レイヴンウッドの私生児 (Reivun'uddo no Shiseiji) 作:T_rav_weezi1997
第二章 〜 信じがたい現実 〜
巨大な塔が姿を現してから、それほど時間は経っていなかった。
エルフ女王国は、ゆっくりと、しかし確実に変わり始めていた。
王都から辺境の村々に至るまで、陰謀論や噂が国中を駆け巡る。
「あの塔は異世界の邪悪な存在が造り出したものだ。」
「いや、他国による陰謀だ。女王国を滅ぼすための計画に違いない。」
誰もが好き勝手に語っていた。
だが、私の日常だけはほとんど変わらなかった。
白騎士団はハーディ団長の指揮のもと、塔の調査を続けていた。
彼らは、塔を操る存在――あるいはその正体に、あと一歩のところまで迫っていると考えていた。
ある日の夕暮れ。
私はいつものようにサーシャ様のもとを訪れた。
それは、今ではすっかり日課となり、私自身も誰より楽しみにしている時間だった。
だが、その日の彼女はどこか違っていた。
元気がない。
いつもの自信に満ちた表情は消え、不安そうな面持ちを浮かべている。
「サーシャ様……顔色が優れませんね。お水でもお持ちしましょうか?」
彼女は静かに視線を落とし、手にしたティーカップを強く握り締めた。
「……数年前、私は『種族融和協会』という組織に所属していたの。」
その声には、普段の力強さがなかった。
「そこに、一人の人間の少年がいたわ……名前は……まあ、もう名前なんてどうでもいいわね。」
彼女は言葉を止めた。
私は何も言わず、続きを待った。
やがて彼女は、小さく呟く。
「……私たちは、彼を裏切った。」
それだけだった。
理由も。
言い訳も。
弁解もない。
その三つの言葉だけが、部屋の空気を重く支配していた。
「……後悔しているんですか? それとも、そうせざるを得なかったのでしょうか。」
私は静かに尋ねた。
サーシャ様は目を閉じる。
「……いいえ。私は幸せになるために必要なことをしただけ。それが私のずっと望んできたことだったから。」
答えはあまりにも早かった。
だが、その言葉はどこか空虚で、本心には聞こえなかった。
もっとも、サーシャ様は昔から感情を隠すのが上手い人だった。
「でも……」
彼女はか細い声で続けた。
「最近になって……誰かに見られている気がするの。」
月明かりに照らされた庭園を見つめながら、彼女は震えるように言う。
「誰もいないって分かっているのに……廊下でも、夜でも……いつも誰かの視線を感じるの。」
私も窓の外へ目を向けた。
何もいない。
……はずだった。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
誰かがこちらを見返していたような気がした。
重苦しい空気を変えるように、サーシャ様が突然笑顔を浮かべた。
「そうだ、アッシャー! あなたに渡したいものがあるの。」
彼女は部屋の隅から大きな木箱を運んできた。
「私に贈り物ですか? どうやら、ようやく気に入っていただけたようですね。」
その瞬間、彼女の頬が真っ赤に染まる。
「ふ、ふん! 勘違いしないで。あなたは今でも下等種なんだから。それを忘れないことね!」
照れ隠しなのは一目で分かった。
「ああ、肝に銘じておきます。」
私は木箱の蓋を開けた。
中には、黒革と濃灰色の鋼で造られた見事な鎧が収められていた。
肩には漆黒の毛皮のマント。
胸当てには美しい銀細工が施されている。
こんな立派な防具を身につけたことなど、一度もなかった。
「……綺麗だ。でも、こんな高価なもの受け取れません。」
「気にしないで。いつまでもその古い鎧で王宮を歩かれても困るもの。」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
「それに……全部片付いたら、あなたには私の専属護衛になってほしいの。」
その一言で、心臓が止まりそうになった。
「……喜んで、お受けします。」
私は深く頭を下げる。
「命に代えてもお守りします。今はまだサーシャ様の方がお強いですが、いつか必ず隣に立てるほど強くなってみせます。」
彼女は優しく微笑んだ。
「塔の問題が終わって、すべてが元通りになれば正式に任命するわ。それまでは……その贈り物を楽しんで。」
◇
翌朝。
私は新しい鎧を身につけた。
驚くほど身体に馴染み、最高級の鋼で作られているとは思えないほど軽い。
