兄貴、見守る。 作:キュウリ大好き人間
仄暗く、ひんやりとした空気が漂う洞窟の奥。
その静寂を破るように、ズズズ……と重苦しい音が響いていた。
伝説のノッキングマスター・次郎が、自分の身体ほどもある大きな酒樽を引き摺りながら歩いている。
その時、衝撃で樽の木蓋が不意に外れた、中からのぞいたのは、何十匹もの「フグ鯨」だった。
すでに次郎の手によって完璧にノッキングされており、ピクリとも動かない。
「おっとっと……。ヒック」
樽の中のフグ鯨を見て、次郎は千鳥足のままピタリと立ち止まった。
赤ら顔の口元に笑みを浮かべ、それらをじっと眺めながら、 ぽつりと独り言をつぶやく。
「それにしても、若い芽は順調に育ってきてるの……」
脳裏に浮かぶのは、力強い目をした若き美食屋と、その後ろを必死に追いかける小柄な料理人の姿だ。
「あの子達なら……最高の料理人と、最高の美食屋になれるかもしれん。もしかしたら、わしでも辿り着けなかった『あの食材』を、いつかゲットできる日が来るか……。ヒック」
次郎はそう言って、嬉しそうにまた一つ大きなしゃっくりを上げた。
「それに、リゼちゃんがあんなに嬉しそうにしてるとは。昔はわしから見てもかなり刺々しとったが、ずいぶんと丸くなったもんじゃ。笑顔なんて、たまにしか見れんかったのに……」
ふと遠い目をしながら、今しがた歩いてきた、誰もいない暗闇の後ろを振り返った。
リゼルと共に過ごしたこれまでの変化や、若者たちのこれからの旅路に何か想うところがあったのか、満足そうにフッと口元を緩める。
「ヒック……。よし、行くかの」
嬉しそうに鼻歌を交えながら、次郎は再び大きな樽を引き摺り、洞窟の出口奥へと歩き始めるのだった。
「さぁ、本番はここからだ」
ココが視線を向けた先には、広げられた風呂敷の上でピクリとも動かない、三十匹ものフグ鯨たちの姿があった。
「フグ鯨一匹の末端相場は約一億だが、毒袋を完全に取り除いた場合、これが五億に跳ね上がる。ただし、毒化した場合は一気にゼロだ」
冷静かつ的確に、ココが残る三人へ向けてそのデリケートな価値を説明していく。
トリコはもちろん、リゼルもまた、腕を組んで解説を静かに聞き入っていた。
そんな緊張感漂う一同の後ろで、砂浜には小松のカメラヘルメットが置かれていた。
だが、そのレンズ部分に、どこからともなく現れた一匹のヤドカリがピトッと張り付く。
「こら! 見えないじゃない!」
ティナは完全にヤドカリに占拠されたモニターに向かって、眉を釣り上げながら両手をグーにして怒りを爆発させた。
せっかくスクープのチャンスだというのに、これではただの甲殻類の生態ビデオである。
「これからいい所なのに!」
いつもは偉そうなゾンゲまで、この時ばかりはモニターにすがりつくようにして真剣な顔で文句を垂れていた。
白川も坂巻も、ティナやゾンゲと同じように「これから」という決定的な瞬間をその目で見たそうに、じっとその映像を睨みつけている。
ココは真剣な眼差しでナイフを握り、慎重にフグ鯨へと刃を滑らせていく。
(うまい……!)
