最初のウェアウルフとの戦闘から数分あまり。事態が大きく動いた。
「おい見ろよっ!! あれって……!」
団員の誰かが声を荒げる。同時に数人の者たちが通路を駆け出し、目の前で輪を作って立ち竦んだ。輪の周囲から漏れ出る短き悲鳴、粗い呼吸、震える手足――厭な予感がした。
「おい……嘘だろ…… 篠宮……草薙……! ……返事しろって、おいっ!!」
涙声が必死に呼びかける。皆の視線の先には、血だまりに沈んだ二人の男の姿。どうやら先遣隊のメンバーらしい。
「クソっ……こんなに、血が……!」
「いやっ、いやああっ!!」
外傷は背中にひとつ。恐らくウェアウルフの爪によるものだ。ちょうど肩の筋肉から腰に掛けての斜め一閃、大量出血の跡が見て取れた。
そして異様なことに――
(……なんだ……この首にある、絞め跡は………?)
男二人の首筋はわずかに陥没していた。二人の指先に目を向けると、異常なまでの変形が見て取れる。折れた指に絞跡――まるで互いの首を絞め合ったようだった。
床には削れた爪と一緒に、肉片が挟まっている。再度男たちの指を見つめると、その先端が削れているのが分かった。
(……床を掻きむしったってことか……? けど、なんだってそんな……)
絞跡もそうだが、あまりにも不可解過ぎる。先程のハイエルフと同様だ。通常の思考回路とは考え難い。まるで何者かに操られたような、そんな異常行動の数々。
「私に診せて下さいっ――!!」
ヒールを扱える椿がしゃがみ込み、二人の容態を確認する。既に命が尽きているのは明白だったが、一縷の望みにかけたのか。だが無残にも、その両手が徐々に震え出した。椿は涙をぽろぽろと流し、やがて手を地面に置いた。皆愕然とし、すすり泣く声が周囲を満たす。
だが悲しみに暮れる者たちを、状況は待ってくれない。悲劇を上書きするように――
「う、うああああああああああっ――――!!!!!!」
突如ダンジョンに響き渡る、謎の悲鳴。
「何だよ今のっ……!」
「……奥からだ。まだ誰かいるぞっ!!」
「どうしよう……! ねぇ、どうすればいいっ……!?」
パニックに陥る団員たち。その中でただ一人、白銀の鎧が背筋を正した。
「狼狽えるな――――!!!!」
神代の一言が、場を制圧する。
「犠牲者が出たっ! この階層に先遣隊がいるのは間違いない!! 各自、装備を最終確認! あらゆる不測に備えよ! 終わり次第、直ぐに奥へと――」
神代がまだ話している最中、椿が立ち上がりその肩に手を置いた。
「……エリス。私、先に行くね……!」
「待てっ!! 勝手な行動をするな桜子っ! 進むのは準備が終わってからだ! 何があるか分からないんだぞ!」
「でも、まだ生きてる人がいる!! ヒールが使えるのは私だけ……! 急げばまだ間に合うかもしれないんだよっ!!」
必死の剣幕に、たじろぐ神代。椿は震える自身の足を押さえつけ、それでも何とか前に進もうとしていた。すると、椿の両隣に男二人が並び立つ。
「神代隊長、俺たちも椿に同行します! 大丈夫ですよ、椿には指一本触れさせませんから!」
神代は苦悶の表情を浮かべた。無論神代も、今直ぐ椿と共に向かいたいはず。だが隊長である以上、部隊を放棄して未知の危険に突っ込むことは出来ない。ギルドと言う名の足枷だ。
「私のことは気にしなくていいから……エリスはみんなを見てあげて!」
気丈に笑う椿の足は、未だ震えたまま。この場で最も恐怖を感じている筈なのに、彼女の意志は誰よりも高潔で輝いて見えた。
(……優しさは、時として己自身を苛む。優しき人間であればある程、この世界は生き辛い)
不意に朱里の笑顔が思い浮かび、椿の横顔へと重なった。
交わした約束は、まだ果たされていない――俺はまた同じことを繰り返すのか?
