兄貴、見守る。 作:キュウリ大好き人間
粉砕されたアクリル板の隙間を縫うようにして、大破した格闘競技場の中へと必死に駆け込んでくる二人の影と、一羽の姿があった。
モーブとティナが全力で走り、その頭上をクルッポーが激しく羽ばたきながら、リゼルとバトルウルフ親子が佇むすぐ近くまで一気に詰め寄ってくる。
(バトルウルフは1ミリも群れない一匹狼。子供を生んだその日にだけ、慈愛の限りを尽くすと言うわ。伝説の王者のこんな奇跡的な場面を抑えられるなんて――!)
ティナは真剣そのものの表情で眉毛をキッと上げ、担いだビデオカメラのレンズを親子の姿へ真っ直ぐに向けながら、心の中で興奮気味に呟いた。
その瞳には、特ダネを前にしたプロのジャーナリストとしての熱い光が宿っている。
(やっとリゼル様と喋れる……! それにあのバトルウルフも見れるとか、本当にラッキーだったな。今日は早く仕事を終わらせて、ティナ先輩について行って大正解だった!)
ティナのすぐ隣で、モーブもまた、状況の緊張感に合わせるように真剣な顔つきを崩さずにいた。
しかし、その張り詰めた表情の裏側では、憧れのリゼルの近くにいられる歓喜で、心の中の呟きをいっぱいに弾ませていた。
二人は息を切らせながら、ようやくリゼルとバトルウルフ親子が佇むリングの奥へとたどり着いた。
ティナはすぐさま手元でビデオカメラを構え、レンズを今まさに誕生したばかりのバトルウルフ親子へと向ける。
その隣で、モーブは巨大な王者の姿にチラチラと畏敬の視線を送りつつも、憧れのリゼルの方へと意識を向けていた。
ファインダーの小さな液晶画面に映し出されているのは、生まれたばかりの小さな子供のウルフが、一生懸命に母親の鼻の頭を小さな舌で舐めまわし、嬉しそうにニコニコとじゃれついている、あまりにも無垢で愛らしい光景だった。
ティナはカメラ越しに、その奇跡のような温かい愛の営みをずっと見つめ続けていた。
しかし、あまりにも尊すぎる親子の姿を前にして、彼女の引き締まっていた眉毛が徐々に下がり、深く胸を打たれたような、どこか愛おしさに満ちた切ない表情へと変わっていく。
ティナはそっとビデオカメラを腕から下ろすと、レンズを通さない生の瞳で、じっと噛みしめるように温かい親子を見つめた。
そんな隣の異変に気づいたモーブは、ティナの横顔を見て一瞬だけ驚いたように目を丸くする。
だが、すぐに視線をバトルウルフの親子へと戻し、深く納得したように静かに頷いた。
(……そうか。普段はあんなに恐ろしい伝説の王者なのに、我が子を前にすると、こんなに優しいお母さんの顔になるんだな……)
王者の宿命を背負いながらも、今この瞬間に溢れている絶対的な親子の絆の深さを、モーブもまた、ティナの感動した瞳を通じてはっきりと理解したのだった。
観客席の喧騒が少しずつ遠ざかる中、マンサムはアクリルの大穴の向こう、カメラを下げてじっと親子を見つめるティナの姿を真っ直ぐに視線で捉えていた。
「ホォ。なかなか見所のある姉ちゃんだ」
マンサムはニヤリと口元を綻ばせ、感心したようにそう呟いた。
そのすぐ隣にいた小松は、マンサムのその言葉を聞いて最初は「えっ?」と驚いたように目を丸くして吃驚していた。
しかし、ティナのあの切なくも愛おしそうな横顔をもう一度見つめ直すと、小松の顔にもじわじわと温かい笑みが広がっていく。
ただのスクープとして奇跡を消費するのではなく、親子の絆に心から敬意を払ってカメラを下げたティナの姿勢に、小松は心の底から感心していた。
この恐ろしい猛獣だらけのコロシアムの中で、自分と同じようにバトルウルフ親子を思いやれる人がいたことが、小松は純粋に嬉しかったのだ。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、小松はとっても嬉しそうに笑った。
ダイヤモンドのように煌めくアクリルの破片が静かに転がるリングの上。
新生命の誕生を祝う優しい空気のすぐ隣には、出産という大仕事を終えてひどく荒い息を繰り返す、バトルウルフの限界に近い疲弊した姿があった。
ティナとモーブは静かに眉毛を下げ、痛々しいほどに体力をすり減らした親子の姿をじっと見つめていた。
その近くに並び立つトリコとリゼルもまた、同じように眉毛を下げ、静まり返る空間の中でただ王者の姿を凝視している。
