ふと、目が覚めた。
時計を見れば、朝の6時を少し過ぎた位。
私はカーテンの隙間から漏れる朝焼けに顔を照らされ、意識が覚醒したのだと知る。
自室のベッドの上で、毛布を被り寝ていたようだ。
ゆっくり視線だけを動かして部屋を見渡した後、起きあがろうとして、身体が何かに上から圧迫されている事に気付いた。
重い……
そう思いながら毛布をめくると、まるで私に重なるかのようにセイレーンのすいが大の字になってうつ伏せていた。
もちもちとした触り心地の、ずしりとした重さを持つ彼女。
いつから、一緒に寝るようになったのだったか。
すふすふと気持ち良さげに鼻を鳴らしているようだ。
ともかく起き上がるには、今はこの眠りに落ちているセイレーンを身体の上から退かす必要がある。
私は、最早起こさぬような配慮は出来得ない状況であると把握は出来ていたから、脱力してぐにぐにになっている彼女を下から軽く持ち上げてずらしながら床を出る事にした。
もし起きたらそれはそれだ。
そのようにして漸くベッドから出る事ができた。
動かしたセイレーンは、一度目を開いたがまだ眠いらしい。
再びむにゃ、と口を鳴らして微睡へと落ちて行った。
ずいぶんと疲れたのだろう。
にしても、何かあっただろうか。
そんなになってしまうような事が。
私はフローリングに立つと、軽く背を伸ばす。
夏の早朝のまだらに鳴く蝉の声が窓越しにも聞こえてくる。
今日も……
今日も……?
あれ、昨日は、何をしていただろう。
あれ、あれ、あれ?
今日は、何月何日だ?
私は突然脳内に訪れた混乱に、混乱を起こしかける。
ベッドを見れば、セイレーンは未だに気持ち良さげにもちゃもちゃと口を鳴らして毛布にくるまっている。
私のベッドで。
「うっ……ぷ」
私は不意に腹の奥底から抗いきれぬ何かが込み上げて来るのを感じた。
まるで、腹の中にでも寄生虫が潜んでいて、急にそれが、腸を、胃を、食道を、のたうち回りながら這い上がって来るような。
吐き気。
そう言い換えるのが適切かも分からない不快感が身体を襲う。
意識が、揺れる。
景色が複数重なり、ぶれて、歪む。
私は足を動かして自室を出ようと試みた。
廊下に出て、少し駆ければトイレに辿り着く。
ここで吐き戻す訳にはいかない。
思うように動かない、よたよたとした歩みで廊下に出、トイレへ急ぐ。
最悪、洗面台でも構わない。
迫り上がる何かは、喉を過ぎて口腔まで這い上がって来ている。
トイレの扉を開けた時、そのノブを握り捻った手のひらはあり得ない程の発汗で滑っていた。
意図せずも、滑ってノブを手放す。
そうしてふらつく身体を便器前に、まるで膝をついて懺悔するように折り、赦しを乞う様に頭を下げて便座の間に突っ込んだ。
ごええぇ
おえっ
かふっ
そんな呻きをあげながら、私は逆流せんとするものを水面に放つ。
便器に溜まるそれが飛沫を飛ばし返してくるらしいが、それを汚いだなんて考える余裕すら無く、げえげえと、喉を鳴らす。
「大丈夫?」
そんな声が、開け放したままだったかも分からぬ廊下に続く扉の方からした気がする。
ずぅり、ずりり、ざりざり、ずぅり
鰭が、きっと尾鰭がフローリングを削る音がする。