否。
見過ごすことなど出来ない。
(俺も付き添うか……)
上げようとした右腕を、唐突ガシッと掴まれた。手首が軋むほどの万力で締め上げて来る。顔を向けると、敵意を剥き出しにした羽黒と視線が交わった。
「……何をするつもりだよ、ハイエナ?」
「俺も椿さんと一緒に行く。人数が多い方が安心だろ?」
「へっ! 何だてめぇ、死体漁りでもするつもりかよ? てめぇに単独行動が許されると思ってんのか? 勝手なことをすんじゃねぇよボケ!!」
相変わらず癇に障る男だ。そして同時に、途方もなく愚かでもある。この場でどんな選択をすれば最適か、少し考えれば分かるはずだ。
「ゲートに入る前、神代は俺に『臨機応変な対応をしてもらう』って言ってたよな? 今は戦力が分散される椿さんの方に、自由に動ける俺が付いて行くのがベストな判断だと思うんだが?
「おい……誰に向かって口答えしてやがる……? 俺はてめぇみたいなクソハイエナ野郎に、好き勝手動く権利なんてねぇって言ってんだよ。スキルも使えねぇゴミムシが……図にのんじゃねぇぞ?」
一方的な拒絶、話にならないな。羽黒が喋っているのは好き嫌いの感情論でしかない。理屈で動かぬこの手の手合いとは、そもそも同じ土俵で会話することすら難しい。
(……無能力者を見下したい。こいつの行動原理なんてそんなもんだろ)
掴まれたこの手を、へし折ってやるのは簡単なんだがな。
「なんだ、その反抗的な眼は? いいーんだぜ、この場でお前の悪巧みを大っぴらにしてやってもよ? ハイエナ野郎が椿の後ろについてって、死体から装備を剝ぐつもりだってな! ダンジョン攻略の妨害は重罪だ!! のちのち出るとこには出てもらうぞ!」
こういう馬鹿が部隊の足を引っ張るんだよ。
(下らない……)
争うだけ時間の無駄だ。俺は上げようとしていた右腕を止め、椿の後ろ姿を見送った。羽黒は乱暴に俺の手首を離すと、フッと鼻で嗤う。
感情で動く奴は信用に値しない。群れると意見は衝突し、足枷ばかりが増えるんだ。
――だから俺は、ソロでいい。
ダンジョンの通路に神代の号令が響き渡る。
「これまでの戦闘で、装備が摩耗した者は直ぐに交換しろっ! 負傷者はいるかっ!!」
「……すみません隊長っ……! ウェアウルフが来た時……足をやっちまいました……! 激しい動きは、もう……!」
「羽場は後衛に下がれっ! 抜けた穴は加藤と矢部でフォロー!」
「了解――!!」
「人数が減った分、左右の守りが手薄になった! 前方の敵は全て私が片付ける!! 後続の部隊は横穴からのモンスターに気を払え!」
息つく間もない指示の応酬が飛び交う。怪我人の治療から、装備の再編、果ては隊列の確認に至るまで。その全てを最短最速で行い、神代は進軍の準備を整えた。
「細かいフォーメーションは動きながら話す! 全軍、進めっ――!!」
その頃――
椿は既に第三層の最奥へと到達していた。
――――
半開きの扉。中からは濃密な血の匂いが滲み出る。
「椿……! 慎重にな……!」
護衛の声を背に、椿はゆっくりと扉を押し開けた。周囲に転がるウェアウルフの残骸。そして部屋の中心には――
「そんなっ……!」
「こっ……こいつはひでぇっ!」
床に転がる数多の探索者たち。まさに死屍累々。だがその中の一人には、まだ微かに息吹があった。
「……生きてるっ!!」
椿は呟く。その手を握りしめんと、必死で駆け出した。
「待つんだ椿っ!! 先ずは周囲の安全を――!」
(大丈夫、今助けるから――)
椿が手を伸ばしたその刹那。床の下で、赤黒い何かが蠢いた。
「……あ、れ……?」
それは恐怖が生み出す幻覚か何かか……気のせいだと思った。椿が手をかざしてヒールを発動しようとした瞬間。
冷たい感触が、手首をなぞった。
「――えっ!?」