「消耗が激しすぎる。改細胞クローンは寿命が短い個体が多いが、そのせいかもしれん……。とにかく、今はゆっくり休むことだ」
トリコは痛む胸を堪えるようにバトルウルフの親子を見つめながら、静かに、言い聞かせるようにそう呟いた。
「えっ……!?」
ティナはトリコから放たれたその衝撃的な言葉に、思わず息を呑んで目を丸くし、驚愕の表情を浮かべた。
ただの圧倒的な王者としてではなく、命の灯火が短いかもしれないという過酷な事実に、カメラを持つ手が小さく震える。
リゼルはトリコが口にした切ない現実を耳にしながら、深く、眉毛を下げた。
氷の仮面は完全に消え去り、消え入りそうな親子の絆をただ切なそうに見つめながら、その黄金の瞳を悲痛に揺らしていた。
トリコが深い哀愁を瞳に宿し、ただ静かにバトルウルフを見つめていた、その時だった。
静まり返る
「――マジ! ヤッバいしー!」
その聞き覚えのあるリンの焦燥しきった声を耳にした瞬間、トリコとリゼルは弾かれたように、一斉に声のした場所へと鋭い視線を向けた。
次の瞬間、第6ゲートの強固な障壁に、凄まじい衝撃とともにピキピキと巨大なヒビが走る。
それが限界を迎えたかと思った直後
ドカーーーン!!
と凄まじい爆破音を立てて、鉄格子もろともゲートが派手に粉砕された。
激しい白煙がモクモクと立ち込めるその瓦礫の奥から、必死に呟きながら猛スピードで逃げてくるリンの姿がアリーナへと飛び出してくる。
<シャアァァアアアア!!>
そして、破壊されたゲートの真っ暗な大穴から、凄まじい金切り声を響かせながら、巨体をくねらせて現れたのは――完全に理性を失い、興奮のままに暴れ狂うデーモンデビル大蛇だった。
「ウゲ――ッ!!」
観客席の最前列で、小松はデーモンデビル大蛇の恐ろしい生態を思い出したのか、眉毛を八の字にかなり下げながら絶望的な悲鳴をあげた。
かつて味わった圧倒的な恐怖が脳裏をよぎり、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えている。
リゼルもまた、突如として姿を現したデーモンデビル大蛇を獰猛な視線で激しく睨みつけた。
リゼルの頭過るは、かつてこの猛獣と対峙した時の、決して浅くはない因縁の記憶だろう。
静かな怒りとともにリゼルの右拳が凄まじい力で握り締められると、その全身から陽炎のような黄金のオーラがほんの少しだけ漏れ出ていく。
ピキッ……と軽い音を立てて、リゼルが踏み締めている足場のコンクリートがほんの少しひび割れていた。
リングを引き裂くようなデーモンデビル大蛇の咆哮と、レジェンド美食屋から放たれる圧倒的な殺気を間近で浴び、客席のボルテージは恐怖のどん底へと叩き落とされる。
観客たちはデーモンデビル大蛇の不気味な巨体を見て、先ほどまでの大歓声が嘘のようにかなり激しい悲鳴をあげ、我先にとドタドタと音を立てて逃げていった。
崩壊したゲートの奥からぬっと現れた巨体を睨み据え、競技場に満ちる最悪のプレッシャーを受け止めながら、トリコは不敵に笑みを浮かべた。
「まーたスゲーのが現れたな。デビル大蛇でも厄介だって言うのによ、その上とはな」
トリコは迫り来るデーモンデビル大蛇の凶悪な姿を見上げながら、太い眉毛をグッと上げてそう言い放った。
ふと隣に視線を向けると、そこには黄金のオーラを微かに漏らしながら、デーモンデビル大蛇を今にも引き裂かんばかりの殺気で睨みつけているリゼルの姿がある。
トリコはそのリゼルの激しい様子を見て、「あの時の因縁」を思い出したのだろう。
トリコは理由が分かり、ほんの少し口元を緩めて笑った。
しかし、すぐにその表情を引き締め直すと、目の前のデーモンデビル大蛇へ向けて力強く身構える。
リゼルは今すぐにでも地を蹴り、デーモンデビル大蛇に向かって飛びかかりそうなほどの怒りを滾らせていた。
しかし、レジェンドとしての絶対的な冷静さは失われていなかったのだろう。
「ふぅーーーっ……」
リゼルはゆっくりと深く息を吐き出して深呼吸をすると、激しく燃え上がっていた殺気を一瞬にして胸の奥へと押し込み、頭をプロの戦闘モードへと完璧に切り替えた。
トリコはそんなリゼルの、一瞬で己の感情を完璧にコントロールしてみせた姿を間近で見て、思わず驚きに目を丸くする。
(流石は兄貴だ。一瞬で頭を切り替えやがった……!)
