ふにふにふにふに
私は差し出されたセイレーンの、腕じみた鰭を揉んでいた。
つやつやもこもこした、少し脂を感じる毛皮の先に、どうやら皮下脂肪が厚めにあるのだろう。
海水の冷たさに体温を奪われぬように、毛皮と共に発達した特徴のようだった。
その柔らかい触り心地の更に先、少しばかり指先に力を入れると次はごつごつと発達した筋肉質があった。
鰭であると同時に器用な手でもあるのだ。
当然と言えばそれまでだけれども、立派なものだ。
「ねーえェー。ちょっと痛いかも」
セイレーンが不満そうに言う。
「あ、あぁ、ごめんね」
私はまるで正気を取り戻したかのように、当てていた手を離した。
何をしているのか。
私は彼女を、セイレーンの事を知らなければならないと、そんな義務にも似た衝動に駆られていた。
教授と話して以来、自分は余りにも同居する人外である彼女を知らないと自覚する事になる。
きっと、この子を見つけたのが私で無ければ、もしかしたら生きたまま大学で解体されて研究されているか、飼育施設で自由を奪われて生態を観察されていたのかも知れない。
普通なら一番最初にすべきであろう詳しい正体の解明を、今の今まで私は忘れていた。
それはまさに、無知で恐ろしい事だったのだろうと思う。
「今日もへんなの」
「今日もって、いつも変じゃ無いでしょ」
「エ〜?」
セイレーンは薄く可愛らしい笑みを浮かべて、首を傾げる。
そうだ。
この細かく感情を表す表情筋も興味がある。
野生下では役に立たないであろう機能。
私は気付けば彼女の顔に手を添えて、ぐっと力を込めていた。
「やっぱり、変!」
しかしその手はすぐさまにセイレーンの腕に払われる事になった。
「なんなの!」
と、彼女。
「あ、あぁ……えっと、そうだな……すいの事、あんまり知らなかったかもって思って」
私は彼女の顔を見れないまま、俯きがちにそんな事を吐く。
そんな、純粋な気持ちでも無いだろう事を悟られたくなかったのかも知れない。
「そんな事無いと思うケド!」
向かい合う彼女はそう言う。
「色々一緒にしてきたもん。なのにそんな事言われたら、やだよ」
それから彼女は手を私の腕に這わせて手のひらに辿り着くと、まるでそうである事が当然かのように指を絡めてくる。
手のひらの大きさに対して少し短めでずもっとした、肉感のある指が、そこに隠された爪が皮膚を撫でる。
絡まり、力が籠った。
セイレーンが、ずりり、ずぅりと器用に尾をくねらせ、捩り、私に身を委ねるように寄って来た。
人より一回りほど大きな頭部を胸に寄せて、不安げな顔で見上げてくる。
「心臓も、早いよ」
特に耳を当てるでも無く、セイレーンはそう言う。
しかし私はそれに対する、適切であろう答えを頭に浮かべる事ができない。
「そ、それにしても……知らぬ間に身体も大きくなったよね。ほ、ほら……うちに来たばかりの時は小さかったでしょ……今じゃこんなに顔も近く……」
「ねェーえ」
セイレーンは口を開く。
今度は不満げに目を細めながら。
牙の奥から湧き出る綺麗で魅力的な声を響かせて。
「はぐらかさないで」
そんな事を言う彼女。
ああ、いつの間にこんなに背が伸びたろう。
きっと私がきちんと認識をしていなかったせいだ。
ただただそこにいるのが普通になってしまった怪異に、気を向けて無かったからだった。
そうであるのが、当たり前だったから。
喧嘩したり、笑い合ったり、それが当たり前になってしまっていたから。
「最近ずっと変」
「そ、そうかな」
私のその答えに、握られた手に爪が食いついて来た。
いたた……
「秘密はナシにしてほしいんだけど!」
「秘密……」
私は、見上げてくる彼女の瞳から視線を外せないでいた。
甘ったるい獣の匂いがする。
***
ギイィ
ソファの中のスプリングが歪み、そんな音を出す。
座面には今し方セイレーンが体躯を横たえていた。
「意味あるのかな?」
そんな事をセイレーンは言う。
結局だが、私は彼女に知らぬ間に洗いざらいを話していた。
君は人とは違う。