チクリとした痛み。そして同時に、皮膚の下を何かが這いずり回る感触。視界が揺れ呼吸が乱れ、心臓が跳ね上がる。
――耳の奥でグジュグジュと、異物が囀る音がする。
「はあっ……はあっ……!!」
胸を押さえてうずくまる。皮膚の下を這う異物は、椿の脈とは無関係に動いていた。
「どうした椿っ――!! 椿っ――!」
声が遠のく。
(わた、し……助けなく、ちゃ……)
椿の意識は、そこで途絶えた。
――――
俺と神代はほぼ同時に扉の前へと到着した。部屋の中から響く金属音。肉を裂く音、そして悲鳴。神代の顔が蒼白する。
「桜子っ!!」
部屋に足を踏み入れた俺たちは目撃する。血を流して倒れる護衛の一人。そしてもう一人は、必死の形相で――
「た、隊長っ!! 椿がっ、椿が――――!!!!」
椿のレイピアを、押し留めていた。
護衛の首元を真っ直ぐ狙い、レイピアが音を立てる。俺たちの気配に気付いたのか。椿の顔がゆっくりとこちらを向いた。
「さく……らこ……?」
その瞳に、既に生気は無かった。黒く濁った瞳孔。焦点の合わぬ眼差しが虚空を睨む。俺は腕をだらりと下げる。胸の奥が冷たく沈んだ。
ふらふらと覚束ない足取りで、歩み寄る神代。銀の鎧が耳障りな不協和音を奏でた。
「……何を、してるんだ……桜子……?」
皆その様子を呆然と見守っている。誰一人として言葉を発せない。静寂の中、神代の怒号が響いた。
「桜子っ!!!! ふざけてる場合じゃないだろっ!! 今直ぐこっちに戻れっ!!」
――薄々分かっちゃいるだろ、神代?
瞳を見れば、明らかじゃないか。あれはもう人の目じゃない。奥に――モンスターが混じってやがる。
俺はただ当たり前のように理解した。これまでに感じた疑問の数々が氷解した。
このダンジョンを支配していた真の元凶。他者の自我を奪い、意のままに操っていた黒幕の存在に……なぜもっと早く思い至らなかったのだろうか。
「……寄生、モンスター……」
俺の呟きを、神代は必死の形相で否定する。
「そんなっ……そんなはずはないっ――!!!! 桜子は……桜子は……まだ、そこにいるんだっ……!!」
ゆらゆらと近づく神代。声にならない悔恨が漏れた。神代の立ち振る舞いは、もはや強者のそれではない。そこにあったのは、友を失う人間の慟哭だった。
俺は腰に付けたレイピアに手を掛ける。椿へ向けて一歩前へ。
「――待て御剣っ……! 何をするつもりだっ!!」
神代の叫びを背に受けながら、俺はゆっくりとレイピアを構えた。椿の瞳。仲間を想う優しさに溢れていたその眼差しは――既に獲物を探す殺意に満ちていた。
「……椿さんは、もう戻れないよ。神代」
俺の言葉を受け、神代の呼吸が止まる。俺は見据える。椿のレイピアが振り下ろされる前に、何としても止める――
奔る。
ただ一点、レイピアの切っ先目掛けて。甲高い金属音。レイピア同士がぶつかり火花が散る。椿はレイピアを弾き飛ばされ、唸り声を上げながら俺を睨んだ。
(……椿さん)
こういう事態を、何度か想定したことはある。
もしも、モンスターに寄生された『人間』と相対した時――俺はいったいどうなるのだろうかと。ソロ専門の俺に、そんな答えは一生やって来ないだろうと思ってた。
椿は俺の首を絞めようと、歪んだ形相で飛び掛かる。殺意に侵された醜き表情だ。
――これ以上、穢させない。
誰かの役に立ちたいと願うその想いこそが、彼女の源泉であったはずだ。
心臓は淡々と同じ律動を刻む。俺の感情と切り離されたように、ただ冷たく淡々と。
稽古を付けてやるという約束だった。俺はまた、失うんだ――
「……済まない」
彼女の最期の表情を刻み付ける為、一度だけゆっくりと瞼を瞑った。
「やめろおおおおおおおおっ御剣ぃいいいいいっ!!!!!!」
神代の絶叫が取り残される。遅れてやって来た静寂は、まるで世界が息を止めたようだった。