緑色の化け物が、少女の上で不気味に蠢いていた。
あの日の光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。
……忘れられる訳がない。
俺の名は、
年齢は、確か今年で二十五になるぐらいだったか? 正直、興味もないので覚えてない。探索者ライセンスを見れば、一応どこかしらに書いてあるだろうか? まあどうでも良い。
年齢も、名前も、職業も。
何もかもどうでも良い。
俺にとって重要な事実は、たったの二つ。
先ず第一に、この世界にダンジョンとかいうクソったれな物が発生したという事と。
そして、もう一つ――
俺がガキの頃に、そのダンジョンとやらに閉じ込められ、そこで三年間の地獄を生き延びたという事だけだ。
ダンジョンに迷い込んだ日の記憶は曖昧だ。
気が付けば、目の前にはデカい森が広がっていた。
俺は訳の分からないまま、森を彷徨い。
「グギィッ……! グッ、グギッ……!!」
緑色の化け物が俺に背を向けながら。
地面に向かって、へこへこと必死に腰を振っている。
「グギィィッ……!! グギィィィッ……!!」
相手は得体のしれない化け物だ。
当然ながら恐怖はあった。
叫び出しそうだった。
今直ぐそこから逃げようとした。
だが、それ以上に――
「グギィィィィィィィッ……!!!!」
その化け物の下敷きになっている少女の姿に、俺の瞳は吸い寄せられていた。
化け物が腰を振るたび、少女の手は力なく地面をノックする。
化け物が上体を反らした時、少女の顔が明らかとなった。
「…………あ……
返答はなかった。
ただ光を失った虚ろな眼差しが、空を見上げるだけ。
「グギギギギッツ……!!!!!!」
両親をダンジョン災害で失い、孤児院に引き取られてきた女の子。
面倒見が良く、口うるさい朱里は、まるで皆のお姉さんのようだった。朱里の周りにはいつもチビ達がくっついており、笑顔が絶えなかったのを覚えている。アイツは孤児院の片隅で一人俯いてた俺にもよく話しかけ、説教をしたものだ。
やれ喧嘩は良くないだの。
やれ食い物の好き嫌いをするなだの。
やれチビどもの面倒を見ろだのなんだのと。
最終的にはいつも俺が根負けをして、朱里は勝ち誇ったようにニコッと笑うのだ。
『カズってばホント強情だよね~ ま、そこがカズの可愛いところなんだけどさ!』
『てめっバカっ!! 男に向かって可愛いなんて言ってんじゃねぇよ!』
『あはははっ! 赤くなっちゃって~、可愛い~!』
『――やめろっ、つつくなっ!!』
俺の、たった一人の家族。
命を捧げても守りたい、最も大切な存在――
『カズはさ……将来のこととか、考えた事ある?』
『……いきなりなんだよ?』
『……うんとね。まだまだ……先の話になると思うんだけど。……チビたちみんながさ、無事にここを出ていけたら……私たちが、この場所を継がない? 二人で』
『…………はぁ?』
『ほっ、ほら! マザーももういい歳じゃん! 誰かがやんないとだよ!』
『お前そんな事言ったらマザーに殴られるぞ。ってか、二人でって……』
『――っつ! それでっ! やるの、やらないの!? どっち!』
『……考えとくよ』
『…………カズのへたれ』
俺に残された、たった一つの希望だった彼女は……
「グギッッ……グギィィィィッツ……!!!!!」
既に、事切れていた。
「――――うあああああああああぁぁぁっつ!!!!」
目の前が真っ赤に染まる。
脳が沸騰し、神経が焼き切れそうだった。
「グギィ………?」
俺の存在にようやく気付いた間抜けは、首をゆっくりとこちらに向ける。
気持ちのわりぃ顔だった。
デカい鼻、涎まみれの口、でこぼこの肌――醜悪だ。
化け物がいったい何をしていたのか、当時の俺には良く分からなかったが。
これだけは、はっきりと覚えてる。
奴は……嗤っていやがった。
「このっ、クソ野郎がぁああああッ!!!!」
地面に四つん這いだった化け物は、直ぐには立ち上がれない。その隙に俺は距離を詰める。途中地面に落ちていた木の枝を掴み、それをそのまま振り上げた。
「しぃねええええええええええッッツ!!!!!」
化け物の右目目掛けて、力いっぱいに枝の先端を振り下ろす。
「グギッ、ガアアアアアアアッツ――――!!!!!」