その無駄のない手並みを、小松は瞬きすら忘れて真剣に見つめ、心の中で感嘆の声を漏らした。
だが――次の瞬間、ココの手元がわずかに狂う。
一瞬にしてフグ鯨の身体が禍々しい紫色へと染まり、毒化してしまった。
「あ!」
小松は驚きのあまり口を半開きにし、眉を跳ね上げる。
占いによってフグ鯨の構造を熟知しているはずのココですら失敗する過酷な現実。
その様子を、リゼルもまた冷徹なまでに真剣な目で見つめていた。
「……ふぅ」
リゼルは静かに息を吐き出すと、自身のナイフをスラリと抜いた。
初めて実物を前にして圧倒されている小松とは違う。
リゼルには、過去に何度もこの絶望的な難易度の特殊調理に挑み、そして成功させてきたという「確かな経験と実績」があった。
だからこそ、ココの失敗を目の当たりにしても、その心は一切ブレない。
リゼルは即座に刃先をフグ鯨へと突き立てた。
その切っ先は、危険なラインからわずか数ミリの寸前でピタリと止まる。
間髪入れずにヒレへと刃を滑らせ、今度は狂いなき繊細な深さで正確に止める。
傍目には無駄のない完璧な動作。
しかし、リゼルの額にはジワリと大粒の汗が浮かんでいた。
経験があるからこそ、この調理がどれほどの極限状態を求められるかが分かっているのだ。
皮膚の奥に、怪しく蠢く毒袋が見えた。
リゼルは全神経を指先に集中させ、その毒袋を慎重に、かつ迷いなく抜き去る。
その瞬間、毒化の紫は完全に消え去り、まばゆいばかりに輝く「黄金のフグ鯨」がその場に完成した。
リゼルが鮮やかに一匹目を成功させた後も、洞窟の砂浜には心地よい緊張感が漂っていた。
リゼルはそのまま淀みのない動きで次々とナイフを振るい、確実に黄金のフグ鯨を生み出していく。
だが、隣で見つめる小松の表情には、羨望に焦りの色が混じって滲んでいた。
「リゼルさん、やっぱり凄いです……ボクも料理人として、みんなが命がけで捕まえてくれたフグ鯨を、この手でちゃんと捌けるようになりたいです……!」
拳を握りしめて懇願する小松に、リゼルはふっと視線を向けた。
その目は突き放すような冷たさではなく、小松の覚悟を見極めるような、静かで深い光を湛えている。
「ココ。お前の占いで、この個体の電磁波のノイズはどう出ている?」
リゼルが短く問いかけると、ココは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに得心して穏やかに微笑んだ。
「そうだね……。さっき捕らえたものに比べて、この個体たちはわずかに右の側線付近の生体電流が乱れている。つまり、毒袋の位置が通常より右奥に寄っている可能性が高いよ」
「――聞いたか、小松」
リゼルはココの言葉を引き継ぎ、小松の隣に立って、自身のナイフの切っ先でフグ鯨の体をそっと指し示した。
「ココの言うノイズは、感覚的に言えば『皮一枚分の抵抗の差』だ。お前はさっき、基本のルート通りに均一な力で刃を入れるイメージで、俺の手元を見ていただろう。だが、この個体に関してはそれでは遅い。右ヒレの付け根に刃が触れた瞬間、ほんのわずかに手首の角度を外側へ寝かせろ。感覚を指先に集中させれば、毒袋の膜に触れる手前の『逃げ場』が見えるはずだ」
ココの高度な理論を、リゼルは料理人の包丁捌きへと落とし込み、これ以上ないほど的確なアドバイスとして小松に授ける。
「手首の角度を、外側に……。はい、やってみます!」
リゼルという絶対的な安心感がすぐ背後に控えているからこそ、小松の胸から余計な恐怖は消え去っていた。
目の前の難敵に対して、純粋な技術への挑戦心だけで向き合うことができる。
一回目、二回目、三回目と失敗の紫に染まる。
だが、リゼルは「焦るな、お前にはまだ二十回以上もチャンスがある」と冷徹に、しかし確かに小松を支え続けた。
そして、四回目。
「あ……!」
リゼルの言葉通り、手首の角度をわずかに寝かせた瞬間、小松の指先に不思議な感覚が伝わった。
吸い込まれるように刃が走った後、今度は迷いなく奥へと滑り込む。