すっかり慣れてはしまったけれど、そんな君を知りたい。
知らないといけない気がする、と。
果たしてそれが本来の気持ちであったか、最早自分自身ですら確かめる術を知らない。
だから、そうであるとしようと思った。
「わ、分からんけどな」
私はそう答えて、横たわる彼女の片腕を取り、表面に指を滑らせる。
滑らかな毛皮、皮下脂肪に、筋肉繊維。
君の人と違うところを知りたい。
そう私は彼女に伝えた。
すると彼女は、いいよ、とだけ言って、私から視線を流すように外して、こうして私の前で横になっていた。
私の指は彼女の手のひら付近から肘を遡り、肩までをさする。
毛が流れを乱す指につられて起き上がり、逆立つように跡を残していく。
セイレーンはくすぐったそうに、ふふ、と声を漏らした。
「くすぐったいんだ」
「なんか、もしゃもしゃする」
そう言って身を捩るセイレーンに従うように歪むソファが、またギイィと音を上げた。
腕や手と仮称する部位は、恐らくだけれども人のそれとは大差がないような作りをしているらしい。
筋肉の奥に沈む骨らしき感触が、長さこそ、細かいディテールこそ違えどそうであろう事を教えてくれる。
私はそのまま指を首元に流す。
その道中にある胸の付近の毛皮は少し厚めで、乾くとボリュームを増す。
ふんわりとしつつも重たさもある、その毛の山に指を潜らせた。
絡まるほどの長さは無いが、その中にセイレーンの体温がこもっていた。
素肌の近くを触れた事が無かったから、不意に感じる熱量に少し戸惑う。
思っていたよりずっと、熱い。
「毛並み、乱れるー」
そんな事をセイレーンは口にして、胸元の毛束に突っ込まれたままの私の腕に、彼女は指を絡めてくる。
かぎ爪で、私の腕をなぞってくる。
「君は腕、細いね」
「すいませんな。すいの腕より頼りないでしょ」
「そうかな?」
彼女は今度は私の二の腕に手のひらを当てる。
柔らかくて、しっとりとした熱が接触面にこもるようだった。
「何かあると抱きしめてくれるし、頼りにしてますけど」
「ど、ドーモ」
私は思い出したかのように彼女の胸元から指を抜くと、触れていた彼女の手も私から離れた。
「で、どぉ?」
ごろんと、こちらに向く様に身体をソファの上で回してセイレーンが聞いてくる。
「ん、あー、そうだな……体温が高めってのが分かった」
「なにそれ」
セイレーンはくふ、と笑う。
人間とはまるで違う、毛皮に覆われた獣の顔。
短く丸いマズルの下の口から、笑みと共に牙が覗く。
声に合わせて、太い首元が蠢いた。
私は彼女の口元に指を寄せ、覗く牙に触れた。
ぬめりがある、粘質な唾液が牙を覆い、私の指の腹を生暖かく濡らしていく。
彼女がそんな私の為に口を開こうと思ったらしい。
ぐちゃぁ
そんな音がして、薄い獣じみた唇が、噛み合わさっていた牙が唾液をしたたらせ、糸を引いて離れていく。
薄赤い太い舌が、時折ずるずると動いていた。
触れた指で、牙をさする。
まるで鮫のような、犬や猫のような、整然と並ぶ鋭利なそれ。
私が刃のようなそこに指を軽く滑らせると、ぷつりと、いとも容易く皮膚が裂けた。
恐ろしい牙だ。
きっと食い殺そうとでも思えば、簡単に肉を引きちぎり、内臓すら引きずり出せるに違いない。
私は、自分の指から血が流れて、彼女の牙を汚していくのを見た。
ぬたぬたと流れるそれは、唾液に混じりながら口腔へと、舌の上へと垂れていく。
混じっていく。
「っ!あっ、あぁ!すい、ごめん。牙で指を切って血が口に……吐き出して!」
私は不意に正気に戻り、指を引き抜いた。
勢いは無いにせよ出血はしている。
それに彼女の口内にも残してしまっている。
血は、汚い。
感染症やら疾患を引き起こしかねない。
それに、どろどろとした人間の欲望も、薄汚さも、その身体を流れて溜めている。
思考も、エゴも、嫌なことに対する毒ですら混じっているだろう。
血は、汚い。
「すい、今ティッシュを……」
と、慌てた私の目の前で、ごぐん、と喉が鳴った。
セイレーンは口を閉じて、何かを飲み込んだ。
え?
