家にいるのが、怖い。
不意に聞こえる、何かを削りながら近づいて来る音が、怖い。
浅い眠りを、ジッと眺めている青い目が怖い。
「いただきまーす」
食卓に並んだ食事を前に、セイレーンは無邪気に声をあげた。
持ちやすい様に持ち手を曲げてやったスプーンやフォークを巧みに使いながら、食べ物を口の中に運んでは咀嚼を繰り返す。
もぐもぐもぐもぐ。
口を開けた際に、ぬるぬると唾液でてらつく牙が見える。
口腔を蠢く、薄い赤色の舌が見える。
にちゃぁ
動物らしい薄い唇が開くたびに湿ったそこは音を鳴らし、糸を引いていた。
気分が、悪い。
「ごめん、ちょっと外すね」
私はそんな事を言って席を立つ。
そもそもそんな事を言う必要は無いだろうに。
何一つとして食事にも手を付けていないから、殊更だった。
不思議そうな顔をしたセイレーンの側を通らないように、少しばかり遠回りをして、廊下へ出る。
向かうはトイレだ。
ここ数日はまともに食事を摂れていないどころか、身体が、胃が、無いものを吐き出そうとする。
口腔内を蹂躙してきた、滑る舌。
混ざり合う粘液の音。
喉の奥にずるぅりと沈んでいった、それ。
食道にも、胃にも、腸にも、その全てに粘液が染み付いてしまったかのような錯覚が、常に襲いくるのだ。
いくら吐こうが、取れない跡になっているような。
気分が、悪い。
***
洋式便器に便座を下げた状態で顔を突っ込み何度もえずくが、結局今日も胃液すら吐き出せない。
何も出されてはいないが、習慣的なものでトイレのフラッシュノブを回した。
水が渦になり、排水されていく。
こんな風に、自分もこんな風になれたら良いのに。
そんな事を思った。
ふらつく脚をなんとか動かしながらトイレを出る。
居間にも、食卓にも戻りたいという気力は起きない。
「ねえ」
声が聞こえて、顔を上げた。
廊下の先に、セイレーンが不思議そうな顔をしてこちらに視線を向けていた。
「ぐあい、わるいの?お顔、怖い」
次いで、そんな事を言う。
私はだらりと下げていた腕の先の、力の入らない手を無意識に拳に丸めていた。
かたかたと震えるそれは、軽い栄養失調だからか、恐怖なのか。
最早自分にも分からない。
「いや、気にしないで」
「お顔怖いもん」
……誰のせいで。
何をしたのか、覚えてないとでも言いたげな、そんな顔。
セイレーンは特徴的な形の耳を軽く左右にぴょこりと動かしている。
「仲直り、したよね?」
そう、セイレーンは続ける。
「……したね」
「お顔怖いの、やめてほしい」
「怖い顔、してないから」
私はそう言って、セイレーンから離れるように半歩下がる。
ただ、そうして下がって行く先の廊下には、玄関の扉があるだけだ。
自室に戻るならば、奴の傍を通る道を選ぶしか無い。
どうする。
近くに行くのは、なんとかして避けたい。
そう思ってしまう。
「怖いでしょ」
ぞり、ぞり、ぞり
近づいて来る。フローリングが削れる音。
きし、きし、ぎぃ
フローリングを踏み締める音は、玄関へ寄っていく。
「何で下がるの」
「なんでも、いいじゃないか」
そんなやりとりをしていたが、気付けばすぐにも玄関の扉の側、詰まるところ行き止まりへと追い詰められていた。
セイレーンが何かを言うたびに見える牙、舌、それらが私の身体を恐怖で化石させていく。
もう、いよいよ後がない。
玄関を開け放して逃げ出すか?
いや、そんな体力は残っているようには思えない。
状況は、限りなく詰みだった。
***
遂にとうとう私の膝は折れ、靴箱にもたれるようにしてぐったりと項垂れるしかなくなっていた。
目前にはセイレーンがいる。
顔を上げなくても分かる。
気配と、甘ったるい獣の匂いがほのかに香っていた。
「もう、ほっといてくれよ」
「どうして?」
「もう、無理だよ」
「何が?」
君と一緒にいたくない。
きっとそう言うつもりだった。
言えば、君を拾ったのも、介抱したのも、間違いだった。
今すぐにでも消えてくれ。
そんな言葉も出ただろう。
まあ、それを言った場合に何が起こるかはさておき、強い拒絶を表明できたろう。
けれども、それは出来なかった。
ふと上げた視線の先で、ひどく悲しげな瞳を、どうしたら良いのかとあちこちに巡らせる姿を見てしまったから。
私は、不安そうにおずおずとこちらに伸ばされた、ふわふわした毛皮に覆われた腕を、手のひらを、指を取ってしまった。
私は、ずぅ、ずぅ、と床を鳴らしながら近づいて来る身体を押し返せなかった。
あんなに酷いことをされて、あんな邪悪な事をされて、それでもなお。
空気を孕んで柔らかい、セイレーンの頭部がゆっくりと肩に乗っかって来た。
「ひとりにしないで」
耳元で、か細く綺麗な声が鳴く。
なんで、なんでこいつは……
あんな事をしといて、あんな事をした後に平気で……よくも……
重ねた手にセイレーンの指が絡まり、小さな水かきが指の股を押してくる。
耳元で、すうすうと小さな呼気が漏れた。
「どうしたらいいか、分からないの」
セイレーンは言う。
「分からないって、なんだよ。何が」
「……わかんない」
それじゃあ、こっちも分からねえよ……
いまだにセイレーンの存在は私の胃をひっくり返すには十分な悪夢を内包しているし、もちろんそれらを許すつもりもない。
気を抜けば、場面がフラッシュバックする訳だし。
そこは変わらない。
けれど、けれど。
この寄りかかる、弱々しく感じてしまう体躯を拒絶する事は到底できそうもない。
耳元で、少し震えた声の、小さな歌声がする。
日本語ではない不思議な語感の、静かな歌だった。