私達は街から少し離れた位置にある小さな薄暗い林の中に潜んでいた。
いや、林とは正確には呼ばないような畑の側にある小さな木々の連なりなのだけれども。
そこが薄暗いのがこの茂る木々によるものなのか、ずっと空が暗く沈んでいるせいかは分からない。
そんな中にいた。
見た目は小さなそこだが、一時的に身を潜めるには十分に役には立つ。
私は湿っぽい土の上にどかんと身体を横たえ、その胸から腹の辺りにセイレーンを寝転ばせていた。
彼女は甲斐甲斐しく私の毛をぺちゅぺちゅと舌を使って毛繕いをし、大きなゴミなどは器用に手を使って払いのけていく。
「すい、そんな事しなくていいのに。休みなよ」
私はそう腹上を這い回るセイレーンに声を掛けた。
しかし、彼女はそれをやめようとする気配は一切見せず、あいも変わらずだ。
「だって君、自分で毛繕いしないんだもん。あっという間にちょっとくさいよ」
言われ、まぁ、確かにとは思う。
だがどうにも私はイヌ科の何かに近いらしい見た目に変わって、果たして犬や狼が自身で毛繕いをしていたのか分からなかった。
それに、元々が毛繕いするにもヘアブラシやら櫛を使う様な生物だったのだ。
やり方すらろくすっぽ分からない。
「くさいかぁ」
私はセイレーンを見るために少し起こしていた上体をどしんと寝かせると、自らの鋭利な爪を持つ手を空に翳してみる。
人を潰した感覚。
車を薙ぎ払う容易さ。
代償として染み付いた赤黒い液体は、体毛の深い黒に吸われて目立たなくてラッキーなんて言ったが、よくよく見れば粘りついていくつもの毛玉を手のひらを中心に作り出していた。
そうっと口元に寄せて、匂いを嗅ぐ。
つん、と鼻をつく匂いは染み付いたそれらが腐敗し始めている証拠だろうか。
私は毛玉の一つを食み、舌で舐め転がした。
鮮度が落ちると、まずいな。
そんな事を思いながら、染み付いた血を綺麗にして手を口から離した。
ぬとぉっと唾液が糸を引く。
「なんか自分でやろうとすると、唾液ねばねばになるんだけど」
「エ〜?毛繕い初心者なの〜?」
セイレーンは私の顔を覗き込む様にしてくつくつと笑う。
目を細めて、信じられなーい、とでも言いたげだ。
いや、実際に言ってるな。
「よし、じゃあ練習に付き合ってもらうかな」
「え?」
そう言って私は両腕で彼女をむんずと捕縛すると、間髪入れずにその上半身に思いっきり舌を這わせた。
毛皮の流れに逆らうように、毛並みを下から上へ。
どっろぉぉ
ねばねばの唾液が彼女の毛並みを荒らしに荒らし、ねっとねとにする。
「ね、ねえ!やめて!」
セイレーンは私の手をたしたしと叩いてくるが、そんなんで離すつもりはない。
もうワンストローク舐め上げて、上半身をぬらぬらした毛玉に変えてやる。
「ねえーーッ!!」
全身がみちゃみちゃになってしまったセイレーンは頬をぷんっと膨らませて、ついに私の手に爪を立ててきた。
あいて!
私は彼女の爪が肉に食い込んだ痛みで、思わず離してしまう。
ぼてん、とそれなりの重量を持って私の上に落ちたセイレーンは、手で自分の乱れた毛並みを叩いて整えた。
「もー。お腹くらいしか自分でできないんだからやめてよ」
それから手を舐め、腹を舐め、毛並みを腕で均していく。
そんな姿を見て、やはり可愛いなとそう思ってしまう。
香る甘ったるい獣の匂いは、まるでそんな気持ちを煽るかの様だった。
私は彼女を抱き寄せて唇を合わせる。
もはや人のそれとは似つかない口は、まるで接吻には不向きだけれども、そうしたくなってしまう。
「ちょっとぉ……」
彼女は不機嫌そうなそんな声を出すが、表情を見れば満更でも無さそうであるのは見てとれた。
こんなコミュニケーションをとるようになってしまったのも、きっと私と一緒にいたせいなのだろう。
「毛繕い、教えて貰おうかな」
ならば、と私は思う。
私も彼女の思う愛の応え方に準ずるべきなのだろうと。
「あとさ」
次いでそう声を上げた。
「なーに?」
「歌、歌も、教えて欲しいな」
***
こんな事をしてていいのだろうか。
そんな事を思う。
わざわざ露出を減らそうと隠れた森で、声を張って歌を歌うなど。
セイレーンは様々な歌を披露してくれた。
恐らく母国語らしき理解のできない言葉を使った歌に、こちらに来てから学んだだろう流行りの歌やら童謡やら。
それらを聞かせてもらった後に、実際に声を出して歌う……というよりも音の出し方を学び、ハモリを練習していた。
所謂コーラスというやつだ。
私はこんな身体になってから、なったのはついこの間だけど、自身の声には全く気を向けていなかった。
むしろそんな余裕は無かった。
だからセイレーンに音を習うにあたり、色々と気付いたら事があった。
まず1つ。
実はこれが一番大きな発見なのだけれども、どうやら私の声は喉を介して出ている訳では無さそう、という事だ。
これはセイレーンが発見したのだけれど、実際に出ている声や音と、喉の動きも口パクも全くが出鱈目だというのだ。
簡単に言えば、口を閉じて喉を動かさずして、あ、を発話できるのだ。