市場へ向かおうとした時、一人の人間の使用人が封筒を抱えて駆け寄ってきた。
「アッシャー様。こちらを直接お渡しするよう命じられました。」
封蝋にはサーシャ様の紋章。
私はすぐに封を切った。
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親愛なるアッシャーへ
私とミカエル、ハーディ団長、そして白騎士団は塔へ向かいます。
本当はあなたにも来てほしかった。
でも、今のあなたでは危険すぎるわ。
心配しないで。
私たちは必ず戻る。
そしてその時――
あなたはようやく、私の隣に立つべき場所へ来るの。
――サーシャ
---
読み終えた瞬間。
胸の奥に、言いようのない不安が広がった。
何度振り払おうとしても、
嫌な予感だけは消えてくれない。
「……剣を取りに行こう。」
故郷から持ってきた唯一の品。
あの錆びついた剣を、以前鍛冶屋へ預けていた。
修復できるか試してもらうために。
店へ着くと、カシルは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「やあ、アッシャー……残念なお知らせがある。」
彼はゆっくりと剣をカウンターへ置く。
「できる限りのことはした。でも……損傷が酷すぎる。錆そのものが、もう刃の一部になってしまっている。」
私は静かに剣を手に取った。
「……大丈夫ですよ。」
擦り切れた刃を指でなぞる。
自然と笑みがこぼれた。
「挑戦してくれただけで十分です。」
剣を背中へ背負い直す。
それだけで、失っていた自分の一部を取り戻したような気がした。
「すまない。」
カシルはため息をつく。
「次に何か頼む時は、無料にさせてもらうよ。」
私は笑った。
「そんな必要ありません。それに……サーシャ様以外で、この国で私を友人として接してくれたのは、あなたくらいですから。」
カシルも笑みを浮かべる。
「それなら、これからも友人でいよう。」
彼が続きを話そうとした、その瞬間だった。
世界が静まり返る。
鳥の声が消えた。
風が止む。
市場の喧騒さえ、一瞬で失われた。
そして――
グオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
咆哮が天を裂いた。
街中の窓ガラスが砕け散る。
大地が激しく震える。
「……な、何だ……?」
カシルが震える声で呟く。
再び咆哮。
さらにもう一度。
息が詰まるような威圧感が女王国全土を覆った。
人々は悲鳴を上げる。
子どもたちは泣き叫ぶ。
兵士たちは怒鳴りながら街を駆け回るが、その声さえ誰にも届かない。
私の本能は、一つだけを叫んでいた。
――逃げろ。
「……サーシャ。」
私は考えるより先に走り出していた。
王都へ向かって。
最後の通りを曲がった、その時。
巨大な影が街全体を覆い尽くす。
私は空を見上げた。
雲の上から――
真紅の双眸が世界を見下ろしている。
ドラゴン。
……いや。
私が知るどんな伝説の竜とも比べ物にならない存在だった。
真紅の鱗は、太陽の光を浴びて溶けた鋼のように輝く。
翼が一度羽ばたくたび、暴風が屋根を吹き飛ばし、街中へ瓦礫を撒き散らした。
そして――
その竜は翼を畳み、
王城へ向かって一直線に降下していく。
「あそこだ……!」
私は拳を握り締めた。
「……間に合うはずがない。」
それでも足は止まらなかった。
無力でも。
手遅れでも。
行かなければならなかった。
走り続ける私の頭上に、
さらに新たな竜たちが雲を割って姿を現す。
黒。
銀。
翠。
蒼。
彼らはまるで歴史の行く末を見届けるかのように、高空を旋回していた。
降り立ったのは、
真紅の竜だけだった。
ようやく王城へ辿り着いた頃には、
その竜は再び空へ舞い上がっていた。
一瞬だけ安堵する。
だが、その安心は中庭へ足を踏み入れた瞬間に消え去った。
女王が立ち尽くしていた。
その顔にあったのは怒りではない。
恐怖だった。
人智を超えた何かを目撃した者だけが浮かべる、
絶望そのものだった。
私が何が起きたのか尋ねるより早く、
女王は私を真っ直ぐ指差した。
「その下等種の人間を直ちに捕らえなさい!」
甲高い金属音が中庭に響き渡る。
何十人もの近衛兵が、一斉に剣を抜いた。
その切っ先は――
すべて、
私へと向けられていた。
第二章・完