「あらあらあら、大変」
背後まで来たその気配は、甘ったるい獣の匂いをふわふわと室内に充満させていく。
そして、突然身体を抱き起こされるようにして、私は便器に突っ込んだ顔を上げる事になる。
だが、まだ吐き終わっていない。
持ち上げられた私の身体、それに伴い前を向いた時に、口から流れる物を見た。
赤い、赤い、赤い赤。
きらきら、てらてら、ぬるつく、赤い体液。
見れば、便器の中は真紅に染まり、今し方口から撒き散らしたそれが、床を汚し、跳ねて壁紙に赤い斑点を残していく。
「いっぱいげぇげぇできたね」
背後から、私の身体を支える真後ろから透き通る声がする。
「怖いね、辛いよね。でもね、大丈夫。ゆっくり、ゆっくり、なれていこうね」
それから、腹の前に真っ白な毛皮に覆われた鰭じみた腕が回された。
優しく、後ろから抱きついているらしい。
私は、床を見る。
真っ赤に汚れた床。
掃除が大変だ。
そんな事を思いながら、ふとある事に気付く。
吐き戻した赤い水たまりに、きらきらと何かが浮かんでいる。
いくつも、トイレのLEDの照明で煌めいて。
それは、真っ赤な鱗だった。
赤い、赤い、セイレーンの身を包む様な。
出よう。
一旦トイレを出て、居間で横になろう。
しばらく寝て、掃除はそれから考える事にしよう。
そう思い、身体を捻る。
巻きつけていた腕を離したセイレーンが、心配そうに、けどもどこか嬉しそうに口を歪めて、そこにいた。
「急がなくて良いからね。ゆっくり、ゆっくり」
私は彼女の頭をくしゃくしゃと撫でて、トイレを出た。
「お、おい……後輩クン。大丈夫かよ」
出た先で、そんな声を掛けられる。
「おぉ、こりゃまた盛大に吐いたねぇ。店長ぉー!トイレ大惨事だから一回閉じた方が良いかもですー!お客様入れないでー」
少し、低めの、所謂ハスキーボイスと呼ばれる声がする。
女性の、そんな声。
「うお!酷いなこりゃ。君ィ、せめて便器の中に納めてくれよォ〜」
次いで、中年男性の声。
私はそこでやっと顔を上げた。
「いや、後輩クン顔色わっるいな……」
一番に目に入ったのは、小柄な女性。
薄く茶色に染めた髪を長く伸ばし、背後でひとまとめにした髪型の、ちょっとばかり凛々しい顔立ちをしたひと。
そのいでたちは少女を思わせるが、着ている服がどうやら全国展開しているコンビニエンスストアの制服らしい。
つまり、バイトはできるだけの年齢なのだろう。
その奥に、柔和な優しげな顔をした中肉中背の中年男性がいて、こちらを見ていた。
「あの、え?」
私は、そんな声を上げてしまう。
「え?は、私らの方のセリフだよ。レジしてる時に急に気分悪いとかでトイレ行ってさ、戻って来やしないもん。迎えに来たらこれだよ」
私はすっかり状況を飲み込めない。
どこだ、ここは。
「あの、ここは……?」
目の前の女性は、口をへの字にして、すんごい顔をした。
***
結局、私は帰宅して自宅療養するという話に纏まり、状況を全く把握できないままに帰路へついていた。
幸い、どうやら自宅近所のコンビニにいたらしく、帰り道は分かる。
明日はシフト出られるかい?
中年男性の言葉に曖昧に答えて店を出たが、明日の、シフト……?
