「あ、そう言えばレポート出して無いな」
私は居間のソファに横たわりながらそんな事を思い出して、声を上げた。
神々狩教授からレポート提出依頼のメールが来て、早くも期限の一週間を過ぎて気付いた。
やばいな。
そう思いながらふと視線をやると、側ではセイレーンのすいがビール缶を上手に両手で抱えて、円柱状のウイスキーグラスに注いでいるところだった。
器用にバランスをとりながら注ぐセイレーンの目は既に赤らんで据わり気味だ。
にしても本当に器用……あ、こぼしてるこぼしてる。
私は起き上がり、机の端に畳んで置いた台拭きを滑らせた。
「ちょい。すい。ビール飲み過ぎ。後ポテチも3袋も開けたらダメだよ」
「あの!きみはさぁ!」
セイレーンは唐突にこちらに顔を向け、ひゅおっと風を切るように指を指してきた。
ビールで濡れた毛皮が、これまた勢いよく飛沫をこちらに飛ばして来る。
「きみは!わたしの気持ちわかってんの!?お歌も練習しないし!ポテチはダメダメダメ!お酒もダメなんだァ!」
「もう、何言ってんだよ。ほーら、お酒おしまい」
私はセイレーンの手元からビールが入ったグラスと缶を取り上げて、高くに持ち上げる。
そしてそれをそのまま胃に流し込むのだ。
こうすれば、流石の奴ですら諦めるだろう。
とは言え、やはり酒に強く無い私が一気に酒を煽るのはキツイものがある。
すいには、自制を覚えて欲しいものだ。
「あー!!そうやって!」
セイレーンが爪を机に立てて癇癪を起こし出した。
いつもこうなるから、ちょっと嫌なんだよな。
「それに、私と同じコップだから間接キスでーす!あー!あー!あー!すけべー!」
「誰が野生を忘れたぐーたら家猫に欲情するんだよ」
「ねこじゃないですけどー!」
あー、もー……だるいなこいつ。
私はそんな事を思う位には酒でびっしゃびしゃになったセイレーンの相手が苦手ではある。
本当に酒を覚えさせた失敗を悔やむ位には。
とは言え、良い点も実はあるのだ。
基本的にセイレーンは要求が通らないと、無色透明に近い癖に色仕掛けをしてくる。
そしてそれが通じないと分かるや否や、もしくは機嫌が悪い場合には、耳を破壊せんとばかりに高音域で大きな声のビヴラートを浴びせて来るのだ。
だが、お酒に酔うとどうだろう。
口元がへにょへにょと頼りなげにもごつき、上手く歌えないらしいのだ。
もごもにょとしている隙に、彼女の両目を素早く手で覆って数十秒もすれば、すやすやと気持ち良さげに寝落ちしてくれるおまけまで付いている。
「はいはい、セイレーンでしたね。ほら、もう寝よう」
私は今回の彼女にもそうするつもりで、手のひらを目元へ。
しかし不意に表情を曇らせたのを見て、思考も行動も一瞬止まってしまった。
なんで急にそんな顔をするんだろうか。
「ぐーたらねこじゃないもん」
「は?」
「わたしの気持ちもわかんないくせにさァ!」
私は今まさに被せようとした手を下ろし、ふう、と息を吐いてそばに腰を下ろした。
少し視界が揺れる。
矢張り酒はそこそこをちびちびと呑むのが一番良い。
そんな事を感じつつ、ずいと、彼女に顔を寄せる。
「どした。今日はちょっと感情が前に出過ぎてるよ」
セイレーンはむすっとした表情で、私から目を逸らした。
「私、なんか嫌な事しちゃった?」
そう尋ねると、彼女は首を横に振る。
じゃあなんだろうか。
「お歌はね、お歌は、好きだよって気持ちを伝えるものなの」
「はぁ」
「きみは、一緒に歌ってくれないし。下手くそなのに練習もしてくれない」
「はぁ?」
なんだろう。セイレーンは何を言い出して、何を伝えたいのだ。
全く分からないが、分からないが、恐らくは私が歌を歌えない、歌わないのが不満なのだろう事は察しがついた。
あの、ラーメンを強請ってくる訳わからん歌に、とんかつの歌、他にも色々色々……
それから、ノリで作った、2人で作ったお祭りの、屋台の歌。
全く持って食べ物の歌しかないのを、歌わないから?
「あの、すい。私は歌が苦手で……」
そう言いかけて、目の前のセイレーンがはたはたと涙をこぼしているのを見た。
え?
何だこれ。
泣く事か?
急に?
