「じゅわじゅわサクサク♪カツカツとんかつ♪アブラじんわり♪とんとんカツ♪」
部屋の真ん中で、我が家の歌姫がまた変な歌を歌っている。
変な歌の割に美声で、ビヴラートが効いているのが何だかイラっとはするのだが。
「ねーえー!きちんとコーラスして!」
セイレーンは傍観している私にキッと顔を向けると、そんな事を言って来た。
コーラスをしろ。
彼女はそう要求してくるが、私には歌の知識がほぼ無い。
何をどこで、どうハモれば綺麗だとか、どの音域を出せば良いだとか、テンポも分からなければ、音符は休符がなんとなく薄らと思い出せるか、そんな程度でしかない。
詰まるところ、無理なのだ。
そして以前、正確には数日前にも似たような事があった。
その時は奇妙なラーメンの歌を歌っていて、同様に歌唱を求められた。
だから、だから私は歌ったのだ。
テンポもリズムも未知すぎるセイレーンの創作に合わせて、それとなく歌じみた真似をしてあげた。
なのに……
「お歌下手なんだねェ」
セイレーンは、目を細めてくつくつと笑う。
なんだかとても哀れなものを、貶むように。
手を口に添えているのが余計に心に刺さったのを覚えている。
そして
「なんか、ラーメンの口だなー。とんこつの醤油。こってりしたやつが食べたいかもー」
などと言い出したのだった。
もちろんだが、高い手数料の出前を取らされる事になったのは言うまでも無い。
だから、私はもう歌わないことにしている。
この流れを汲むなら、明らかに乗ってしまえばとんかつを要求される。
すいちゃん。
学生を舐めないで頂きたい。
とんかつなんて、気が向いた時にいくらでも食べに行ける代物ではないのだ。
普通に1日の食費のリミットをぶち壊してしまうだろう。
「ねェーえェー」
セイレーンはずぅりずぅりとこちらに寄ると、可愛げありありに上目遣いを投げてきた。
おまけに手をこちらの体にぴったりと這わせて、腹部あたりでくるくると渦を描く。
以前、夏祭りの真似事をした時から何かあればすぐこうだ。
どっから仕入れた知識なのかは分からないが、ちょっと心が2つに分かれちゃいそうだから無闇にはやらないで欲しい。
そう思う。
「ダメ。とんかつは無理」
「何も言ってないよ!」
「どうせ言う事は分かってるから。とんかつは無し!」
私は体に縋るようにする彼女にぴしゃりと言い放った。
「あのね、テレビでね、銀座のね」
「絶対無理だよ!」
続け様に甘えた声を出してきたセイレーンにそう答え、とうとう体から引っぺがす事にする。
やぁん、なんて声を上げるあたり、目を離した隙によくない事を学習している気がしてしまう。
「チェーン店ですら高めなのに、銀座のとんかつが食えるか」
「けち」
「けちですまないね。すいの希望に添えず申し訳ないな!」
私はそんな事を口にしつつ、でもふと思う。
とんかつ、食いたいな、と。
***
それから、しばらくとんかつの事が頭を占めてしまっているまま、私はスーパーへの買い出しに出てきていた。
最近、セイレーンの食いっぷりが良すぎるせいか、こうして割と頻繁に出ないとならなくなりつつある。
というか、恐らくこのせいでとんかつを逃した可能性がある事を、彼女はきちんと理解した方が良いかも知れない。
まあ、とんかつへの思いは一度惣菜売り場に戻しておいて、見るべきは野菜や肉、魚の食材だ。
2人分の食料となると、出来合いを複数買うよりは自炊のほうが多少は安上がりの場合がある。
本当に多少だが。
「あ、夏野菜かぁ」
私はスーパーの目玉商品売り場の、目立つ大きなポップを見上げた。
雛壇になった棚に並ぶ色々な野菜たち。
光を受けて艶めくそれらは、夏の日差しを受けて色濃く育っているようだ。
ごくり。
喉が鳴った。
すいには今まで彼女が求めるものを提供してばかりだったけれど、どうも嗜好が脂気味である事が多かったように思う。
そのせいだろう。
彼女の体を触ると、むにむにとしたある種余分な触り心地があるのだ。
それも悪くはないが、別の意味で良いとも言えない。
私は夏野菜を見比べつつ、痛みの少ない物を買い物カゴに入れていった。
***
「エ〜?」
帰宅早々にスーパーからの荷物をひったくってきたセイレーンは、中を見てそんな声を上げた。
「とんかつは?」
「しつこいな……無いってば」
「お野菜ばっかりだよ」
「豚肉の薄切りロースがあるだろ。お肉あるよ」
「エ〜……?」
私はセイレーンから袋を奪い返しつつ、きょとんとした表情が張り付いてしまったかのような頭部に手を置いた。
ふわふわわさわさとした頭の触り心地を手のひらに感じながら私は言う。
「カレーを作ります」
「カレー……」
セイレーンがそう反復して言う。
「確か食べた事無かったでしょう。せっかく夏野菜が美味しそうだったからさ、夏野菜カレーを作ろうと思って」
私の言葉に、ふーん?と首を傾げる彼女。
それもそうか。
知らないのであればそんな反応にもなるか。
ならそうだな、どうせなら一緒に作ってみるのも楽しいかも知れない。
そんな考えが浮かんで来たのであった。
***
私は、おぉ、と小さく声を上げていた。
キッチンの調理台前にある少し高めの踏み台の、更にその上にすいことセイレーンが器用にバランスを取っているのだけれど。
そんな彼女に、昔買ったきり仕舞いっぱなしだったエプロンの存在を思い出したので、着せてみたのだった。
