私は自宅の机に向かい、ラップトップのキーボードを叩いていた。
なんだかんだあって、随分と遅れてしまったような気がするレポートを書き上げようと、そんな重い腰を上げたのだった。
しかし、いつから書き始めて、どこまで進んで、そもそも何を書こうとしていたのかすらあやふやになりつつあったりする。
詰まるところ、書き掛けた文章を、当たり前に自らが手掛けたはずの内容を理解しきれていない。
そんな事がある訳無い。
そう言いたかったが、実際に起きてしまっているのだ。
「ただいまー」
だから新たに文章を書き起こしていた私に、そんな声を掛けてくる者がいる。
少なくとも1階や2階では無い私の部屋の、ベランダの窓から植物の蔦を身に絡めて、それも1や2本では無く無数でまるで人の腕ほど太い物を手足の様に使って、階下の方から浮上するようにして現れたセイレーンだった。
「どうだった?」
私は手を止めて窓に向く。
丁度セイレーンが巻き付く蔦から身を解放され、ずりぃずりぃと鱗を鳴らしながら部屋に入って来た。
「逃げられちゃって、捕まえられなかったの。味噌漬け減って来てるのに」
「まあ、仕方ないよね。ここら陸上だし、すいには少し不利だ」
そう言って、ふと私は思い出したようにする
「あぁ、そういえば子供達はどうしてる?一緒に狩りをしてみるとか」
その言葉にセイレーンは少し表情を曇らせたようだ。
私は首を傾げる。
「あの子達、お話できないみたいで……好き勝手するし、ちょっと襲ってきそうにもなったんだ」
私は、おいで、とセイレーンに向けて両腕を伸ばす。
それに彼女も応えるように更に近寄り、すっかり大きくなった身体を擦り寄せて来た。
私の好きな、甘ったるい匂いがむわりと腕内に広がる。
私とセイレーンの間には、既に何人かの子がいた。
最初は本当に産む事ができるのかを心配していたが、そこは問題では無かった。
浴槽に水を張り、その中で苦しそうにする彼女を抱きしめて背中を摩ってやる。
同じく私の背中に回された彼女の腕の、手の先にあるかぎ爪が背中に食い込み皮膚を裂く痛みに耐えながら、優しい声をかけ続けてやればなんとか産むことができた。
やはりそこは人とは違うところなのだろう。
だが、問題はその先だ。
産まれた子供達はすっぽり両手に収まる程小さく、まるで人と魚と獣が混じったような歪な存在だったのだ。
何度も、何人も、ずっとそうだ。
まるで人の顔をしているが、上半身には腕がなく魚の胴体のように鱗に覆われ、まるで四足獣の後脚の様なものが下半身に生えている者や、明らかに頭部が魚じみているのに胴体は毛に覆われた獣だったり。
まるで生物をあべこべに混ぜ合わせて、未完成のまま飽きてしまった工作作品のような出立ちばかりだった。
そしてそれらは、セイレーンよろしく良く食べて育ち、暴れた。
まるで暴力に形を持たせたらこうなるのだろうと、そう思うほどに。
だからどうしようも無く屋外に出してやると、それが自然であるかのように自らで狩りを始めたのだ。
まるでネグレクトだな。
そんな事を思った。
そうして2人で幾度となく試行回数を増やすも、どうも一緒に暮らせるだけの落ち着きを持った子供が産まれる事は無かった。
野生が荒れ狂う、そんな子ばかりだった。
「襲って来たのか。困ったね」
私が声を掛けたセイレーンは、その瞳に僅かに涙を湛えている。
そりゃそうだ。
「それにね」
セイレーンは続ける。
「殺されちゃったの。人間に」
「え?」
「上手く狩れなかったみたいで、逃がしちゃった人間に。大丈夫かな?って見守ってたら、変な武器で……すごい音がして」
変な武器?