眼球を抉る感覚が、手のひらに伝わった。化け物は雄たけびを上げ、暴れ狂う。奴が地団駄を踏む度に、地面が沈み、砂埃が舞う。凄まじい怪力だ。
――だが、俺は怯まない。
コイツが例え人智を超えた存在だとしても、顔の構造は人間に限りなく近い。両目があり、鼻があり、口があり、耳がある。だったら、弱点も同じはずだ。
初撃で右目を狙ったのは正解だった。
化け物が混乱している内に、もう片方もケリを付ける。
「うらあぁああああああっ!!!!!」
右目から伸びる枝を力づくで折り、尖った先端をそのまま左目へと突き刺す。
「ガッ!!!! アアアアアアアッツ――――!!!!!!」
化け物は地面に仰向けに倒れ、ゴロゴロと無様に転がった。俺は馬乗りになり、その気持ちわりぃ顔面に何発も拳をくれてやる。
「しねっ、しねっ、死ねえええええっ!! 死ねっ、クソ野郎ッツ!!!!」
何度も殴りつけるが、化け物はピンピンしていた。だが、奴には両目が見えていない。反撃は不可能、ただ無暗に暴れ回るだけだ。俺は拳で殴りつけるのを止め、手近な岩へと武器を変えた。
「はああああああああっ!!!!」
顔面へと、何度も何度も岩を打ち付ける。そのたびに、気色の悪い雄叫びが森に木霊した。
「はあっ……! はあっ……!」
気が付けば、奴はピクリとも動かなくなっていた。
血まみれになった周囲を見渡しなら、俺はふらふらと朱里の元まで歩み寄る。目を覆いたくなるほどの光景のはずなのに、俺の瞳は、まるでそこに縫い留められたかのように――釘付けとなった。びりびりに引き裂かれた下腹部。ピンク色のスカートは、朱里のお気に入りだった。
「……っつ……! あっ……朱里っつ……!!」
首元からは血が止めどなく流れ、朱里の体は酷く冷たかった。
俺は朱里の亡骸を抱え込み、うずくまって泣いた。
「うああああああああああっ――――!!!!!!」
泣き続けた。
永遠に。
果たしてそれから、どれだけの時が経ったのか。
自分が置かれた状況も、何一つ分からぬまま。俺は死人のような足取りで、森の中へと進んで行った。
元の世界へ帰る術はない。
そして、生きる意味すらも。
もう、ありはしない。
そう思った俺の目の前を、突如――
「グギィィィィツ!!」
「グギッツ、グギッ……!!」
「ギッギッ、ギギギィッ……!!」
緑の集団が、横切った。
「――――は?」
思考が停止し、思わず目を見開く。さっき俺が殺した化け物と、うり二つの背格好。姿かたち、鳴き声から、その表情に至るまで――全てが奴と同じだった。
「グギャアアッツ……!!」
「ギャッツ……ギャッツ、ギャギャッ!!」
「グギッ、ガガガッ!!」
木の枝を振り回しながら、ご機嫌に嗤う集団。奴らは俺に気付くことすらなく、目の前を素通りして行った。
止まった思考が動き出し、あらゆる疑問が俺の脳裏を埋め尽くす。
なぜだ……?
なぜ生きている?
確かに殺したはずだ。
殺しそこなった?
顔は潰した、でも元に戻って……?
いや、そもそも――なんであんなに沢山いる?
混乱する俺はただ一人、その場に取り残された。
そして思い至った。
「ああ……そうか」
それはとても単純で、当たり前なこと。
なぜ今の今まで、気が付かなかったのか。
思わず笑いが込み上げる。
「……ふっ……! ……ふふっ……! ……はは、はははっ……!!」
仇を討てたと、そう思っていた。
これで朱里の魂も、少しは報われたんじゃないかと――
そんなお気楽な思考回路に、我ながら反吐が出る。
俺はその場で、腹を抱えて嗤った。
「くっくっくっ……ふふふ、ふふっ……はっはっはっは……!!」
あんまりにもおかしくって、また涙が溢れて来た。
馬鹿だな俺は。
――なぜ
化け物にだって、子供はいる。
子供がいれば、その親も。
もしかしたら、『友人』なんてのもな。
いるじゃねぇか、まだまだこんなに。
殺すべき奴らが大量に。
タクサン、タクサン。
残ってやがるなぁ、朱里……?
「あーッはっはっはっはっぁぁァァっ――!!!!!」
ひとしきり笑った後、俺は拳を握りしめ、更なる森の奥を目指した。
「………殺す。 ……殺す殺す殺す……コロス、コロス……殺す、殺すっ……! 全員まとめて、殺し尽くすっ!! 皆殺しだッ――!!!!」
俺はそのダンジョンで約三年を生き延び、そして――
自力で現実世界へと帰還したのだった。