「こいつはっ……!」
扉の奥に待ち受けていたのは、深淵かと見紛う螺旋――漆黒の渦だった。空間そのものが捻じくれ、黒が黒を飲み込み上塗りする。底の見えない暗闇がゆっくりと回転している、未知の光景。
「マザーゲートと、我々は呼んでいる」
放心する俺を呼び戻したのは、桐生のその一言。
「……マザー、ゲート……?」
聞きなれぬ単語だ。首を傾げる俺を見て、桐生はフッと笑った。
「ゲートの種類は全部で三つ。ブルーゲート、イエローゲート、そしてレッドゲート。順に攻略難易度が高くなる。これが世間で言う『一般常識』だね。だが……本当はもう一つ存在するのだよ」
桐生は歩を進め、渦の前で立ち止まる。そしてこちらへ振り返ると、右腕を掲げて渦を指した。
「今だ踏破した者がいない、漆黒のダンジョン。それこそがこのマザーゲートだ。我々公安の最終目標は、このゲートの謎を解き明かすことにある」
場の空気が張り詰める。皆が息を呑んでいた。
俺は右手をわずかに上げる。
「……いくつか質問、良いですか?」
「どうぞ」
あまりに突拍子が無い話に面食らうが、順に解き明かしていくより他ない。
「まず一つ目。俺は長年ダンジョン攻略を生業にしてきましたが、こんなゲートの存在は知りませんでした。このゲートは公安が秘匿しているって解釈で良いんですかね?」
「概ねその解釈で問題ないよ。だが、公安内でもこのゲートの存在はトップシークレットだ。知るのは上層部の一部の人間のみだね」
横目で吉田を見ると、桐生は何かを察したように笑った。悪気があった訳ではない。だが茂宮はともかく、吉田がその条件を満たしているとは思えなかった。
「茂宮少佐たちがこのゲートの存在を知ったのは、つい先日のことだ。君の捜索を依頼した際に、ある程度の情報は開示した。その中に、マザーゲートの存在も含まれていたという訳さ」
「俺、ほんとやべぇとこに足を突っ込んじゃったって思いましたよ……! もう引き返せねぇ、やるしかねぇ……的な!?」
吉田の興奮気味の震え声が響く。公安の人間でさえ知らぬ禁域――俺が踏み込んだのは、そういう場所だった。
「……二つ目の質問です。このゲート、いつからここにあるんですか? ……というより、なぜ公安の地下に?」
「――順番が逆だね。ゲートは以前より、ここにあったのだ。我々が後からここへ本庁を建てたのだよ」
「なにっ……!!」
公安本庁が建てられたのは約二十年前。
その時には、ゲートは既に観測されていた――?
「じゃあスタンピードは!?」
「起きなかった」
桐生は静かに言い切る。
「なぜだろうな。この漆黒のゲートはいくら時が経とうとも、スタンピードを起こさない。通常ならばどんなに長くとも、半年足らずで時間切れになるんだがね。このゲートだけが、唯一の例外なのだよ」
桐生の目が細められる。その瞳の奥にあるものは、俺には推し量れない。
「……最後の質問です。このゲートの先には……いったい何があるんですか?」
「塔だ」
塔――
「遥か高き、巨大な塔が、ポツンとひとつ建っている。それだけだ」
「それだけって……」
「ダンジョン……というのかな、アレも。塔の中にはモンスターも出るし、独自の生態系が根付いている階層もある。異様な空間だよ。登れども登れども、一向に終点は見えて来ない。頂上には、いったい何が待っているんだろうね……」
桐生は虚空を見つめ、まるでそこに塔の影を見ているかのように目を細めた。
「我々は、それを確かめたいのだよ」
その時――
漆黒の渦がふっと揺らいだ。突如、渦より人影が現れる。
「ん~! つっかれたぁ~」
「へっ、楽勝楽勝! 欠伸がでらぁ!」
白コートの男女二人が、渦の中から歩み出た。
「あっ! 桐生さまぁ♥ きららの帰りを待っててくれたんですかぁ♥」
女は桐生の姿を見るなり、目を輝かせて駆け寄る。
「お帰り、
「もーっ!! 毒島は止めて下さいって~! きららはきららです、よろしくです♥」
遅れて男が気だるげに歩み寄り、小指で耳をほじる。
「うっせーぞ毒島、早く報告しろ」
「あ? なんだ木羽? 毒島って呼ぶなって言ってんでしょ? 握り潰すよ?」
「けっ、うるせーな……じゃあきらら、早く報告を――」
「アンタみたいのが、馴れ馴れしくきららなんて言ってんじゃないわよ……! 締め殺されたいの?」
「どうしろってんだよ!?」
……何だこいつらは?