毒袋は周囲の膜からスルリと、傷一つなく手で抜き取られた。
まばゆい黄金の光が、小松の顔を照らす。
「やった……! 抜けました、リゼルさん! ココさん!」
「おおおっ! やったな小松! 見ろよ、眩しいくらいの
それまで固唾をのんで見守っていたトリコが、待ってましたとばかりに大声をあげて拳を突き出した。
自分のことのように目を輝かせ、早くも口元からヨダレを溢れさせている。
「見事だ、小松くん。素晴らしい適応力だよ」
ココもパチパチと温かい拍手を送る。
「へへ、ありがとうございます! ……よし、この感覚が消えないうちにもう一匹!」
小松の快進撃はそこからだった。
一度掴んだ感覚を忘れない料理人としての天才的なセンスを発揮し、小松はなんと、立て続けに合計三匹ものフグ鯨を完璧に捌き切ってみせたのだ。
「うおおおーっ! 三匹連続大成功かよ! 小松、お前やっぱり最高の料理人だぜ! よし、兄貴 これだけ贅沢に揃ったんだ、まずは一発、捌きたての最高鮮度でいこうじゃねぇか!」
トリコは豪快に笑いながら小松とリゼルの肩を叩き、胃袋の虫を鳴らして急かす。
「よし、そこまでだ」
だが、リゼルはそんなトリコの催促をいなしながら、小松の肩を叩いて優しくナイフを引かせた。
「これ以上はお前の集中力が切れて手元が狂う。食べる分と、お前の経験としては十分だ。……残りのフグ鯨は、俺がすべて持って帰る」
リゼルはそう言うと、再び職人の顔に戻り、残されたフグ鯨たちへと信じられないスピードでナイフを滑らせていく。
「じゃあ遠慮なく、この黄金のフグ鯨をいただくとするか!」
ティナのカメラのモニターから、やっとヤドカリが離れた。
レンズの向こうには、今まさにフグ鯨を食べようとしているトリコ、リゼル、小松、ココの姿が映し出されている。
「わぁぁぁ、見えたーっ!」
「おおーっ!」
ゾンゲたちも自分のことのように喜ぶ。
だが、感動の映像はそこで無情にも終了した。
なぜなら、さっきのヤドカリが連れてきたであろう、三匹の子供たちが再びカメラの前に現れてモニターを邪魔したからだ。
「大盛りで邪魔だっつーのーーーっ!!」
ティナがまたしても激怒して吠える。
ゾンゲたちは最初は「またか……」という顔をしていたが、ティナのあまりの怒りっぷりに、次第に目が点になった。
「どけどけーっ!!」
必死にモニターを叩くティナを見て、ゾンゲも思わず目の前のヤドカリにツッコんだ。
「……家族連れかよ!」
美しく捌かれた黄金のフグ鯨の身が、大きく立派な葉を皿代わりにして、一同の目の前に厳かに並べられた。
洞窟のわずかな光を反射して、まるでそれ自体が発光しているかのように、瑞々しく神々しい輝きを放っている。
これ以上ない極上の食材を前にして、トリコが、ココが、小松が、そしてリゼルが、静かに両手を合わせた。
「この世の全ての食材に感謝を込めて」
トリコが代表して深く感謝の言葉を紡ぎ、最後は全員の息がピタリと重なる。
「「「「いただきます!」」」」
その声が洞窟の砂浜に心地よく響き渡ると同時に、彼らは一斉に、極上の身へと箸を伸ばすのだった。
「では早速、刺身を」
トリコはすかさず、大皿からかなりの量の刺身を贅沢にごっそりと掴み上げた。
「ちょっと! 取りすぎですよトリコさん!」
小松が慌てて困ったように声をあげる。だが、そんな小松の肩をリゼルがそっと叩いた。
「小松、あっちにもまだある。気にするな」
リゼルが視線で促すと、小松はぱあっと顔を輝かせ
「あ、ありがとうございます、リゼルさん!」
ちなみに、トリコは二人のやり取りなど耳に入っていない。
大きな口を限界まで開け、掴んだ刺身をまとめて放り込んでいた。
美味しそうに、もぐもぐと力強く顎を動かしていく。
(甘い……なんて脂の旨味だ。最高級のミンク鯨の霜降り肉と、黒マグロの大トロが合わさったみてぇだ! うめぇ! 噛んでも噛んでも味が出続ける! 噛みすぎて顎がいてぇ、でも止めらんねぇ!)
