深夜の海。
低い波がさあさあと音を立てて砂浜を洗う。
空に高く昇った月は、半分が雲に隠れていた。
どうして今、こんな所にいるのだろう。
背後には乗り捨てて、まるで浜に座礁した船のように半身を埋める自転車。
幾度も、まるで鼓動のように寄せる波に、靴が濡れる。
つま先は海水に埋まり、大凡で土踏まずあたりまでが波に飲まれている。
どうして、来たんだろう。
昔遊んだ好きなゲームで、海と呪いに底はなく、故に全てを受け入れる、なんてセリフがあった事をぼんやり思い出していた。
なら、この呪いも後悔も辛さも、何もかも要らないものは、一切合切沈めても構わないのでは。
一歩、沖に進む。
くるぶしまで、海水が寄せる。
まるで、こちらに来いとでも言いたげに、引き際に足首を引っ張ってくる。
けど、まだ足りない。
だから、もう一歩。
どすっ
何かを蹴った。
正確に言うならば、つま先に軽く当たった。
暗くて良く見えていないが、何かある。
屈んでみる。
履いているジーンズ生地のパンツや、下着が海水に染みて、一気に重さを増した。
足をぶつけた場所に手を突っ込んでみて、肩がびくりと跳ねた。
濡れて艶めく毛皮と、いやに固い鱗のような手触り。
子猫か、子犬あたりの遺骸だろうか。
突っ込んだ手で掴んだそれを、そうっと持ち上げる事にする。
まるで海水が剥がれ落ちたヴェールの様に裂けて、バチャバチャと海面に落ちていく。
そうして両手に残ったのは、概ね半分が予想通り、もう半分が完全なる未知だった。
大きさはどれぐらいだろうか。
30センチは無いくらい。
重さは、そこまで軽くはないけれど、見た目の質量感に対してみれば、軽い。250mmのペットボトルを2本程度抱えたくらいに感じる。
で、その見た目だが……
まるで子犬のような、だが子犬にしては鼻先、マズルとか言ったろうか。が短く、子猫にも見えるような顔立ち。
耳は特徴があり、頭頂部に犬や猫の様に上向きに生えるそれは、まるでイラストでクリームパンを描いて下さい、と言われたら大半の人がそう描きそうな、丸くて先端がいくつかに分かれたものだ。
中に生えた耳毛、というのか、異物を防ぐためのふわふわした毛は、少し暗めの赤色。
全体的につやつや、ふわふわとした風体であり、そこまでなら何かしらの陸上生物の亡骸だろうと思ったろうが、そこで首から下を見ると目眩がしそうになる。
つやつやした毛皮に、小さな水かきがついた、まるで腕や指のような発達を見せる鰭。
下半身は嫌に硬質で赤い鱗に覆われた、魚の様な尾鰭。
何これ
こわい
きっと、こんな時間に半身を海水で湿らせるのも憚れないようなメンタルでも無ければ、投げ飛ばしていたかもしれない。
「すひゅ……すひゅ……」
そんな音が、微かにその生物、だと思う物からする。
浅い呼吸、というやつだろうか。
海の生き物なら、海水から上げたらまずいのか。
そう思い、手の上のそれを、顔面と思しき方を海面に向けて沈めてみる。
がぼぼ
いくつもの水泡が波間に上がり、腕、と呼称する事にする鰭と、尾鰭がバタついた。
え、なんか違うっぽい。
急いで引き上げて、再び顔をこちらに向かせ直す。
瞼と思しき部分が薄らと開き、瞳が、と思われる器官が、こちらを捉えていた。
柔らかく降り注ぐ月の光を反射するそこは、海よりも深い青で、青すぎて黒いぐらいで、綺麗で。
ほんのり、光の加減で、薄く赤みがさすらしい。
「…………」
口らしきものが小さく動いて、何か、鳴き声の様なものを上げたかと思えば、鰭が腕を叩く。いや、まるで撫でる様な力のなさだが。
どうするか。
とは言え、こうもぐったりした様子だと、じゃあ浜に置いて帰ります。なんて事はできない、そう思った。
帰ります……か。
無意識はこれから予定していたイベントを、どうやら後回しにした方が良い、そう判断したみたいだった。
自転車を乗り捨て、靴もパンツも下着も海水で濡らしたけど、だ。
相変わらず腕の中でバタつくそれを、なんとかしてみよう。
考えなしに胸に抱え直すと、磯の匂いに混じり、甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。