気付けば、夏休みもあっという間に数週間が過ぎてしまっていた。
本来であれば友人達と遠出をしたり、サークルやバイトなどに勤しんで青春すべき時間であった事は、ここでは敢えて言うまでも無いだろう。
そんな貴重な時間の一部を使って、ただの食材の買い出しである。
それ以外に予定も無いので、パンパンになったプラスチックバッグを両手に吊り下げて、帰路についていた。
「ただいま」
玄関を開けて、薄暗い廊下にそう声を掛ける。
「おかえり」
呼応するように発せられたそれは暗闇の先、というよりも割と足元近くから聞こえたようだった。
玄関のたたきのすぐ先、上り框の丁度真ん中に、黒いほど青い双つの眼があった。
「すぐ帰るって言ったのに、すぐじゃなかったね」
青い瞳はそう言う。
「いや、すぐだったろう。30分くらいだし」
そこまで言って、私は玄関にある照明のスイッチを押し込む。
パッと光が天井で弾けて、あたりの景色が色彩を取り戻した。
その中心に、不機嫌そうに口を歪めた半獣魚が、器用に尾鰭だけで直立するようにして、居た。
左右に2本ずつある口髭が、ぴょんぴょんとこちらに向けられている。
「ニンゲンが言うすぐって、分かりにくい」
「そんな事言われてもな。プリン買って来たから、機嫌直してよ」
靴を脱いで廊下を歩き出すと、半獣魚も少し後ろを着いてくる。
例に倣って、ぞりぞりとフローリングを削りながら、尾鰭をくねらせて器用に。
「焼きプリン!?」
「いや、それは無かったからプッチンの方」
「エ〜?や〜」
「嫌か。なら私がもらおうかな」
「食べるケドー」
***
食卓で向かい合うように座り、半獣魚がもちもちした見た目の鰭の先の指で、かぎ爪で、器用にスプーンを使いながらプリンを食べる様を、頬杖をつきながら眺めていた。
この半獣魚、成長があまりにも早い。
この成長とは身体的な話は含まない。
頭脳の方だ。
ついこの前までは訳のわからない言語、たまにカタコトの日本語だったのに、最近では会話が成立してしまう。
確かに日本語を話しそうな兆候を感じてから、日本語の学習ビデオやら音声データ、書籍を垂れ流したり見せたりはしていた。
可能性があるなら実験だと、そんな軽い気持ちでやってはいたが。
あまりにも、無茶苦茶だ。
「食べ終わりました」
半獣魚が言う。
「ごちそうさま、な」
半獣魚はスプーンをぺいっと机に放り出すと、そそくさと食卓を離れていく。
ぞりぞりぞり。
フローリングのみならず、カーペットまでも削り落とし、居間へ。
「ニンゲン、私、お歌を練習したの」
唐突にそんな事を言う。
「へぇ」
頬杖をしたまま、居間に顔を向けた。
半獣魚は、むにむにと口元を動かし、すぅ、と息を吸った。
それに反応するように、つやつやとした体表を覆う毛皮が、僅かに膨らんだ。
きらきら星
歌い出したのは、確かそんな名前の、子供がする歌の練習曲だった。
幼稚園児がピアノの伴奏をなぞる様に、それに合わせてリズム良く音を吐き出す。
歌というよりは、リズムとは、歌とは、そんな事を学ぶ、あまり本気で歌われる事も少ない、いや、そんなイメージが勝手にある歌。
けれど今、部屋中に響くきらきら星は、重厚な音圧を纏って、壁を、床を、窓を、鼓膜を揺らしていた。
聴き惚れた、とでも言えば良いのか。
まるで良質なオペラでも観覧しに来たとも錯覚をしてしまうような。
人間とは似ても似つかない動物じみた口、その開かれた口腔から覗く尖った牙は唾液で濡れ、ぬるりと光を反射する。
そこから、思いもよらない音が溢れているのだ。
白昼夢でも、見ているかのようだった。
「じょうずでしょ」
そう言われて、歌唱が既に終わっている事に気付いた。
上手、とかそんな次元の話をすっ飛ばしている気がするが、とりあえず手を叩いておこう。拍手にて上手だったよ、と表明だ。
にしても、この生き物は一体なんなのだろうか。
