上層階は静まり返っていた。ボスが消えると同時に、ダンジョンは崩落を開始する。空間には綻びが生まれ、無数の裂け目が生じ、最後には全てが跡形もなく霧散する。いつもはボスを討伐するとさっさとゲートを潜ってしまうので、俺は久方ぶりにその瞬間に立ち会うこととなった。
「…………」
椿は部屋の中央に横たえられていた。仰向けで瞼を閉じられ、穏やかな顔つきだ。心臓にはぽっかりと空いた孔。俺は自らの意志で彼女を殺し、それでも前へと進むと決めた。だからこの結末に後悔はない。
俺がここに来たのは、決意を新たにする為――その筈だった。
「……ん?」
不意に椿の前髪へと視線が惹きつけられる。そこにあったのは、銀色に煌めく髪留め。
(これは……)
特段おかしな所は何もない。言ってしまえば、飾り気のない無機質な髪留めだったが、俺の瞳は不思議と吸い寄せられていた。目を引く特徴と言われても、無骨な銀の輝きくらいのものだろう。今は黒くひしゃげて、それすらも薄れてしまってはいるが。
だが、良く見れば――
その輝きは神代の身に着けている銀の鎧と、何だか似ている気がした。俺は椿の前髪から髪留めをそっと拾い上げ、血の汚れを擦り落とし、ポーチの中へとしまった。
「……兄妹、か」
胸の奥では、何かが静かに燃えている。悲しみも後悔も、俺には必要ない。ただ目の前の敵を殺す。今も昔もこれからも、怒りだけが俺を前へと押し進める原動力。
身体が淡い光に包まれる。外へと排出される兆候だ。
今回の攻略は、苦い勝利であった。
――翌日。
新宿のシャッター街。目の前には渋面を浮かべた藤堂の姿があった。先遣隊は十五名。本隊の方では椿と羽黒の二名。イエローゲートの攻略に、計十七名もの死者が出た。異例の事態である。
ダンジョン攻略のノウハウが確立されつつある現代において、被害者の数は年々減少傾向であった。平和ボケ……とまでは言わないが、少なくとも四六時中ダンジョンに怯えて過ごすことなど無くなっていた。そんな最中においてのこの惨劇――メディアの格好の的だ。事はまだ公にはなっていないが、いずれ嗅ぎ付けて来るだろう。
例え帝国ギルド程の大御所であっても、やはりダンジョンは侮れない。常に死と隣り合わせの極限状態。わずかな油断と隙が命取りとなる。今回の顛末は、市民に再び恐怖と不安の影を刻むに違いない。
「……嫌な役を押し付けたのう。御剣よ……」
開口一番。藤堂の言葉はそれだった。
「皆から事情は聞いておる。寄生型のモンスターだったんじゃろう? 今回の相手は」
俺は無言のまま、ゆっくりと頷き返した。藤堂は両拳を握りしめながら、目一杯力を入れて腕を震わせた。
「……アレは人の倫理を破壊する、厄介な相手じゃ。まさかイエローゲートに出て来るとは……見誤ったな。儂の浅はかな采配で、多くの団員たちを失った。己の無力さが嫌になるわい……!」
拳からは血が溢れ、地面へと滴下する。
俺にはそれが――藤堂の流した涙のように見えた。
「エリスちゃんだけでは……部隊は全滅しておったやもしれん…… だからこそ、儂はお主に最大限の感謝と敬意を送りたい」
藤堂は俺の目を一度じっくりと見つめると、そのまま深く頭を下げた。
「儂の仲間たちを救ってくれて、ありがとう。御剣」
「…………藤堂さん、頭を上げて下さい。俺は、そんな……」
顔を上げた藤堂は、優しく儚げな笑みを浮かべながら呟いた。
「敬語が戻っとるぞ、御剣……!」