私は彼女に聞いた。
聞いて、その内容から思い当たるものがあった。
雷鳴が鳴って、血を吹き出したという。
雷鳴。
きっと、銃だろう。
更に聞くに、撃ったのは警察官のようらしい。
私は、怒りで拳を握る。
街の平和を護るのが警察の仕事ではないのか。
少し見た目が歪であれば、撃ち殺すのか。
ただ平和に暮らしたくて、食事のために狩りをする事に何の問題があるのか。
今まで食べていた食料を得るには、金がいる。
その金が無いなら、狩りをする。
至極当たり前の事なのに。
「許せないね」
私はセイレーンの事を強く抱いた。
ぐすぐすと、いろいろな事が重なって限界を迎えたであろう彼女が泣くのを見て、心が痛んだ。
***
力が欲しい。
私が明確にそう思ったのは、セイレーンが泣く姿を見てからだった。
大粒の涙を頬に伝わせ、それでも心配はかけさせまいと声を殺して泣く彼女。
人間とはかけ離れた姿ではあれど、その様は深く胸の内に突き刺さっていた。
それに、街にいる子供を殺されてもいる。
到底許されぬ暴挙である。
だから、それを敷くだけの力が欲しかった。
夜、作り置きが少なくなった味噌漬けを、いつものようにセイレーンが噛み砕いて、半液状と化したそれを口移しに飲み下していた時だった。
心臓に、突然鋭い痛みが走る。
私は覆い被さるようにしていた彼女を引き剥がし、床に転がってもんどりを打つ事になった。
次いで、襲いくる吐き気。
心臓の痛みを耐えるだけでも難しい状態だった私は、最早なす術もなくされるがままに、逆流してくる物を口から噴き出す。
それは、くろい黒い、あまりにも黒い粘液。
ぼごぼご
ごばごば
不気味な音を立てて、湧き上がるそれらにはキラキラと漆黒の鱗が混じっている。
私のそんな様子に流石のセイレーンも目を丸くして、その場で化石したように動きを止める。
心臓の痛みと、嘔吐による呼吸不全で私はバタバタとまるで駄々を捏ねる子供のように床を這い回った。
全身が痙攣して、まるで今から四肢が別の生き物として分離しようとしているのだと、そんな錯覚さえ覚えた。
圧倒的な恐怖を、今更ながらに、恐怖を、覚えた。
「だ、大丈夫?」
そんな彼女の問いには全く答えられないまま、私はごろごろと床を転がる。
するとどうやら鋭い痛みは、心臓より送られる血流に乗って末端まで巡る事に決めたらしい。
すぐさまに全身を耐えがたい痛みが襲う。
もはや声すら上げられはしない。
うめきすらできない。
地獄に来たのかと、そう感じた。
意識も失えず、視界は絶えず歪み回る。
右腕が痛い。
腫れ上がり、肉が裂ける感覚がある。
剥き出した神経を空気が粘っこく逆撫でし、痛みを増長させる。
私は失禁を繰り返し、口をぱくぱくとさせるしかできない。
薄れもせず、自らの醜態を目に焼き付けろとばかりに研ぎ澄まされた意識が、視界の端に獣の腕を見た。
黒く太い毛皮に覆われた腕。
所々から漆黒の鱗が生えて、まるで野獣と魚が混じったような腕。
指はセイレーンよりもはっきりと長く、人間に似た関節を持ち、その指先にはナイフの様に鋭利で、しかしグロテスクに曲がる爪。
まるでホラー映画に出てくる化け物の様だと思った。
次いで、頭が割れる様に痛み、身体は張り裂け、脚は関節も骨すらも粉砕する様な激痛。
ひいひい
私は床にうつ伏せる様にしながらそんな声をやっと上げた。
気付けば視界には毛むくじゃらの獣の、長いマズルの様なものが見え、息を荒げるたびにその頂点にある黒々とした鼻がビクビクと跳ねる。
めぎめぎと骨が砕けて伸びる音がして、ばたつかせていた脚はいつの間にかしっかりとフローリングに爪を突き立てて、深々と木材を削っていた。
「あ……あ……」
傍から見下ろしていたセイレーンに気付き、うつ伏せたまま目玉だけを動かしてそちらを見る。
畏怖がその大きな瞳を支配している様だった。
口元を手で押さえ、動揺している様が見て取れた。
やがて痛みが引き、呼吸が落ち着いて来た頃、漸く私は身体を起こす事にする。
腕を床に突き立てて力を込めれば、床材が軋みを上げてへこみ、
膝を立て、フローリングに爪先で力を込めると、爪が深々と食い込む。
私は太く長い毛むくじゃらでありながら鱗すら持つ狼にも似た尾を振りながら、バランスをとる様にして……
尾?