私は突然の事に呆然と見やるしか無い。
「あーあ。飲んじゃった」
それから彼女は、血がでてるよ、なんて言って、私の指を持ち上げると、ぬとりと指の腹を舐め上げる。
「おいしくないね、きみは」
「飲んじゃ、ダメだろ……汚いんだから……」
「そうなの?」
セイレーンは、何度目かに私の指を舐めた舌を仕舞うと、きょとんとした表情を向けてくる。
自分の指を見やると、厚い唾液の下で、ふつ、と血が漏れている。
「ね」
セイレーンは言う。
「吸い出してみたら?まにあうかも」
くつくつと小さく笑う彼女の、その口。
「ほら」
そう言われて、セイレーンの腕に引かれた私の体はいとも容易く引き寄せられ、目前には彼女の顔が迫る。
吸い出す……?
気付けば、私はセイレーンに唇を合わせていた。
触れる程度に、壊れ物に唇で触れるように。
何、してんだ。
「あっ、ごめ……!……あれ、あれ?」
私はセイレーンから飛び退いて謝罪の言葉を口にする。
何故、こんな事を……
頭が混乱する。
思考が、纏まらない。
理解が、自身の行動に、その理由が分からない。
「すけべ」
セイレーンはまるで揶揄う様に笑う。
「いや、そんなつもり、あれ……え……」
そんな風に狼狽えた声を上げるしか、私はできない。
しかし、その様をじっと、セイレーンは大きな瞳で見ていた。
じっと。
「ね。悪いと思うならさ、抱きしめてよ」
「……え?」
「ほぉら」
そう言って横になったまま腕を広げるセイレーン。
私はまるで、そうするしか無いと思った。
だから、彼女の胴に身体を寄せ、顔を寄せる。
「あ、そーだ。良いものあげる」
と、セイレーンは私の身体を片腕で自身に張り付かせるが如くに押し付け、空いた手の指を、その毛皮と皮膚を、牙で不意に引き裂いたのだ。
本来であれば大声で大変だと、そう喚くなぁ、なんて、ぼんやりした頭で思いながら、そんな光景を眺めていた。
「お口、あーんして」
そう言って持ち上げたセイレーンの指が、毛が、赤く染まっていく。
ぼたり、ぼたりと、ソファにも、彼女自身の胴にも滴り、濡らしていく。
どす黒い赤。
赤すぎて、きっと黒いのだろう、鮮烈な赤。
私は、まるで母親に飴玉でも強請る子供の様に口を開けて、セイレーンをぼんやり眺める。
どちゃ
ぼとり
大粒の赤い飴玉が、口に転がり込んで、すぐにその丸い形を失っていく。
2滴、3滴……
口腔内に溜まっていく。
「飲み込んで」
そんな事を耳元で囁かれ、私は何の抵抗も無く、喉を鳴らした。
セイレーンは、彼女は嬉しそうに笑い、私を抱きしめてくる。
いまだに漏れているであろう彼女の血が、私の服を汚して濡らしているであろう事を、肌が感じていた。
頭が、回らない。
「えへェ、これで、ずぅーっとわたしを識り続けられるよ。わたしもね、ずーっと君を見てるから。やったね」
何を言っているのか、分からない。
「ね。もういっこ、お願いがあるんだけど。聞ける?」
セイレーンは私を抱き直す様にして、無邪気に笑う。
可愛らしい顔だ。
真っ赤に染まる虹彩が、射抜く様に私を見つめている。
「聞けるよね?」
「あ、あぁ……うん……」
そう答えると、彼女は一層喜んだ様に顔を綻ばせる。
嬉しそうに笑い、私を抱く腕には一層力がこもる。
「偉いね。だいすきだよ」
その彼女の言葉を理解せぬまま、私は彼女に、まるで深海にでも連れて行かれるように、溺れるように沈んで行った。
いつ暮れたのか分からない陽の代わりに上がっているであろう月は、厚い黒雲に飲まれて、薄ら光すら見えなくなっていた。
どうやら今夜は、雨が降るようだ。