影に陽は差し 第一部   作:夜城咲良

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129.一線

 

 葵がネネコの隣で寝息を立て始めて、少し時間が経った。ネネコは相変わらず満足そうに眠っているし、コトネも二人を見守りながら静かに目を閉じた。ひどく、穏やかな時間だった。

 

 

 なぜ葵がこんなところで寝ているかというと、十四歳の葵を前にして、イクチ夫妻の母性が爆発したからだ。

 

 

 ネネコを見て感極まったらしい葵は、ぼろぼろと泣き出して情緒不安定になった。俺は慣れているが、イクチは? コトネは? だが二人ともそんな葵を見てもさほど驚いた様子はなく、イクチは葵の隣に移動して何の躊躇いもなく頭を撫でた。少し、モヤモヤした。

 

 

「葵ちゃん、ちょっと休んでいきなよ。ほら、ちょうど布団もあるし。俺ので申し訳ないけど」

「何言ってるの。来客用の出して」

「えー。いいだろ、葵ちゃんはほとんど身内なんだし」

「女の子よ。オジサンの布団で寝れるわけないじゃない」

「オジサン……俺まだそんな年じゃないよ……」

「いいから布団持ってきて。早く」

 

 

 イクチ夫妻がテンポよくやり取りするのを、葵は泣き顔のままポカンとしばらく見ていた。それからハッとして慌てて首を振ったものの、コトネはちょっと怖い顔でピシャリと撥ねつけた。

 完全に、母親の顔だった。

 

 

「葵ちゃん、あなたの話は聞いてます。史上最年少で情報部に配属された忍猫使い。あなたがたくさんの期待を背負っていることは分かるし、とても立派な仕事だと思うわ。でも、よく考えて。あなたはまだ十四歳で、世間ではまだ子どもなの。私たち忍びは実力主義、子どもだの大人だの言っている余裕はない。それは事実。でもあなたは、心も身体もまだ成長途中なの。無理をして壊れては、元も子もないのよ」

 

 

 俺にここまでのことを言える強さはない。俺だって、つい先日十八になったばかりだ。中身はまだまだ子どもだと思うし、子どもの葵を相手にみっともないことを考えて身を焦がしている。こんなこと、誰にも知られるわけにいかない。

 

 

 目を見開いて唇を震わせる葵に、コトネは一転してとても穏やかに美しく微笑んだ。

 

 

「イクチもゲンマも、あなたを家族のように思ってるわ。だからあなたは、私にとってもこの子にとっても家族よ。ここでは無理しなくていいから、せめてゆっくり、休んでいって」

 

 

 果たして予想通り、葵はまたわんわんと泣き出した。やがてイクチが新しい布団を一式運んできて、自分の布団を脇に寄せてネネコの隣に敷いた。葵はネネコの手をそっと握って、泣きながら眠りについた。

 

 

「お前、暇だろ? 飯でも作ってってくれよ」

「そこは『飯でもどうだ?』って誘うとこだろ。買い出しまでさせたくせに甘えてんなよ。金払え」

「じゃあ金払うから家政夫になってくれ」

「ちゃんと雇えよ、そういうのは。間に合わせじゃなくて」

「そうだなー。ネネコがアカデミー入るまではやっぱそれが無難かなぁ」

 

 

 葵たちを寝室に残して、俺はイクチと居間に移動した。イクチは別に金をケチってるわけじゃない。家の付き合いも仕事も、イクチは世渡りで上手く切り抜けてきた節が強い。誰とでも上手くやれるが、その分、家の中には一線を引いておきたい境界がある。

 他人を、どこまで入れるか。そのバランスを測りかねて、結局ネネコが生まれたあともまだ家政夫を雇うかどうかを決めかねていた。

 

 

「とりあえず今日は作ってってやるから、コトネの負担減らしたいとか言うんだったらちゃんと先のこと考えろよ」

「分かったよ。葵ちゃんはどうかな? 飯食ってってくれるかな?」

「まぁ、あいつは遠慮すると思うけど」

「お前と違って厚かましくないからな」

「お前が言うなよ。さっさと金払え」

「俺より稼いでるくせに! 何だよ、火影の護衛小隊って! いつの間に出世してんだ、この野郎!!」

「うるせぇ、実力じゃないんデスカ?」

 

 

 そんなこと本当はこれっぽっちも思っていないし、口が裂けても言えることじゃない。だがイクチの前では、別だ。

 互いに一人っ子の俺たちにとって、ガキの頃からまるで兄弟のように過ごしてきた。

 

 

 だから、本当の兄弟でなくとも、本当の兄弟のような関係を築くことはできると、俺は子どもの頃から信じ切っていた。

 

 

「そういや、お前、葵ちゃんのこと好きなんだって?」

 

 

