敵の能力、殴っただけで全部もらえました 作:のぢ
月角狼が地面を蹴ると、低く沈んだ灰色の巨体が、舞い上がる落ち葉を突き破るように一直線に迫ってきた。太い前脚が湿った土を深く抉り、その速さを認識したときには、すでに牙が目の前まで迫っている。
「うわっ!」
反射的に身体をひねった俺の肩を鋭い爪が掠め、上着と一緒に皮膚まで浅く裂いた。熱い痛みが走ったものの、立ち止まる余裕はなく、転がるように距離を取ってから枯れ枝を両手で構え直す。
月角狼はすぐには追ってこず、低い唸り声を漏らしながら、俺の周囲をゆっくりと回り始めた。獲物の力量を測っているのだろう。黄色い瞳は一度もこちらから外れず、逃げたところで簡単に追いつかれることだけは分かった。
なら、やるしかない。
再び地面を蹴った月角狼を、今度は正面から待ち受ける。迫る牙をぎりぎりまで引きつけて横へ身を投げると、すれ違いざまに折れかけた枝を灰色の胴へ叩きつけた。
《固有能力“一撃習得”が発動しました》
《スキル“疾走”を習得しました》
その瞬間、身体から重さが消えたように感じられた。地面を軽く蹴っただけで予想以上に遠くへ跳べるうえ、足の運びや重心の移し方まで、昔から知っていたかのように自然に理解できる。
「これなら……!」
月角狼が振り返るより早く地面を蹴ると、森の景色が後ろへ流れ、ほんの数歩でその懐へ飛び込めた。驚いたように見開かれた黄色い瞳の下へ、勢いのまま枯れ枝を振り抜く。
《スキル“嗅覚強化”を習得しました》
湿った土や苔、獣の毛、遠くを流れる水まで、無数の匂いが一斉に鼻へ流れ込んできた。その中に混じる濃い血の匂いを辿ると、月角狼の右後ろ脚へ行き着く。
毛に隠れて見えにくいものの、そこでは古い傷が開いていた。俺が距離を取りながら位置を確かめていると、月角狼が吠え、額の黒い角へ淡い光を集め始める。
まずい。
咄嗟に横へ跳ぶと、直後に角から白い風の刃が放たれ、背後の木へ深い傷を刻んだ。切断された枝葉がまとめて落ちてくるのを見て、背筋が冷える。
「そんなのまで使うのかよ……!」
まともに受ければ、身体を切り裂かれる。けれど、あれも攻撃である以上、一度当てれば覚えられるはずだ。
再び角へ光を集め始めた月角狼に対し、俺は疾走を使って木々の間を駆けた。正面から逃げるのではなく、右へ左へと細かく進路を変えるたび、風の刃が木の幹や地面を次々と切り裂いていく。
最初こそ自分の速さに振り回されていたが、走るほどに身体が馴染み、今では月角狼の動きさえ少しずつ遅く見え始めていた。
一本の大木を回り込んで死角へ入り、勢いのまま飛び出す。
「そこだ!」
振り下ろした枯れ枝が、月角狼の黒い角を打った。
《スキル“風刃”を習得しました》
力の使い方が頭の中へ流れ込んでくるのに任せ、そのまま枝を振るう。先端から放たれた白い風の刃は月角狼の頬を浅く切り裂き、灰色の巨体を初めて後ずさらせた。
「俺にも使える」
月角狼は怒りに毛を逆立て、大きく口を開いて飛びかかってきた。俺は牙を避けながら脇腹を殴り、続く前脚をかわして背中へ枝を叩きつける。
《スキル“爪撃”を習得しました》
《スキル“野生勘”を習得しました》
三度目の突進も横へ受け流し、狙いを定めて傷ついた右後ろ脚へ風刃を放つと、月角狼の巨体が大きく均衡を崩した。
呻きながらも立ち上がろうとする姿を前に、俺は一度足を止める。今なら倒せると確信できたが、よく見れば月角狼の腹は不自然なほど痩せ、泥のこびりついた毛皮には、古傷以外にも細かな傷がいくつも残っていた。
縄張りを追われたのかもしれない。
そう思うと僅かに迷いが生じたものの、人を襲った魔物を見逃すわけにはいかなかった。
「悪い」
地面を蹴ると、月角狼も最後の力を振り絞って牙を剥いた。俺はその横をすり抜け、黒い角へ向けて枯れ枝を振り下ろす。
重ねて放った風刃が角を根元から折り、月角狼の身体が重い音を立てて地面へ倒れた。
《六級魔物“月角狼”を討伐しました》
《レベルが三から八へ上昇しました》
《スキル“疾走”が“高速疾走”へ成長しました》
《称号“格上殺し”を獲得しました》
温かな力が全身を満たし、肩の傷が塞がると同時に、乱れていた呼吸まで急速に整っていく。俺は倒れた月角狼の傍らへ膝をつき、しばらくその巨体を見つめた。
「これを、俺が一人で……」
少し前までスライムにさえ怯えていた自分が、今は六級魔物を一人で倒している。にわかには信じられなかったが、目の前に横たわる巨体も、身体に宿った新たな力も、紛れもない現実だった。
その事実を噛み締める間もなく、近くの茂みが小さく揺れたため、俺はすぐに立ち上がって枯れ枝を構える。
草葉を押し分けて現れたのは、手のひらに乗りそうなほど小さな灰色の子狼だった。額にはまだ豆粒ほどの黒い角しかなく、俺には目もくれず倒れた月角狼へ駆け寄ると、その頬へ何度も鼻先を押しつける。
「子供がいたのか……」
そこでようやく、月角狼が痩せていた理由に気づいた。自分のためではなく、この子に食べさせるため、無理をして獲物を探していたのだろう。
母親が動かないと悟った子狼は、今度は俺へ向かって小さな牙を剥いた。脚は震えているのに逃げようとはせず、倒れた母親を守るように前へ立ちはだかる。
俺は構えていた枯れ枝を下ろした。
「俺を恨むよな」
腰の革袋から、自分用に隠していた最後の干し肉を取り出し、地面へ置いてから距離を取る。子狼はしばらく警戒していたものの、やがて恐る恐る近づくと、夢中になって肉を食べ始めた。
その様子を見ながら、俺は困って頭を掻く。
「町まで連れていくのは、まずいよな……」
魔物を連れたまま城門を通れるはずがない。だからといって、この森へ置いていけば、まだ幼い子狼が長く生きられるとも思えなかった。
どうするべきか迷っていると、頭の中に新たな音が響く。
《称号“格上殺し”の追加効果が解放されました》
《討伐した魔物の眷属から、敵意を向けられにくくなります》
肉を食べ終えた子狼は顔を上げ、しばらく俺を見つめてから、まだ警戒するように鼻を鳴らしつつ足元へ座った。
「……ついてくるのか?」
問いかけると、子狼は返事の代わりに小さく鳴いた。
俺は月角狼の折れた角を拾い上げる。六級魔物の素材なら町で売ればかなりの金になるはずで、冒険者登録の費用だけでなく、妹の薬代まで払えるかもしれない。
役立たずとして森へ置き去りにされてから、まだ半日も経っていない。それなのに俺は、新しい力と六級魔物の素材、それに一匹の奇妙な連れまで手に入れていた。
「よし。まずは町へ戻ろう」
歩き出した俺のあとを、子狼が少し遅れてついてくる。枝葉の隙間から差し込む夕暮れの光が、暗かった森の道を細く照らしていた。