拍手がもらえた事が嬉しかったのか、その場でもちもちと伸びたり縮んだりする様を見ながら考える。
拾ってきた当初から、その事自体はずっと考えて、調べたりしてはいたけれどもいまだに答えらしいものは見当たらない。
ただ、特徴的な下半身と今の歌とで、少しだけ思い当たる節が出て来た。
人魚、あるいは人魚姫。
もしくはセイレーン。
んなバカな。
そう仮に誰かに言われたならば、まぁ、確かにバカかも知れないとは思うけれども。
「なぁ。君」
声を掛ける。
「あ、その、君ってやめてほしいなァ。なんかヤダ」
半獣魚は食い気味にそう返して来た。
「疑問だから聞くけど、なんなの?君は」
「?」
「人魚なの?」
「??」
「セイレーン?」
「???」
半獣魚は私の言葉に首を左右に傾げる。
自分が何か分からないのか。
いや、そもそもだけれども、仮に人魚やセイレーンだとしてだ。
そう呼ばれているとその存在自体が知る事はほぼ無いのではないだろうか。
例えば、急に宇宙人が襲来して、こちらを指差しながら
「お前は、ウィボベべか?」
なんて言われて、反応も理解も出来ないのと同じだろう。
まぁいい。
仮にもセイレーンだとして、じゃあセイレーンって呼ぶのもなんだか違う気がする。
カテゴリーがセイレーンなだけであるわけで、目の前のは一個体に過ぎないだろうし。
うむ、それにアマビエの線も消えてはいない。
「もう一個プリン出して」
いつの間にかこちら側に戻って来ていた半獣魚は、そう言う。
食べたでしょ、と机の上に転がる残骸に視線を向けて、伸ばした指で付近の机を叩いて見せた。
「そう言えば、名前はあるの?」
「ねぇー、プリンは?」
「……お名前、プリンなの?」
「ちがうし、なんでいじわるな事いうの」
「意地悪かなぁ」
会話が成立するのに、会話が成立しない。
半獣魚の扱いは、どうにもこの先も苦労しそうだ。
ともかく、とりあえずしばらくは暫定でセイレーンと呼称しよう、そう思った。
あの披露された歌唱力が並外れたものだった事を考えると、伝承的にもしっくりくる。
まぁ、伝承がどこまで作り話かは分からないけれども。
違うか。どこまでが本当か、分からないけれども。
ポーン♪
突如として、手元でチャイムが鳴った。
どうやらスマホに何かしらの通知が来たらしい。
視界の端で、感情の昂りに合わせて徐々に虹彩の色を赤く染めていくセイレーンを見つつ、スマホの画面に目を落とした。
件名:我がゼミの学生諸君
やぁ、夏休みは楽しんでるカナ?
このメールは自動送信なんだケド、内容の予想は大まかツクよね。
そう!
このメールが届いた君らは、レポートが未提出ダヨ!
単位はあげるケドね、きちんとレポートはダシテネ!
1週間以内に、メールでコチラまデ!
伝承研究ゼミ
神々狩 よリ。
メールを最後までスクロールして、思い出した。
確かに、最後の試験がない代わりにレポートがどうとか言っていて、見事に提出日の授業をバックれていた。
やべ……
神々狩教授……ししがりきょうじゅ。
伝承研究とか言いつつ、オカルトやら呪物にずっぽりハマり込んだ、変な人。
ヨレたスーツに汚い作業着を羽織り、形が潰れた中折れ帽がトレードマーク。
ワカメのようなパーマの髪に丸メガネをして、いつもずっと怠そうな表情をしている、そんな人だ。
面白そう、で入ったゼミはぶっちゃけ面白かったけれど、課題が多いのが難点な、そんなゼミ。
私は、ふと思う。
この神々狩教授に、軽く、本当にさわる程度に聞いてみるのはどうだろうか。
今、唐突に高音のビヴラートを奏で始めた、このセイレーン(仮)について。
何か、役に立つ情報があるかも知れない。
いや、というかうるさいな。
本当にうるさい。
このセイレーン、ボリューム機能と肺活量壊れてんのか!?
分かった、分かったからやめて……
そんな事を言いながら、耐えきれなくなった私はプリンを取り出すために席を立った。