つられて、つい俺の口元も緩んでしまった。重苦しい空気を何とか緩和しようと、彼なりの必死の振る舞いだったのだろう。同胞を失い、最もつらい立場なのは藤堂だ。彼が既に前を見据えているのならば、いつまでも暗い雰囲気でいるのは無しだ。
「それと今回の報酬だがのう。苦労を掛けた分、制限は取っ払うぞ! 我が帝国ギルドの保有する魔道具、その中からなんでも好きなもんを持って行っとくれ! お主になら、なんであろうと託せるじゃろうて。それが今の儂に出来る、せめてもの償いよ」
「……魔道具」
そう言えば、そんな契約だったか。つい先日のやり取りのはずなのに、遠い昔のことのように感じるな。
俺は腰に付けたレイピアを一瞥し、深呼吸。藤堂へと告げた。
「魔道具は……要らない。ダンジョンの攻略中にコイツを手に入れたからな」
レイピアを目の前に突き付けると、藤堂は考え込んでしまった。
「……じゃが、それはお主が隠し部屋で手に入れた代物じゃろう? 部屋を見つけたお主の手柄じゃ。報酬は別であるべきじゃよ」
そうだ、別であるべきだ。
魔道具はもういらない。代わりに――
「……最初の条件に、戻してくれないか?」
何のことやら分からずに、藤堂が首を傾げた。そしてもう一つ……こちらの方が重要だろうか。
「……それと住所だ。彼女の住所……もし知ってたら、教えて欲しい」
約束は果たせなかったが、それでも俺は、縋り付きたかったのかもしれない。これは贖罪ではなく、ただ俺の弱さの現れなのかもしれないな……
――――
ピンポーン。
「はーい。今行きまーす!」
インターホンが鳴った。古い一軒家の玄関に響くその音を、少年は長らく耳にしていなかった。この家に訪問者がやって来るなど、いつ以来のことだろうか。引き戸を開けた瞬間、夜の冷たい空気が流れ込む。九月とは言え、日が落ちると途端に辺りは肌寒い。
「……ん?」
少年は周りを見渡した。しかし、そこには誰の姿も無い。
「……何だよ……いたずらか?」
遠くを見つめるも、去り行く人影は見当たらなかった。夜間で遠方が良く見えなかったのもあったが、わざわざ外に出てまで確認しようとする気は失われた。少年は扉を閉めようと視線を落とした矢先――ひび割れたコンクリートの上に、黒いアタッシュケースを目撃する。
「…………え? な、何だよ、これ……?」
少年は思わず立ちすくむ。身に覚えのない黒いケースが、丁寧にその場に置かれている。まるでつい先ほどまでそこに誰かが立っていたような、そんな異質な空気を感じたのだ。
その時、奥から咳き込む声がした。顔色の悪い母が、ふらつきながら玄関に姿を見せる。
「どうしたの、
少年――省吾は、慌てて母を支えた。
「いや……なんか良く分かんないけど、玄関にそれが置かれててさ…… ってか母ちゃん! 起きて来ちゃダメだって!」
咳き込む母を支えながら、省吾はアタッシュケースを指差した。母は息を整えると、玄関の外を見て目を細めた。
「その黒いケースのこと……? うちの前に置かれていたの?」
「……うん」
二人の表情には不安の色が浮かんだ。誰かの落とし物だろうか? はたまた置き配を誤った配達員の仕業だろうか? インターホンが鳴ったのに誰もいない不自然さ。警察に届けるべきか? いずれにせよ、中身を確認しなければ始まらなかった。
「……っ、母ちゃん! 結構重いよっ、これ……!」
「一人で大丈夫……?」
「へーきへーき!!」
省吾はアタッシュケースを家の中へと運び入れると、居間のちゃぶ台の上に置いた。その気配を察したのか。兄妹たちが続々と居間に集まって来た。
「お兄ちゃん、なにこれっ!」
「すげぇ~、黒くてかっくいい……!」