トリコの胸に猛烈な感動の嵐が吹き荒れる。
だが、それは他の面々も同じだった。
ココも、リゼルも、小松も、言葉を失ったまま同じ至福の表情を浮かべ、行儀よくその身を噛み締めている。
「うお!?」
トリコが驚愕の声をあげた。
「疲れが一気に吹っ飛んだ! 滋養強壮の効果があるとは聞いたが、これほどとは……!」
その瞬間、トリコの全身に電撃のような衝撃が走る。
ビリッと空気が震えたかと思うと、フグ鯨の圧倒的なエネルギーによって、彼の肉体は見る見るうちに膨れ上がり、一瞬にして爆発的なムキムキの筋肉へとビルドアップされたのだった。
「トリコさーん! ヒレ酒できましたー!」
小松が弾んだ声で呼び寄せる。
その手元には、極上のヒレ酒と、四つのコップが綺麗に並べられていた。
「オウッ!」
トリコは小気味よく返事をすると、差し出されたコップを手に取り、熱々のヒレ酒をぐいっと煽った。
(うめぇ……! なんてヒレ酒だ! 香ばしさが全身を突き抜ける。ヒレの甘みが辛口の熱燗によって一層旨みを増して、体中の細胞へとじんわり染み渡る……!)
トリコはそのあまりの完成度に、心の中で惜しみない絶賛を贈っていた。
息を深く吐き出し、温まった身体で小松の方を真っ直ぐに向く。
「どうだ、自分で捌いたフグ鯨は?」
「美味しいです! こんな料理、初めて食べました……!」
小松は両手でほっぺたを押さえながら、感極まった声を絞り出した。
目元には大粒の涙を溜め、鼻水を垂らし、口元からはよだれが溢れんばかりになっている。
顔中をぐしゃぐしゃにしながらも、その表情はこれ以上ない幸福に満ちていた。
「頑張って自分らで捕って、調理したモノは、やっぱり最高だよな!」
トリコが太陽のような眩しい笑顔を向けると、小松もまた涙を拭い、「はい!」と力強く頷いた。
その様子を、リゼルはココと並んで静かに見守っていた。
相変わらずクールではあるものの、その横顔には、どこか穏やかな空気を纏っている。
そんな仲間たちの姿を瞳に映しながら、ココは自身の胸に手を当てた。
(久しく忘れていたな、この感動は……。美食屋、か……。また始めてみるかな)
胸の奥から湧き上がる衝動。
ココは誰にも気づかれないよう静かに微笑みながら、心中で新たなる決意を固く誓うのだった。
ようやくヤドカリの親子がカメラから離れた時、モニターの向こうのトリコたちの食事は、すでに全員すべてが終わっていた。
モニターの奥から、満足げな声が重なって響く。
『『『『ごちそうさまでした。』』』』
「嘘でしょーっ!? 肝心な所が一秒も撮れてないじゃん!!」
ティナは眉を跳ね上げ、両手で口元を押さえて絶望に打ちひしがれる。
洞窟の入り口の外で一緒にモニターを見つめていたゾンゲたちは、かける言葉もなくただ呆然としていたが、やがて諦めたようにティナの後ろを通り過ぎて、そのまま帰路につく。
「やっぱフグ鯨を捕れるのは俺だけだよな」
ゾンゲはすっかり諦めて背中を向けながら、白川と坂巻に得意げに言い放っていた。
しかしティナはその場から一歩も動かず、ただじっとモニターの奥を凝視し続けていた。
「それにしても、美食屋トリコに、レジェンドリゼル……やっぱりあの人たちは凄いわ。彼らについていけば、凄い食材に100%出会える。次は絶対に、最高のスクープをものにしてやるんだから!」
拳をギュッと握りしめ、次なる執念に静かに胸を燃やすティナ。
だがその時、ヤドカリが去って綺麗に映るはずのモニターの隅が、ビリビリと怪しく歪み始めた。
原因不明のおかしな電波ノイズ。ティナは怪訝そうに眉をひそめた。
「ん……?」
海水から、何か黒いオーラを纏った不気味な影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「よーし、帰るぞ!」
そんな異変にはまだ気づかず、トリコは小松たちに向かって元気よく声をかけた。
だが、その時だった。
ザバァッ!