そうしたらどうだろうか。
似合うのだ。
人の大きさに合わせたそれは、確かに私より背の低いセイレーンには大きめではあったけれど、なんかこう、キッチンに立つ女性の色気的な……
いや、似合うとだけに留めよう。
「なにこれ、邪魔ァ〜」
セイレーンはそんなエプロンを気に入ってはいないらしい。
「料理する時に体が汚れないように、みんな付けるんだよそれ」
「その割にはきみは着けてないよね」
私はそんな彼女の言葉には耳を貸さず、台所から一振りの包丁を取り出す。
確か一人暮らしを始めるタイミングで親戚から贈られたものだった記憶があるが、そんなに今までに出番は無くて、刃はぴかぴかと輝いていた。
「えー、では本日はすいには野菜を切ってもらいます」
そう言いながら私はセイレーンの前にあるまな板にそっと刃を寝かせる。
鏡面までとはいかないが光るその刃の側面に、薄らと不安げな彼女の輪郭が浮かんでいた。
「大丈夫、一緒にやるし。経験だよ経験」
「うぅん……」
そう言ってみたが、言葉だけでは払拭できないらしい不安を、セイレーンは伏せ目がちにこちらを見やる事で伝えてくる。
何だかいつもわがままで強気である様子はすっかり身を潜めていた。
「一緒に作ったらその分美味しいからさ」
とは言いつつ、包丁を上手く彼女の鰭で扱えるのかは疑問でもある。
しかしそこは言い出しっぺの私だ。
しっかりと考えてはあった。
彼女のふにふにした手にまず包丁の柄を持たせ、その上からアシストするように手ごと包んでやる。
ここまでは良かったが、彼女の手のひらが思った以上に肉厚で滑らかである事を失念していた事に気付いた。
上から包む様にするだけだと少し危ないか。
「ちょっと失礼」
私はすいのそれぞれの指の股に、私の指を捩じ込む様にして直接包丁を指で押さえてやる事にする。
「あ、あのあのあの!」
その様子にセイレーンは声を上げる。
「何だよ」
「なんか、ダメだと思う!」
何がだよ。
そんな事を思いつつ、次は彼女がバランスをとりやすくする為に背後から空いた腕を回し、腹部の辺りに手を添えてやる。
「あのあのあのあの!」
次いで、ちょうど私の頭一個分程下にある彼女の頭、その側頭部辺りに顔を寄せる。
これで視界を確保しつつ、頭頂部にある耳に声も届かせやすい。
「よし、やろっか」
私は彼女の耳に口を寄せて言った。
近くで見るとだいぶ肉厚な、まるで大型犬を思わせる様なボリュームの獣耳がビクンと動く。
「や、やっぱりやめる!お料理嫌いかも!」
セイレーンはそんな事を言って、軽く身を捩る。
だが今は手に包丁があった。
彼女の意見は聞いてやりたいものだが、今はダメだ。
「危ないから。ほら、がんばろ」
私はセイレーンの体を支える腕に力を少し込めて、もう少し身体がぴったりと沿うように、少し抱き抱える様にしてやる。
「や、やぁだ!なんかダメだと思う!」
そう言ってセイレーンの、包丁を持たぬ手は、私の彼女を支える腕を掴んで来た。
そこまで力は入れてきてはいないが、引き剥がそうとするのは何と無く分かる。
「ほら、空いた手は野菜を押さえるよ。私の腕じゃなくて」
そう、耳元で静かに伝えてやる。
まず切るのはズッキーニだ。
程度が良い大きさだからやりやすいのでは無いかと、そんな配慮もあった。
「ほら、すい。がんばろう」
そう、いまだに落ち着きのない彼女に、その耳元で囁く様に鼓舞した。
「ひゃあい……」
そんな腑抜けた声がして来たが遂に諦めたらしい。
どうにもずいぶんと包丁に緊張していたのだろう。
張っていた筋肉がふにゃふにゃと脱力するようだった。
にしても、どんな顔をして包丁と野菜に向き合っているのだろうか。
少し気になるな。
そんな事を思いつつ、セイレーンを支える腕にもうちょっと力を込めると、彼女の身体はびくんびくりと小さく跳ねたのだった。
***
私は鍋の蓋を閉じ、居間に足を向けた。
時間は掛かったけれど、なんとか具材の調理をやり遂げたセイレーンが、居間の床にまるで溶けたかのように平べったくのびている様子が見えた。
「おつかれ。後は煮込むだけだよ。炊飯器も動かしてるし、30分もすればご飯だよ」
「ひゃい……」
返ってきた返事はどうもへにょへにょした声量しかない。
相当疲れたらしい。
もしくは包丁の扱いが怖かったのかも。
だけれども、いつの日にかどこかでふと思い出して懐かしむ事ができる経験をつくれたのでは、そう思う。
私は彼女の隣に座って、身体をさすってやる事にした。
「すい、お疲れ様だね」
「あの……今日はもう、心臓が壊れたので……触らないで……」
「そ、そんなに怖かった……?包丁」
「……」
「すい?」
「わたしには、君の方が怖いよぉ……」
何を言っているのか、さっぱりだ。
ただ相当疲れているだろう事ははっきりしたので、ゆっくりさせてやろうと思う。
カレーができたら起こすから寝てたら?
そんな事を言って頭を撫でてやると、セイレーンは更に平べったく溶けるようになってしまった。
床に顔を押し付けるようにしているから、表情はやはり読み取れないが。
結局、カレーが出来て2人で向かい合って食べている時もそんな様子で、いや、少し不機嫌の様にも見えたか。
「2人で作ったから、ほら、美味しいでしょ」
そう私が言うと、彼女はスプーンを咥えた口元を器用にへの字に曲げて、上目遣いがちにこちらを見ながら、うん、と小さく答えたのだった。