 イクチがまるで天気の話でもするみたいな軽いノリで聞いてきたので、俺は口から麦茶を吹き出した。心臓も一緒に飛び出るかと思った。

 

 

「お前、ほんっとに分かりやすいな」

 

 

 呆れたように肩を竦めるイクチを睨みつけてから、俺は慌てて周囲を見回す。もし葵が起きてきて今の話が聞こえていたら、洒落にならない。

 

 

「お前、そんな話、どこで……」

「アホか。本部でだいぶ前から噂になってんぞ。おじさんもとっくの昔に知ってる」

 

 

 胃が痛い。吐きそうだ。親父もイクチも、全く知らぬ顔でここまで来たってことかよ。

 

 

「まぁ、俺は驚かねぇよ? そのうちそうなるだろうなって昔から思ってたし。お前、ガキの頃から葵ちゃんへの思い入れがちょっと普通じゃなかったもんな?」

 

 

 普通じゃなかったと言われて、顔から火が出そうになった。もちろんそんなこと、自分では全く気づかなかったからだ。

 だが事実、ここ最近の自分はおかしいと思う。俺は袖で口元を拭いながら、消え入りそうな声でうめいた。

 

 

「……俺、そんなにおかしかったか?」

「だってお前、他人をそんなに簡単に懐に入れるようなやつじゃねぇだろ」

 

 

 当たり前のように言われて、ハッとなった。何も初めから、葵を気に入って面倒を見たわけじゃない。最初は打算だったし、こんなに長い付き合いになるとは想像もしていなかった。

 だがいつの間にかそばにいるのが当たり前になって、笑顔も泣き顔もすべてが愛おしくて、離れたくないし、離したくないと強く思う。葵の脆い心を包み込んで、もう、傷がつかないように世界から覆い隠したい。

 

 

 だが、それでは、駄目なんだ。

 

 

 何度深く傷ついても、葵はそれでも、歯を食いしばって戦おうとしているのに。

 

 

「好きって言わねぇの? もう言った?」

「………言ってたら、こんなところにあいつと来てねぇ」

「こんなところって何だよ。言えよ。葵ちゃんだってお前のこと好きだろ」

 

 

 イクチはあっさりとそう言ったが、俺は耳まで熱がこもるのを必死にごまかそうと首を振った。

 

 

「あいつは俺のことなんか……幼なじみとしか、思ってねぇよ」

「そうか? 葵ちゃんだってとてもそれだけとは思えないけどな」

「やめろって。それにあいつは……澪様の決めた男と結婚するんだってよ。恋愛なんかしてる暇ねぇって言われた。俺の入る余地なんかねぇよ」

「マジか。もう許婚がいるってことか?」

「それは多分、まだだけど……」

 

 

 するとイクチは神妙な顔つきを一瞬で崩して笑い出した。笑いごとじゃないとイライラした。

 

 

「なんだ。世界の終わりみてぇな顔してるからもう相手決まってんのかと思ったわ。じゃあ何も問題ない。俺と結婚してくれって言えばいい」

「ばっ! バカか!!」

 

 

 何でいきなり結婚なんだよ。そういうのは段階があるだろうが。

 いや、そもそも葵が俺なんか好きになるわけがない。あいつは俺のことなんか、欠片も男と思ってないからだ。

 

 

 だからあんなに、気安く触れられるんだろ?

 

 

 俺は口の中の千本を強く噛み締めながら、足元に視線を落とす。

 

 

「あいつは、今……朝から晩まで毎日必死こいて仕事してんだ。あんなにぼろぼろになっても、それでも毎日踏ん張って、笑って頑張ってんのに……俺が、あいつの邪魔するわけにいかねぇんだよ」

 

 

 もし、あいつが俺の気持ちなんか知ってしまったら。あいつは俺を、仲間として必要としてくれているのに。

 あいつが俺の醜い欲望なんか知ったら、俺たちの関係なんて、呆気なく終わる。

 

 

「じゃあそうやってずっとみっともなく逃げ回ってろよ。そのとき後悔したって遅いからな」

 

 

 イクチの言葉に顔を上げると、言葉よりもずっと温かい眼差しで、イクチは微笑みながら俺を眺めていた。どうしようもなく、胸が痛くなった。

 イクチが軽く握った拳で俺の肩を叩いて、告げる。

 

 

「俺だって何年もアプローチしてやっとオッケーもらえたんだぞ。告白する前からウジウジしてんなよ。じゃ、飯の準備は頼んだ。あるもん何でも使っていいぞ」

 

 

 話の終わり方が雑すぎる。イクチはもう一度俺の肩を叩いて居間を出ていった。クソ、簡単に言いやがって。

 

 

 十年だぞ。十年もずっと、幼なじみとしてそばにいたのに。

 

 

 今さらどうやって変わればいいかなんて、分かるはずないだろうが。

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