「アタッシュケースじゃん! 漫画で見たことある~!」
「こら! 勝手に触るなよ! 誰かの落とし物かもしれないだろ!」
手を伸ばす兄妹たちを嗜める省吾。母は震える指で、ケースの留め金を外した。蓋が開いた瞬間、中から現れたのは――
「うわっ……! すっげぇや!!」
「お金だっ! いっぱいある~!」
ぎっしりと敷き詰められた、万冊の束。
母は息を呑んだ。
「……何なの、これ……」
兄妹たちが無邪気にはしゃぐ中、母と省吾だけは眉を潜めていた。せめて持ち主の所在が分かればいい……そう思っての行動が、裏目に出た。これは触れてはいけない物だと直感的に悟ったのだ。すぐさまケースを閉じて、警察に届けるべきであると。
「省吾……私は今から警察に行って来るから。アンタはみんなを寝かしつけておいてね。っ……ゴホッ!!」
「何言ってんだよ、無理すんなって!! 俺が行って来るよ!」
「ダメっ……! こんな遅くにそんなの持ち歩いてたら危ないでしょ……!」
「それは母ちゃんだって同じだろ!」
議論は平行線。兄妹たちも事の重大さを悟ったのか、黙って様子を見守っていた。
「……姉ちゃんに電話してみようよ。もし外にいるなら、繋がるかも……」
奥の電話機に向かおうと立ち上がった瞬間、省吾はケースの隅に挟まっていた白い封筒を見つけた。省吾は怪訝な表情を浮かべ、封筒を取り出した。
「……手紙か?」
差出人すらも記載されていないその封筒。中には小さなごつごつとした物が入っており、わずかに盛り上がっていた。さかさまにした際、スッと滑り落ちた。
――カラン。
小さな音を立てて転がったのは――
「……ん? 髪留め、か……? どうしてこんなもんが……」
省吾は拾い上げ、表、そして裏面へとゆっくり視線を移した。黒ずんでひしゃげた髪留めらしきもの。お世辞にも綺麗とは言い難い。だがそこには省吾にとって馴染み深い――銀色の輝きがあった。
「…………これって……姉ちゃん、の……?」
何気なく放たれたその一言。瞬間、母の顔から血の気が引く。母は震える手で手紙を開くと、中身をじっくりと読み始めた。自身が感じたこの不吉が、杞憂であることを祈りながら。
手紙の途中で、母の目線が止まった。だらりと下げられた手。部屋の空気が変わる。
「…………桜子っ……!」
その名を読んだ声は、か細くかすれていた。母の頬を一筋の涙が伝う。ただその涙で、省吾は悟った。歯を食いしばり、必死で泣くまいとするも、幼き彼にはそれは叶わない。兄妹たちの目にも、いつの間にか涙が浮かんでいた。
この夜、家族は初めて――
椿 桜子の死を知った。
――――
今日のダンジョンは港区で発生したブルーゲート。下水処理場の近くで発生し、公安もギルドも匙を投げた一件だ。俺は相変わらず、ソロでモンスターの群れへと突っ込んでいた。
「はああああああつ!!!!」
踏み込み、敵を一閃。屍の山を越え、ダンジョンの最奥を目指す。返り血を浴びたレイピアが、淡く輝く。
(まだ足りない……まだまだ足りないっ……!)
ダンジョンによって生み出される数多の悲劇。それは平和な日常を容易く破壊し、人々を絶望の淵へ追い込む。『正義』の為なんて……そんな綺麗事で、俺は動いてる訳じゃない。俺はただ復讐の為に、この地獄に足を踏み入れているに過ぎないんだ。けど――
誰かの悲しみを背負った分、この刃には更に多くの血を吸わせてやる。この命が尽きるまで。
俺の新たな得物。
魔道具『落葉 椿』。
その名を、胸に刻み込み――
俺は今日も、モンスター共を殺し尽くす。