと変化させようとする人の意志。キャルロットが長年学び、親しみ、道を見失い悩みながらも追い求め続けてきたもの。でもどうして、何の目的があって?
――この“揺らぎ”の原因は、錬金術だ――。