しかし、逆に咆哮を上げる時などはそれらはしっかりと役割を果たしている、らしい。
開いた口に、震える喉が出している咆哮と合致するのだとか。
詰まるところ、簡単に考えるならば元々この形態に発話するだけの喉の発達は無く、まるで後から取ってつけた様に人語を調音できる器官ができたのではないか、との事。
私はふーん、なんて腕を器用に組みながら聞いていたが、となれば元々が人間である私がこうなる事自体がイレギュラーである、という事になる。
何やら自身の身体一つですら、壮大な研究対象にはなりそうだけれども、今更だ。
で、それに付随して2つ目。
故に、割と好きな声が出せる、という事だった。
物理的な器官である喉を使っていないらしから、なんとなくやってみたら、できてしまった。
有名な俳優の声やら、甲高い子供のはしゃぐ声、老人のしわがれた死にかけた様な声に、セイレーンの求めるコーラスに適した張り詰めた声。
まあ、そうするうちに私はあっという間に自分の声だと思って出していたモノを見失って、出せなくなるという珍事が起きたが些細な事だ。
今の1番は、セイレーンであるすいと、声を重ねられる事だった。
ちなみに、毛繕いは上手くはなれなかった。
「すごいすごい!君、1人なのにコーラスもかんぺき!」
「そ、そお?なんかすいに褒められると、シンプルに嬉しいな」
「なんか、音が重なって綺麗だし、不思議な感じ」
私はそんな彼女のベタ褒めに後頭部を掻きながら答える。
「こ、これで、すいからの気持ちに応えられてる、って事だよな?」
「うん!ま、もっとも色々すっ飛ばして愛を直接もらってますケドねー」
なんて言いつつ、セイレーンは腹部を摩ってにやにやと顔を歪めた。
もちろん私はバツが悪くなって、顔を背けるのだけども。
そうして、やっとこさ歌を歌える様になった私にセイレーンから一度しっかり声を合わせてみよう、と提案をされた。
最早断る理由も無い。
本気で彼女の声に合わせてみよう。
彼女のビヴラートに合わせて、私も声を出す。
音の揺れを意識して、聞こえるセイレーンの声に合わせて重ねていく。
と、その直後だった。
生い茂る木々の隙間を縫って幾重にも巻き付いて太くなった蔦が地を裂いていくつもが伸び上がり、生えていた木々ですらめきめきと軋みを上げてその幹を太く、上へと高さを伸ばしていく。
「すごーい!ひとりじゃこんな事できないよ」
「ん、あ、そうなの?」
「うん!これも、愛ってやつ?」
そんな事を言うセイレーンは、可愛らしく首を傾げながら表情をふにゃりと和らげて、私の腕に抱きついてきた。
顔を寄せると、なんとも唆る匂いがする。
「かもなァ」
そんな事を言って、私は彼女の手に指を絡めつつ地面に押し倒した。
「ケダモノだァ」
冗談じみて言う彼女が、いつもにも増して愛おしく感じた。
***
「ねえ」
私はそう声を掛けると、隣でぐったりと横になっていたセイレーンが顔をこちらに向けて来た。
声は出さないが、何で呼んだのかを聞きたげな顔をしている。
「そーいえば、どうしてすいは私に会ったんだろうね」
そんな問いに、セイレーンはずりずぅりと身体を起こす。
「いたた……体格差あるとからだが……」
それからこちらに寄ってきて寄り掛かると、上目遣いに見上げてくる。
「君は何でだと思う?」
そう聞き返され、ふぅむと顎を指でさする。
「ただの偶然、ってのが一般的な考えな気がするけど、なんか偶然って言うにはさ……」
「ほう。それでそれで?」
「こんなに気持ちが昂るのは初めてだし、ほら、お互いに身体の具合も良いでしょ。実は交尾する為に出会ってたりして」
そんな事を言ってみる。
もちろん全てを本気で言っている訳では無かったけれど、少なくとも小匙一杯くらいにはそんな気持ちもあったのは事実だった。
だが、彼女はその答えをお気に召さなかったらしい。
突然にぴょんと地を跳ねて飛び上がると、セイレーンの強烈な尾鰭の一撃がセンシティブな鼻先を思い切り叩き落としてきた。
私の喉からは、きゃいん!と情けない声が出る。
「ほんと、さいてー」
「いたいよ……」
それから見事に地面に着地した彼女は、一度息をすっかり吐き切ってから再び口を開いた。
「私も何で出会ったかまでは分からないけど、少なくともあの浜辺に流れ着くまでの事はぼんやり覚えてるよ」
「へえ。何があったのさ。ずいぶん弱ってたよね」
「うん。クラーケンにね、襲われたの」
こりゃまた。
私はそう思うしか無い。
伝説の中でしか聞いた事が無い名前だったからだ。
「たまたま、彼の海域に入ったらしくて。問答無用で怒り狂った彼に渦潮に叩き込まれて」
「全然分からないけど、なるほど……」
「だから、あいつと同じ見た目のイカが嫌い」
セイレーンはそこまで言うと、ふう、と息を吐いた。
それから私の目をしっかりと見据えて来た。
「君の事も教えてよ。君はどうしてあの海岸にいたの?」
言われて、私は視線を空に向けて記憶を探る。
海岸……海岸……?
そういえば、この街の近くに海は無いし、そもそも海岸に行った記憶が私には無かった。