私は背を伸ばしつつ背後を見ようとして、しかし背中の中ほどより上側を天井に思い切りぶつけてバランスを崩す。
踏ん張った足がフローリングを抉り、突き出した真っ黒な毛むくじゃらな手が、その先の鋭利な爪が壁をぶち抜く。
「や、あ……あ……」
足元からセイレーンの声がする。
いつの間にか小さく、私の股座か下腹部までほどしか無くなっているセイレーンが。
ん?
そこで気付いた。
明らかに周りのものが小さくなっている。
机も、椅子も、テレビすら。
私は屈む様にしながらも頭をぶつけつつ、セイレーンに視線と顔を向ける。
声を掛けようとして口を開くと、
ぐちゃぁ
粘質な唾液が粘つく音がして、溢れたそれらが彼女の顔や身体をぬたぬたと汚した。
「だいジョうぶ?」
声が上手く出ない。
何だか口が思い切り顔面から突き出たような感覚があり、話しづらい。
「き、きみは……」
セイレーンの声が震えている。
私は抱きしめようと伸ばした腕が、あまりにもセイレーンと比べて大きい事に気付いた。
それに、黒々と艶のある深い毛皮にも、やっと意識が行く。
「あレ?」
私は、すっかり外が暗くなり、鏡の様に反射する窓を見た。
巨大な二足立ちする真っ黒な狼が、こちらをじっと、中腰に屈む様なポーズをして見ていた。
所々に大ぶりな鱗が群れをなす様に生えて覆っており、腰付近にはあまりにもボリュームのあるボサボサ毛皮の尾。
頭頂部には鋭利に尖るようなすらりとした獣耳。
獣じみた手は、人1人なら叩き潰せそうな程広いようだった。
あ、でも肉球はだいぶ小さいんだ。
部屋に充満する匂いが以前と比べて鮮明にわかる様になり、音すらも澄んで聞こえる。
反面、少しだけ視界は狭く感じた。
どうやら、人間では居れなくなったのかも知れない。
そんな風に、どこか他人事の様に目の前の事態を見つめていた。
「あ、あのさ……大丈夫?」
セイレーンがおどおどとした様子で足元に来た。
「うン。だいじょ……大丈夫。だイぶ……良くなった」
「なんか、おっきい」
「ね」
私は再び自分の手に視線を落とした。
おっきいというか、その次元を超えている気がする。
「あの、怖い?」
私は口をもごもごさせつつ、何とか以前の様に話せるようにチューニングを試みつつ聞いた。
「ちょっとだけ……」
セイレーンは答える。
「でもさ、これってさ……すいと同じになれたって事じゃないかな」
「違うかも……」
あ、食い気味に否定して来たな。
だが、恐らくだが今までより強くなった、そんな気はしていた。
「ま、でもすいの事を好きだなって気持ちは変わってないし」
私はセイレーンの背中に手のひらを寄せてそう言う。
「わ、ワタシモー」
セイレーンはあからさまに視線を明々後日の方に向けてそんな事を言い、突然吹き出した。
「うそうそ。かっこいい旦那様だよ」
「お?」
「にしても、これじゃあこのお家はもう住めないね。結構気に入ってたのに」
セイレーンは辺りを見回しながらそう言う。
私はそれに対しては同意だった。
何せ狭くて直立できないのだから、住むのはだいぶ難しい。
「どっか探そうか」
セイレーンのその言葉に私は頷く。
「ね、すい。住処を探しに行きがてら、しちゃおうよ。復讐」
セイレーンは、えへへ、と可愛らしく笑った。
***
背中にセイレーンを掴まらせ、自宅のベランダから飛び出して走り出す事数分。
市街からは悲鳴とサイレンで更に騒がしくなった。
「あーあ、もういじめっ子の幻覚を使った人間恋人ごっこは終わりにするんだ?」
と長い鼻先に座り、視界の邪魔をする虎子が言ってくる。
「人の事を散々痛めつけて、よく言う」
「ま、確かに。とは言えあんたが作ったモーソーのあたしは虐めてないけどね」
「そりゃそうだが」
「ね、なんで軽部虎子を自分の引き留め役にしたの。憎いでしょ」
虎子は私の鼻先をぺしぺしと叩きながら聞いてくる。