公安の遥か地下深く。得体の知れぬゲートの前で、わいのわいのと騒ぐ二人組。場にそぐわぬ軽薄さ――確実にヤバい奴らだ、色んな意味で。
だがその奥に潜む「只人ならぬ気配」だけは、肌で感じた。桐生は困り笑いを浮かべ、咳払い。
「……毒島君。報告を続け給え」
その一言で、毒島は即座に態度を切り替えた。
「はーい、了解です♥ 本日の攻略は計三階層、収穫物は特にありません。これで到達階層は三十二階になりました! まだまだ余裕ですっ!」
「そうか……だが常に不測の事態には備えるべきだ。攻略ペースは変わらずこのままで行こう。二人ともご苦労だった。よく休んでくれ」
二人は桐生に一礼し、エレベータへ向かう。その道中で、俺を見て足を止めた。
「ん~? この子、見ない顔ですね~」
「……ほんとだな。部外者が何でこんなとこに居やがるんだ……?」
しかめっ面で全身を舐め回す毒島と木羽。暗がりではよく分からなかったその外見が、ようやく露わとなる。
「あっ、分かったぁ! ねぇねぇ桐生様。この子がこの前言ってた、例の『隠し玉』ですよね?」
「……あぁ! 思い出したわ! そういや写真の顔とおんなじだな!」
俺が話す間もなく、二人は勝手に納得したようだ。毒島は紫のツインテール、木羽は八重歯のツンツン頭がよく目立つ。そしてやはり、何よりも目を引くのはその身に纏った純白のコートだった。
公安の執行部隊。俺もテレビで何度か見たことはある。能力者を保有しない公安が、高レベルのダンジョンを攻略し得る唯一の方法。それがこいつらの存在だ。
超人離れした肉体。
卓越した戦闘能力。
各々が専用の魔道具を操り、能力者顔負けの力を発揮する超人集団。
(イエローゲートですら易々と攻略するらしいからな。ギルドもかたなしだな)
改めて、桐生が俺の方へ向き直った。
「さて、それでは本題だ。御剣君、君をここに呼んだのは他でもない。我々執行部隊は現在、マザーゲートの解明に力を入れている。そして君にも、このゲートの調査をしてもらいたいんだ」
……だろうな。
ゲートの存在を言い渡された時から、薄々そんな気はしていた。
「無論、報酬は用意しているよ」
桐生が右手に持っていたアタッシュケースを持ち上げる。事前に茂宮から聞いていた。こちらが俺の、
――だがその中身が何なのか、俺はまだ詳細を知らない。
(鬼が出るか蛇が出るか……)
アタッシュケースが開かれると同時に、空気が変わった。場の温度が一段階、下がった気がする。
「…………え?」
覗き込んだ瞬間に心を鷲摑みにされ、奈落の底へと引きずり込まれるような感覚。そこにあったのは、小さな球体。
――深い
宝石のような輝きなのに、どこか脈動している気配がある。
「……これは?」
自分の声が半拍遅れて耳に届く。鼓膜の裏ではジャラジャラと不快な金属音が弾けた。桐生はまるで雑談でもするように、淡々と告げる。
「魔眼だ」
その言葉を聞いた瞬間、視界の端がじわりと赤く滲んだ。
「……魔眼、って……! ……俺はてっきり、武器やら防具なんかの魔道具が出て来るものかと思ってたんですが……」
桐生は球体を見つめたまま、静かに語り始めた。
「当たらずも遠からずだ。これも魔道具の一種と思ってくれて構わないよ。魔眼とは、ダンジョンの深層で稀に発見される『異能の核』だ。我々に……禁忌の力を授けてくれる」
「禁忌の……力? 何ですか、それは……?」