と激しい水音が洞窟内に響き渡り、水面から不気味な生物が姿を現した。
その手には、捕獲したフグ鯨を縄袋いっぱいに詰め込んだものが握られている。
それを重々しく引き摺りながら、生物が放つ黒いオーラはさらに不気味さを増していく。
「ん? なんだ……あいつは?」
トリコが怪訝そうな声をあげた、その瞬間だった。
不気味な生物が、ぬうっとトリコたちの方を向いた。
その禍々しい視線が合った瞬間、百戦錬磨のトリコとココの背筋に、ゾクッと冷たい戦慄が走る。
本能が「危険」だと告げている。
しかし、二人の後ろに佇むリゼルだけは違っていた。
その正体を知っているのか、あるいはその程度では動じないのか。
リゼルは謎の生物を、ただ静かに見つめ返している。
だが、その表情はあまりにも無表情
――他人が見れば、その生物以上に恐怖を覚えるほどの、完璧なまでの『無』だった。
(こいつ、ヤバい……!)
トリコの心臓が、警告音のように激しく脈打った。
「小松、離れてろ!」
トリコは不気味な生物から一瞬たりとも視線を外さず、険しく眉を跳ね上げて小松に鋭い声をかける。
「え……?」
状況が何も分かっていない小松は、一変した空気に目を丸くして戸惑う。
だが、その直後には、すでにリゼルが滑り込むように小松の前へと立ちはだかっていた。
(あいつは……)
顔には一切の感情を出さないリゼルだったが、その脳裏には、眼前の不気味な生物の正体がはっきりと浮かんでいた。
「はアァァアァァ!!」
ココが鋭い叫び声をあげる。
瞬時にその肌はおどろおどろしい紫色へと染まり、ズズズ……と両手からどす黒い毒液が滴り落ちる。
体からは濃密紫のオーラが立ち上り、完全に戦闘態勢へと入った。
(
それを見たトリコの全身に、凄まじい戦慄が走る。
すぐさまトリコも「オオオオオオアァァ!!」と猛獣のような雄叫びをあげた。
その瞬間、筋肉が爆発的に膨れ上がり、凄まじい威嚇のオーラが洞窟内を震撼させる。
暴風がブォオーンと巻き起こり、その風圧で小松の体が後ろへ吹き飛ばされそうになる。
だが、すぐ後ろでリゼルがその小さな体をしっかりと抑えたおかげで、小松は無事だった。
トリコもココも、額に冷や汗をにじませながら本気で身構える。
不気味な生物は最初トリコを睨みつけていたが、すぐにその視線を逸らした。
次にその
――トリコのさらに後ろに佇む、リゼルだった。
「ッ……!?」
トリコとココが即座にその視線に気づき、ハッと息を呑んでリゼルを振り返る。
リゼルは相変わらず完璧なまでの『無』の表情で、ただ静かに見つめ返していた。
しかし、その体からは、見たこともないほど濃密な「黄金のオーラ」がほんの少しだけ漏れ出ている。
トリコとココの全身に、今までにない凄まじい緊張が走った。
なぜなら、今のリゼルから漂う気配は、自分たちの知っている普段の優しい「兄貴」のそれとは、完全に一線を画していたからだ。
それは、リゼルに体を支えられている小松も同じだった。
小松は恐怖とも違う圧倒的な威圧感に生唾を飲み、ただ緊張の眼差しでリゼルの横顔を見つめていた。
だが、不気味な生物は頭部に怪しく手を這わせ、そのまま視線を逸らした。
トリコやココたちには目もくれず、フグ鯨がギッシリ詰まった縄袋をガジガジと不快な音を立てて引き摺りながら、ただ静かに歩き出す。
しかし、途中でピタリとまた立ち止まった。