私は突然の事に、思わず目の前にある柔らかい身体を抱きしめた。
「ご、ごめん。なんか怖かったか。泣かないで」
セイレーンはその私の問いには答えず、私の胸に顔を埋めるとぐすぐすと鼻を鳴らすばかりだった。
***
「でェ!!何でそンな事を聞きに来てんダよ!!調べろ!!ジぶんで!!」
そんな言葉を浴びせて来るのは、私の大学の、私のゼミの教授である神々狩教授だった。
以前、伝承とは言えセイレーンも人魚もアマビエもよく知らん、そう言われた彼に、私は今回もその不得手な分野の質問を投げていた。
仮にセイレーンが存在したとして、歌を歌うにはどんな意味があると思いますか、と。
「あの、見解だけでも良いんです。こう言う解釈もできるよね、みたいな」
「ンだからぁ!書いてある事以上は知らナいし、想像でハなすことに意味は見出せないダろうガ!」
教授は椅子の上で踏ん反り返るようにして、まるで子供がそうするかのようにだらんと手足も首も脱力してもたげていた。
メガネの奥から、恨めしそうでも面倒くさそうでもある視線だけがこちらを射抜くように向けられていた。
そして教授の言う事も、私には残念ながら分かってしまう。
想像で何かを話す事の無意味さ。
それが仮にも雑談ならとも知れず、学術的な意味を持たせた話をしたいのならばエビデンスが必要になる。
それを踏まえないのであれば、結局はただの空論を宙でかき混ぜるにも等しい。
くだらない雑談。
そんな類にカテゴライズされてしまう。
「とりあエずさぁ、せめてエビデンスある推論を尋ねニくるとかでしょ。オれも暇じゃア無いんだゼ」
そう言って教授はやっときちんと椅子に座るようだ。
「とにかく、どうオもうのかを聞かセろ」
教授の椅子の背もたれが、ぎちぃ、と壊れそうな音を立てた。
「えと……ですよね。私は、セイレーンの歌には求愛の意味があるのか、ふと疑問に思ったんです」
「はぁ。船を難破させテ、人を食うバケモンの歌に求愛……」
そう言ってため息をついた教授は、ふとポケットを探るとライターと黒い箱から紙巻きタバコのような物を取り出し、咥えざまに先端を火で炙る。
以前嗅いだ、焦げたチョコレートのような甘い匂い。
以前はコレを薬だなんだと言っていた気がするが、黒い箱に健康リスクうんぬんの文言がデカデカと書かれているのが見えて、タバコだと確信した。
「何でソう思った」
天井に向けて吐かれた煙と混じりながらそんな言葉が降ってくる。
だよな。
私は思う。
軽く読んだ伝承に、セイレーンが人に求愛する為に歌を歌うなんてものは無い。少なくとも、オデュッセイアには。
オデュッセウスが航海する中で遭遇する、人を食らう怪異。
歌声に惑わされた人が正気を失い、食われる。
そこに、色恋沙汰が介入する隙間すら無いだろう。
なら何故、そんな事を思うのか。
セイレーンだと仮称する、我が家にいる生物が、すいが、そう言ったからだ。
実際には本来のセイレーンと違うのかも知れないけれど。
そこまで考えて、やはり浅はかで拙い質問をしたと、そう感じた。
そんな事、本人に聞く他ないのだから。
「……鳥は、求愛の歌を歌います」
「ウん」
「セイレーンも、記述上は元々は鳥類に似た……怪物。後に人魚のような姿をとりますが。なら、類似性があるのかなと思ったんです。鳥と」
「そうか。文献ヨみなおそウな。0点」
「です、よね」
「に、してもサァ」
教授は再び煙を吐きながらこちらを見る。
「こんなイみの分からん話もそうダけど、急にセイレーンやら人魚やらの事聞き出してサァ。研究だなんだッて躍起になってるように見えるけど、拾いデもした?バケモン」
「え」
「雑も雑だけド、突拍子もないンだよね。誰が殺人鬼がナイフ振りマわすのを見て、求愛だと思うカね」
私は教授から目を離してしまう。
俯いてしまう。
「ま、一部には殺しモ愛の告白だナんて考えもあるのかも知らんガ、小説を一章まるまる飛ばして読んだクらいには、意味わからンぜ。ナァ、学籍番号062クン。ちなみに、レポートはいつダすのかな?」
***
私は帰路を歩きながら考える。
研究する、と言うよりも同居する人ならざるものを余りにも知らなすぎるのではないか。
なあなあと、うまく馴れ合えていたがアレは人ではない。
人の真似をして、言葉を覚えた異形。
未知の生物には間違いない。
知らぬ間に、脳が犯されて、魅了された挙句に、その存在に取り込まれようとしているのではないか。
私は首を振る。
今の所、敵対性はほぼ無い。
あちらも私を気に入って、好きだと言ってくれているし、私自身も彼女の存在を好きだと認識はしている。
だが、それこそが狙いである可能性は。
幸い、私は好きとは言うが、熱烈に愛を乞うような気持ちではない事だけは確かだ。
だが、それがいつまでそうであるか。
彼女がそれを望むのか。
彼女が言う好きという、人の言葉を借りた意味を私は理解しあぐねている。
引き返すなら今だけど。
そんな事を言われている気分になる。
じゃあそうとして、私はどうしたいのか。
それを考えないといけない時が迫っているのかも知れない。
あの大きな、可愛げのある瞳が、じぃっとこちらを、見据えている気がした。