桐生は魔眼を手のひらで転がしながら、薄く笑う。
「……さてね。この瞳にどんな力が宿っているのかは、実際に眼を移植してみなければ分からない。まさに神のみぞ知る、だ」
――移植。
思わず悪寒が走った。桐生は俺の反応を楽しむように、説明を続ける。
「魔眼は所有者の目に移植することで、初めて効力を発揮する。やり方は簡単だ。この球体を左右どちらかの目にあてがって、眼球の上からグッと。押し込むだけ――」
自分の右目に球体を当て、押し潰す真似をしてみせる。
「どうだい? 簡単だろう?」
あっけらかんと笑う桐生のその顔の下に、俺は恐ろしき蛇を見た気がした。
「……簡単って……どこがですか。自分で目を潰して、異物を押し込めって……そんなの」
常人の思考じゃない。
狂気の沙汰だ。
眼孔がチリチリと焼け付く感覚に襲われた。先程の桐生の説明。魔眼の仕組みについて、どうしても納得しがたい事実を再度問う。
「……目を潰して、魔眼を入れて……そこで初めて能力が明らかになるんですよね? もしもそれが、使い物にならないような力だったら? どうするんですか……?」
俺の疑問に対し、桐生は当然のことのように言い放つ。
「一度移植した魔眼は、もう二度と取り外せない。持ち主と一体化するからね。無理に外せば……死ぬよ」
淡々と告げる声が、逆に恐ろしい。だが桐生の声音には、恐怖だけではない何かが混じっているのを感じた。端的に言うなら、そう――
信念。
覚悟。
正義。
そんな物に殉じる、狂信者の匂いがする。
「だが、そう悲観することばかりでもない。我々執行部隊にも魔眼ホルダーが二名いるが、いずれも人智を超える力を授かった。ただの無能力者では決して到達できない領域だよ。魔眼はね……選ばれた者にだけ開く可能性の扉なんだ」
毒島と木羽が、誇らしげに桐生を見据える。二人の眼差しには、畏怖と羨望の色がありありと滲んでいた。
(魔眼ホルダーが二人…… まさか、そのうちの一人ってのは……!)
見開かれた俺の目を見て、桐生は満足げに頷いた。
「御剣君。君はただの『無能力者』では終わらない……終わらせるつもりはない。私はね、才能のある者が凡庸の檻に閉じ込められているのが、我慢ならないんだよ」
――凡庸。
その言葉が胸の奥に刺さる。
ガキの頃に閉じ込められたダンジョン。ただがむしゃらにモンスターを殺すことに邁進した。明日を迎えられる保証なんてない。憎しみを糧に、殺して殺して殺し尽くした。
モンスターの血を全身に塗れば、奴らの鼻を欺けるのだと知った。飢えを凌ぐ為に奴らの死肉へと齧りつき、渇きを満たす為に自身の排泄物すら嚥下した。
あの地獄を生き延びたこの俺が、凡庸だと?
……いや、違う。違うはずだ。
だが胸の奥で、何かが囁く。
「お前はまだ、足りない」と。
刹那、桐生の左目が変貌した。瞳孔の奥に、群青の六芒星が浮かび上がる。その瞳に見つめ返された瞬間、思考が削ぎ落された。漆黒のゲートを前にしてなおその青は、全てを飲み込む深海のようだった。
胸の奥がざわつく。恐怖と同時に、奇妙な憧憬が湧き上がる。心臓の鼓動が聞こえる。久方ぶりに――心が高鳴った。
「ご想像の通りだ。この私、桐生 正臣こそ、人類最初の魔眼ホルダーだ。――さあ、御剣 一真君。君も、こちら側へと来る覚悟は出来たかな?」
エメラルドの果実を差し出し微笑む桐生に、俺の右手は吸い寄せられていった。