そして、吸い込まれるように再びリゼルの「方」をじっと見つめ直す。
ひとしきり睨みつけると、不気味な生物は今度こそ未練を断ち切るように、暗闇の奥へと去っていった。
「はぁ……っ」
あまりの緊張感から解放され、小松はへなへなとほっと胸をなでおろしていた。
だが、トリコとココは未だに身体が硬直したまま、呆然と立ち尽くしている。
「なんなんだ……今のは……」
トリコは一歩も動けないまま、絞り出すようにつぶやいた。
「見たことがない……あんな不気味で、不敵な電磁波を放つ存在は……」
未だに額の汗が止まらないココも、金縛りにあったように動けず、奴が去っていった暗闇をただ見つめていた。
「奴は海側から来たんだ。この洞窟の、深海千メートルを潜って……そんな常識外れの生き物が、この世にいるってのかよ」
トリコは信じられないといった様子で、真剣な顔で床に視線を落とす。
「いや、違う……」
ココは何か恐ろしい仮説に辿り着いたのか、喉を鳴らしてトリコに告げる。
「え……?」
トリコがハッと顔を上げ、ココの方を向いた。
「奴は……生き物じゃない……」
ココは凍りつくような真剣な表情のまま、冷や汗を流し、不気味な生物が通り過ぎていった道をずっと凝視し続けていた。
「生き物じゃ……ない……?」
ココの言葉を頭の中で反芻していたトリコだったが、ハッと何かに気づいたように、今度はリゼルの「方」へと視線を向けた。
「そういえば……奴はあからさまに、俺やココよりも『兄貴』のことを執拗に見ていた。……兄貴、あの不気味な奴について、何か知ってるのか?」
トリコの真剣な眼差しを受け、リゼルは無造作に自身の髪をかき上げた。
だが、本当に一致するのか、まだ確かな証拠はない。
「いや……知らんな……」
リゼルは静かに視線を落とし、そう短く答えた。
確信が持てない以上、今は若い二人に余計な警戒や混乱をさせるべきではない――そう判断し、あえて『知らない』ということにしたのだ。
ティナたちがいる洞窟の入り口の外では、突如として大音響が響き渡った。
ドオオオオオン!!
入り口を塞いでいた巨大な岩が内側から吹き飛び、ティナは冷や汗を流しながらその場所を凝視する。
すぐ近くにいたクルッポーは、恐怖のあまりお腹をパンパンに膨らませて固まっていた。
壊れた岩の隙間から、あの黒いオーラを纏った不気味な生物が、ぬうっと姿を現した。
その横の地面には、返り討ちに遭ったのであろう他の美食屋たちが力なく倒れている。
「ス、スクープかも……!」
ティナは震える手で、本能的にカメラをその怪物へと向けた。
だが、その生物は即座に、その悍ましい視線でティナを射抜く。
その絶対的な強者の威圧感に気圧され、ティナは恐怖のあまりカメラを地面に落としてしまった。
しかし、怪物はすぐにティナから興味を逸らし、そのまま通り過ぎていく。
ティナは冷や汗に塗れながら、ただ前を見つめ、奴が通り過ぎるのを震えながら見送るしかなかった。
奴はそのまま歩いていくが、その途中で、さっきまで中継を見ていたパソコンに体が不意に当たってしまう。
ガシャリ、と軽い衝撃を立てて地面へ落ち、怪物はそのままの歩調でどこかへと歩み去っていった。
ティナはいまだに恐怖で一歩も動けない。
地面に落ちたパソコンの画面は、激しいノイズを上げた後、真っ暗に消え去るのだった。