ごぼごぼぼ
げえぇ
私は相変わらず、何の前触れもないままに喀血を繰り返していた。
自身の身に何かが起きている事は分かる。
だが、それ以上の情報が無い。
繰り返す度に体が重くなるのか、不意に元気に快活になっているのかも分からない。
しかし不思議と、自らの体調が不良なのだとは思わなくなり出していた。
それが当たり前のように感じてきていた。
まるで食事をするように。
まるで排泄をするように。
まるで成長をするように。
「ね、ね、段々げーってする量、減ってきたね。すごいよ。偉いよ」
既に便器に首を突っ込む事に慣れてしまった私は、わざわざ扉なんてものを閉めようなんて、そんな気すら湧かなくなっていた。
そんな開け放した戸口から、セイレーンがひょこりと首を出してこちらを見ていた。
そしてそんな事を言われて私は便器に目を向けるが、確かに。
1度目、2度目の噴水の様な喀血に比べれば、本当に可愛いものだ。
それに、もう鱗のような物が混じる事も無くなっていた。
「良くは、なってそうだよね」
「うん!きみはがんばれて偉いよ。ね、口元舐めてきれいにしてあげる。だきしめてあげる、おいで」
私はそんな彼女の言葉に、トイレのフラッシュ水栓すら動かさぬまま、トイレに血を溜めたままに、よたよたと廊下へ出ていく。
ずぅり、ぞり、ざり、がりり
そんな音を立てながら移動するセイレーンの後を追う。
「ね、そうだ。聞きたいこと、おもいだした」
フローリングに傷を刻み続けながら、セイレーンはちらとこちらを一度見る。
彼女の頭頂部に位置する獣耳がこちらに向いたのを見るに、返答に興味がある質問をするつもりなのだろうと、何となく感じた。
「なんだい」
「んーと、虎子って誰?時々、そんなふうな事言うから。人の名前みたいだし」
私は、彼女から視線を逸らす。
虎子。
軽部虎子。
私の大学の、先輩だった人。
私をいじめ、遂には私が海に沈む決意すら固めさせた人。
何が彼女をそうさせたのか。
私は目立たずに、隅に居ただけだったはずだ。
もしかすれば、そういう事をしてくる集団には最早理性も倫理も理由も無くて、目についた、ただそれだけが行動を引き起こす原理だったのかも知れない。
ただ、私は平穏に過ごせれば良かったのに。
胃が、ぎゅう、と鳴いた。
「そんな事よりさ、すい。お腹空かない?」
「ん〜?急に。でも、空いたかも」
セイレーンは再び前に顔を向け、少しばかり地を這うスピードを上げたらしい。
「お肉の味噌漬け、また噛み砕いて飲ませてあげるね。それからさー、お肉減って来たから、また狩りに……」
私はそんな彼女の後を追いながら、小さく息を吐く。
軽部虎子。
忌々しい女。
死んで、当たり前の。
しかし、死んでもなお、まるで踏んだガムの様に付き纏う女。
***
セイレーンの動物じみた口が、唾液と味噌と肉の粘液が糸を引きながら私の口元を離れていく。
その際に私に見せる、目を細めた笑顔にいつもドギマギしてしまう。
「良く漬かってるでしょ。あじしみ〜」
私はそんな事を得意げに言うセイレーンに何度か頷いて見せて、頭を撫でてやる。
わしゃわしゃとした手触りの毛皮に、肉厚な耳。
いつまでもそうしたくなる気分にさせてくる。
「最初に作った味噌漬け、もう無くなりそうなんだよね。他のはもう少し漬けたいかも」
「そっか。結構漬けたのにもう無くなりそうなんだ」
「きみも大概くいしんぼうになってきたからだとおもうよ」
私はそんな事を言われて、ふん、と鼻を鳴らして、部屋に軽く視線を巡らせた。
居間にも食卓にもいくつも壺が並ぶのだが、その全てが人の胴体程の大きな物だ。
通販で無ければわざわざ買いに出るのも億劫になるような重さもある。
それが、ずらりと並んでいた。
閉められた蓋の隙間からは、どろどろと水分を増した味噌が漏れて固まった跡がいくつも残っている。
セイレーンがいう、味噌漬け用の壺だ。
最近はもっぱら、こればかりをセイレーンと分け合いながら食べている。
確か、最初に作った味噌漬け肉は壺3つ分もあったはずだが、もう食べ尽くそうとしているらしい。
ふう、と息を吐いて身体の力を抜くと、付けっぱなしになっていたテレビが目に入った。
……続いてニュースです。……大学に通う生徒5人の消息は未だに掴めておらず、県警はなんらかの事件に巻き込まれたとして、捜査を続けています。
5人は……日に……での目撃を最後に消息が……の1人、軽部虎子さんを良く知る人に、お話を聞けました……
私は床に落ちたリモコンを手探りで探す。
溜まったゴミや、それが何だったのか分からない物の山の中に手を突っ込んで、やっと発見し、チャンネルを変えた。
「すい、アニメ見よっか」
「エ〜、見る〜」
私の声に、どうやら壺の中身を確認したり味見をしていたであろうセイレーンは、きゃあきゃあと明るげに声を上げてこちらに向かって来た。
私は彼女の脇らしき部分に手を突っ込み、彼女は彼女で私の体に腕を回す。
最早そうでもしないと抱き上げられない位に、知らぬ間に、彼女は大きくなっていた。
膝に乗せ、後ろから抱きしめる様にしてやると、セイレーンは嬉しそうに背中を預けてくる。
腕を回した先にあるセイレーンの腹部は、いつの間にかまた大きく膨らんでいる。
***
「聞きたいんだけど」
虎子が言う。
「結局、こうなってるのは、まだ人間でいたいってあんたが思ってるからじゃないん?」
それから彼女はじっと私を見て、小さく息を吐く。
「にしても、その未練を、よりにもよって虐めてきた相手に……いや、もしかして初めて喰った相手だから、気になっちゃったとかか?」
虎子は笑う。
「なんて、話してるけど結局はモーソーな訳で。いや、こんなモーソー見るくらいだから、まだ人間を諦めきれてないのかな。ま、いいや。おまえがどうなるかなんて知らないし、興味は無いけどさ。ほどほどにしときなよ。バケモンに魅入られて、まともに……」
うるさい!!
私はそう叫んで、目の前にあったゴミを蹴り飛ばした。
腕の中で、セイレーンがびくりと身をすくめる。
「ね〜、大声やめて」
私は腕の中の彼女に顔を埋めて、ため息を吐いた。
しばらく大学にも行っていない。
いや、そもそも最後に部屋を出たのはいつだったか。
ふと見た窓には、どこから生えたか分からぬ太いツタが絡まり、窓を割っていて、その先の空は、暗く赤いようにも見えた。