恐らくバイトだろうが、身に覚えがない。
何時から何時までなのかも、知らない。
「なぁ、体調悪いなら家出る時に言おうぜ」
隣を、私の身長に対して狭い歩幅に合わせて歩いている、薄い茶髪の少女。
コンビニのトイレを出た先で、真っ先に駆けつけてくれた女性。
「お前の事抱き抱えたらゲロまみれになっちゃったしさー。ま、そのおかげで帰れるけど」
そんな事を言いながら手にしたコンビニのプラスチックバッグから、スポーツドリンクを取り出して渡して来る。
「家帰ったら特製のお粥作ってやるからさ、それ食べて寝ろな」
あの、と私はか細い声を上げた。
は?、と女性。
「えっと、あの……失礼ですが、どなたで……」
「は……?はぁぁ〜〜!??」
夏の夕暮れの、閑静な住宅街に大声が響いた。
***
軽部 虎子
彼女はそんな名前らしい。
そして、私含めた仲間内は皆揃って、彼女を軽トラと呼んでいる、なのだとか。
私は見慣れた自宅の廊下に立ち尽くしていた。
「な、また変な事になってもやべーし、いっそ一緒に風呂入っちまおうぜ。身体しんどいだろ」
そんな事を言われたからだった。
「いや、あの……」
なんで我が物顔で私の家に上がり込んでるんですか。
そんな言葉が出かかったが、なんとか飲み込んだ。
「ほれ、入るぞ」
そんな事を言って、彼女はパンパンと手早く服を脱いでいく。
何やらロック調のデザインの入ったTシャツを脱ぎ、ぴっちりしたサイズのジーパンは履き捨て、色気のないスポーツブラにショーツを脱いだ。
貧相、とまでは言わないが、貧相とも言えなくもない肉付きだった。
「おーい、早よ脱げ」
私はそれから、言われるがままに脱がされ、身体を洗われる事になった。
風呂から上がると、彼女は少しくたびれたTシャツにボクサーパンツだけを履いて、台所に立っていた。
どうやらお粥を作ってくれるらしい。
私は頭にバスタオルを掛けたまま、ダサいジャージをいつも通り寝巻き代わりに着て、ソファで項垂れていた。
今日はレジしてる途中に、体調不良を訴えて、それで……
なんだか、情けないな。
そんな風に思ってしまう。
出る前に体調の一つでも、変化すら分からなかったのか。
「よっし、出来たぞぅ。薄味にしといてやったからな」
そんな声が台所から聞こえる。
薄味。
まあ、体調不良ならそれが一番か。
私は彼女、軽部さんがお椀によそったお粥を持って来てくれるのをぼうっとして待っていた。
歩いて来る彼女は、知らない男性の前に出て来るにしては薄着すぎる。
薄らと、その体躯が布を透けて見えてしまいそうだ。
「ほれ、口開け。ふーふーして食べさせてやるから」
そんな事を軽部さんは言って、言うなりお椀からスプーンでひと匙を掬い上げ、本当に息を吹きかけて熱を冷まし始めた。
「あの……」
と、開いた私の口にスプーンが突っ込まれた。
「しっかり食って、しっかり寝て、それから考え事しな」
私は口に入って来たお粥を、噛む。
1回、2回、3回。
すこし、生臭い。
「あの」
私は口腔を空にして、口を開く。
「ん?」
「あなたは、軽部さんは、一体なんなんですか」
「え"っ……まじで言ってる?ずっとおかしいなとは思ってたが、記憶、ヤバげ?」
私は、首をゆっくり横に振る。
その際に見える部屋の景色。
見慣れた中に、ちょこちょこ彼女の、軽部さんの痕跡が見て取れる。
まあ、察しは悪い方ではあるがこれは流石に何と無く分かる。
恐らく、お付き合いをしている。
恐らく、私の、彼女……?
「いや、参るよそれは。忘れちゃったとか勘弁してよ」
軽部さんはスプーンをお粥に刺して、ふぃぃ、と息を吐いた。
そして、キッと視線をキツくしてこちらを見た。
「私を喰ったくせに」
***
ごっ、ごぐっ、ごぐっ
私の喉がそんな音を鳴らし、何かを嚥下したらしい。
薄らぼんやりした意識の向こうに、すいの姿が、顔が見えた。
ぐちゅ
そんな音がして、すい……セイレーンの獣じみた顔が離れていく。
ねっとりと、お互いの唇には唾液が幾つか糸を引いて、照明を受けてちらちらと輝いている。
「ぼーっとしてたね。疲れちゃった?」
セイレーンはずりぃ、ずぅりと床を削り、隣に来た。
甘ったるい、心地の良い香りがする。
「今日はね、いつもご飯作ってくれてるお礼。あのね、テレビで味噌漬けのレシピが流れてたから、作ってみたの」
そんな事を、くふ、と笑いながら言う彼女。
私はそんな彼女に腕を伸ばし、抱き寄せる。
「バイト、だっけ。また探せばいいじゃん」
抱き寄せたセイレーンが、なんともない様に言った。
それから彼女は、にっこりと、笑顔を作る。
その口元は、しっとりと赤く濡れている様だった。