「……初めて喰った人間だったし、そもそも今まで明確に虐められたりとか無かったからな。記憶に残ったんだろ」
「それだけ?本当は、なんか好転して付き合えたりしないかな、なんて思ってたろ」
「なんでそうなる」
「じゃ、なんで一番最初にバケモンに襲わせて味噌漬けにして喰ったんだよ」
私はその言葉に黙ってしまう。
「上手くいかなくて残念だったな」
そう言って虎子は、するりと、私の開いた口の牙を避けながら、胃の中に潜って行った。
後は、好きにすりゃいいさ。
そう言って。
「ね!けーさつ見えたよ。においが、殺したやつと同じ」
セイレーンが背中からそう叫ぶ。
私は正面にパトカーのパトランプが回転しているのを確認して、膝と長くなった足裏の、爪先に力を込めて飛び上がる。
叫び声。
怒声。
発砲音。
その全てを弾き返して、辺りを手足でこねくり回すとあっという間に静かになった。
「あはっ、やっぱり強いよこの身体ッ!簡単ッッッ!!簡単ッッ!!!」
どうやら黒い毛皮には、赤い血が付いても目立ちにくいらしい。
私は自分の手を見てそう思った。
ラッキー。
「ね、ね!悪い人たち、いっぱい食べちゃおうよ。子供達を殺してるんだし」
背中のセイレーンが声を上げ、歌声を披露すると太い蔦がアスファルトを割りながら何本も現れて私の胴体に絡みついた。
「あ、その前に教授にレポート出さなきゃ!期限切れだし」
私はそう言った。
***
「おっ……やァ……大学におそクまで残ってルと、バケモンが研究室に来るってしっテたら、さっさと帰ったんダけどな」
私は四つん這いになり、大学構内の狭い廊下を駆け抜けて神々狩教授の部屋に寝転ぶ様にして上半身を突っ込んでいた。
なのに、教授はいつもの様に椅子に踏ん反り返っている様子は変わらないらしい。
それから口にした焦げたチョコレートの匂いがするタバコの煙を、私の鼻先に吹きかけて来た。
「やめて下さいよ!鼻が痛い……それに、禁煙でしょう」
「フゥン……なんか、聞いた声ダな」
「あーと、学籍番号062ですよ。分かります?」
そう私が言うと、教授は顎に手を当ててあちこち見渡した後に、ああ、と手を叩いた。
「レポート未提出野郎だナ!けど、こんなバケモンはゼミにいなカったが……」
「その覚え方、何かやですね……」
「なら、キちんと出そうな」
そう教授は言いながら、机に乗っていた紙切れを手にしてヒラヒラと揺らして見せる。
「ンで、できたレポートはペラ数枚、と」
「ええ!」
私は元気に声を上げた。
「うるせエよ。夜なんだから。ま、出した事を褒めるべキかな」
教授はそう言ってもう一度タバコを口に咥えて、深く吸い込んだ。
「で、結局やっぱり、俺ノ見立て通り、海から何か持ち帰ってたワケだ」
それからゆっくりと煙を吐きながら、タバコを持った腕を前に伸ばした。
その先にはセイレーンがいて、じっとりとした目線を教授に向けていた。
「おかげでさ、街は大変だヨ。現実なのか虚構なノか、バケモンが彷徨いてる始末」
そんな事を言う教授に、セイレーンは指を差し返すように腕を上げる。
「ね、コイツから私たちの子供の匂いがする。あと、あの……銃、だっけ。その匂いも」
私は、セイレーンの言葉を聞く前からそれには気付いていた。
何せ、聴覚も嗅覚も最早ニンゲンの比ではないのだ。
弾薬の、火薬の匂い。
それに、机の中で何かを探る小さな音も。
「教授、日本は銃は持てないでしょう」
私は言う。
「まァ、表向きは。それニ、猟銃は持てるケドねぇ」
「私たちの子供、殺しましたね」
「おヤ、あんたら、デキてたんかイ」
教授の机を探っていた小さな音が止まり、ゆっくりと重い金属が引き出しの中で引き摺られる音がする。
「さて、.357マグナム弾に君らが耐エられるか、試してミようじゃあナいか」
私は、太くなった毛むくじゃらの腕を横凪にした。