今日も今日とて、セイレーンは機嫌が悪いらしい。
というのも、最早何度目か分からないが私が
セイレーン
と彼女を呼んだからだった。
セイレーン。
彼女を題するにはまさに打ってつけだろう名を、彼女は気に入らないと言う。
気に入らないというか、呼ぶ時の名前として使って欲しく無い、そんなニュアンスの事を都度都度言われていたけれど、それを無視する事いくらか。
遂にとうとうとばかりに彼女はぎゃあ!と声を荒げて怒ったのだった。
そしてそんなお陰様で、私は彼女の尾鰭の一撃を食らって昏倒しかけつつ今に至る。
「ナンドイッタラワカルノ!!」
彼女の前にまるでひれ伏すようにする私の前で、セイレーンは声を上げた。
「いや、だって……他に呼び方とか言われてもさァ……ローレライとか?」
私がそう口にすると、ばちぃん、とけたたましい音を立てながら尾鰭がフローリングを叩いた。
そして目の前で少し割れるフローリング。
こっわ……
「だーかーらー!なんか、なんかさ、分かんないの!ちがうのー!」
セイレーンはフローリングを割った尾鰭を引きながら、ぎゃあぎゃあと文句を言ってくる。
私はようやく頭がぐらぐらするのを抑えて、上体を起こした。
「なんだよ。何を言いたいのかよく分からんよ。じゃあプリンとかでいいでしょ。好きでしょプリン。良かったね」
「だっ……!なん……!チッ……んわぁッ!!」
セイレーンは私の提案に腕をぶんぶんと上下に振り回し、大声を上げた。
途中で挟まった舌打ちは初めて聞いたので、恐らくかなり不機嫌なのだろう。
というか舌打ちするんだ。
つくづく器用だなぁ。
「気に入らないなら自分で考えたら良いじゃない。私に丸投げしないでさ」
「もー!!すぐいじわるする!!」
「してない!むしろ意地悪されてます」
「んわぁッん!!」
私は頭を軽くふり、漸く立ち上がる事ができるようになった。
立ち上がり様に、ふう、と私は息を吐く。
「なんでそんなに私にこだわるかね」
それにセイレーンは答えず、口をむすっとつぐんで、こちらを睨む虹彩は徐々に赤らんでいくようだ。
どうしろってんだ。
物言わぬペットに名前を付けるってんじゃないのだ。
ただでさえ、彼女の由来を調べてセイレーンと呼んでるのに、それにつけてなんか嫌だとは。
「な、じゃあさ、一緒に考えるってのじゃ……」
と私が言いかけた言葉を、セイレーンが食い気味に遮って声を上げた。
こちらをしかと正面に見据えて。
好きな人に名前をもらいたいのは、ダメな事なのか、と。
それに対して私は、何すら言い返せなくなってしまった。
***
食卓を挟んで座る私たちの間に流れる妙な空気。
一種の張り詰めたような、そこまで大袈裟でも無いような。
じいっと、こちらに視線を向けてくるセイレーンと、ぼこぼこになった机に置いた紙に、これまたその段差を拾ったペン先が描いたぼこぼこした文字。
私の指は、紙に触れる寸でのあたりでペン先を保ったまま止まっていた。
「いくつか、考えました」
神妙に、そう繕うでもなくそうなった言葉が、私の口から漏れた。
「はい」
向かうセイレーンは紙には目もくれず、やはりこちらに視線をくれている。
恐らくだけど、今更文字が読めないなどという理由でそうして無い事は明確ではある。
お前の口から言ってみろや。
乱暴に、何の思慮もなく心を読み解くのならばそれが一番近いのかも知れなかった。
私は俯きながら、自らの筆跡に視線を這わせる。
「っ……えっと。まずは、セイ、です……。単純に、セイレーンの……セイから名前を」
たすん。
彼女の鰭兼手のひらが、机を叩いた。
軽く。
「……次は、レンです……セイレーンの……」
たすん。
再び指が小突く。
「はい……すいません。次は、人魚姫にあやかり……」
たすたすたす。
再び。
「えっと……」
私は、そこで漸く顔を上げて視線をセイレーンに向けた。
まるで人が、苛ついた人がそうするように机を、これまた器用に鰭の先の指を一本立てて小突き続ける彼女の瞳は、じっとりと不満を湛えてこちらに向けられていた。
理由は、明白だよね。
ペットに名前を付けるんじゃないんだから、とは正に私が先刻思った事だったけれども、正にその字面を真正面から愚直に実行してしまったが故の事態である。
つくづく名前という、命名という儀式の難しさに身震いを禁じ得ない。
「ねぇ。もしかしてわたし、嫌われてる?」
「いや、いやいや!そんなバカな」
「それはこっちのセリフかも」
セイレーンはずり、ずりり、そんな音を立てながらこちらに移動を始めた。
そして私の目前に迫ると、ふっと、腕をこちらに伸ばして来た。
私はペンを置くと、彼女の背中にゆっくりと腕を伸ばして抱き抱える。
「もっと真面目に考えてほしーんだけど?」
仰る通りで。
近くに寄った彼女の鼻先からは、ふすふすと荒い息が吹いている。
「いや、真面目ではあるんだけど」
どうしてもペットの名前を付けるような感覚に引き摺られてしまう。
私はふにふにと柔らかくて暖かで滑らかな彼女の背に指を埋めながら、気付かれないようになだめるが如くさする。
名前。
世の親が我が子に与えるそれに対して、大会議を開くだけの事はある。
そんな実感をひしひしと感じる次第だ。
ただ、んなもん感じたところで状況は変わらない。
私はセイレーンの瞳を見る。
心を無にして、無に。
「す、すい……とかいかがですか。すいちゃん」
セイレーンが瞳を細めた。
「なにゆえ」
「い、インスピレーション……ほど大袈裟じゃあないけど、そんな感じがして」
すい。
なんか、個人的には丸っこくて良さげな気がした。
「ふーん。そうなんだー」
セイレーンは言う。
不機嫌でも、上機嫌でも無さげに。
「じゃあ、そう呼んでね」
「え?」
セイレーンは私の腕からするりと抜けると、こちらに背を向けたままに、チラリと伺うように視線だけを向けてきた。
「一番マシだから。君に免じて、すいって呼ばれてあげる」
彼女の細めた瞳が、余韻を残しながらその視線を私から流して外す。
こちらに向けられた背や尾鰭からは彼女の内心を窺い知る事は出来なかったけれど、何となく、喜んでくれた気はした。
名を付ける。
人外の、故もわからぬ彼女に。
自分の言葉を、まるで相手の魂に刻み込むようなそんな行為に、少しだけ心臓がの吐き出す脈が早くなった気がした。