どんな因縁の相手を前にしても決して自分を見失わないリゼルの圧倒的な精神の強さに、トリコは心の中で深く感心し、その横顔へ向けた信頼の眼差しをいっそう熱く燃え上がらせた。
第6ゲートからアリーナへと這い出してきたデーモンデビル大蛇が、まずその貪欲な牙と4本の足で襲いかかったのは、ピンクの霧に興奮していた周囲の猛獣たちだった。
太い手足がぐにゃりと奇妙な音を立ててゴムのように長く伸びると、一瞬にして手近にいた二匹の猛獣を巨大な爪で捕獲する。
そのまま玩具のように軽々と遥か彼方へと投げ飛ばすと、宙を舞った猛獣たちは凄まじい勢いで壁へと叩きつけられていた。
デーモンデビル大蛇が次にターゲットとして赤い眼光を向けたのは、格闘獣のシルバーバックだった。
シルバーバックも本能で敵わないと察したのか、すぐさま背を向けて全力で逃げ出そうとする。
しかし、デーモンデビル大蛇の頭部から生える不気味な白い髪の毛が、生き物のようにうねりながら、逃げるシルバーバックの背後にまで一瞬で届くほどの長さにまで急激に伸長した。
逃げるシルバーバックの巨体を背後から一瞬にして絡め捕り、そのまま無慈悲に
ドカーーーン!!
と凄まじい大音響を響かせ、地面へと叩きつけながら投げ飛ばしたのだ。
「おいおい、興奮し過ぎだろ!」
トリコは目の前で繰り広げられる圧倒的な蹂躙劇を見上げながら、眉毛をグッと吊り上げてそう言い放った。
「あれは……だめだな」
その隣で、リゼルは漏れ出る黄金のオーラを瞳に宿しながら、冷徹にデーモンデビル大蛇の狂暴性を見極めて静かにそう呟いた。
一度暴走すれば、肉体が朽ち果てるまで周囲のすべてを噛み砕く、それがデーモンデビル大蛇という化け物だ。
リゼルは深く握り締めた右拳のまま、すでに戦闘の理性を完全に失っているデーモンデビル大蛇の最悪なコンディションを一瞬にして見抜き、その黄金の瞳をどこまでも冷たく研ぎ澄ませるのだった。
<シャアァァアアアア!!>
鼓膜を引き裂くような大音響の咆哮を上げたデーモンデビル大蛇。
周囲の猛獣たちを蹂躙し終えたその狂暴な赤い眼光が、次なる明確なターゲットとして、目の前に立ちはだかるトリコとリゼルの二人へと同時にロックオンされた。
次の瞬間、デーモンデビル大蛇の不気味な巨体から、ゴムのように伸縮する太い手がトリコへ、そして強靭な足がリゼルへと向けて、目にも留まらぬ速さで同時に襲いかかる。
「ナーーーイフ!!」
トリコは鋭い掛け声とともに、独自のグルメ細胞のエネルギーを宿した右手を力強く振り下ろした。
目に見えない刃が空間を切り裂き、迫り来るデーモンデビル大蛇の手を一撃で綺麗に切り落とす。
しかし、切り離された肉体は床に落ちるよりも早く、まるで巻き戻しのようにシュウシュウと不気味な音を立てて一瞬で元通りに再生してしまった。
一方、自分に向かって伸びてきたデーモンデビル大蛇の巨大な足に対し、リゼルは一切怯むことなく正面から拳を叩き込んだ。
ドガァァン!!!
凄まじい衝撃音とともにデーモンデビル大蛇の足が派手に吹き飛ぶ。
リゼルはその反動を利用してスマートに後方へとバックステップを踏み、距離を取った。
だが、吹き飛ばされたはずの足は、やはり何事もなかったかのように一瞬で元の形へと肉体が盛り上がっていく。
「チッ、本当にキリがねぇな……!」
デーモンデビル大蛇の手が再び鞭のようにしなって伸びてくるのを、トリコは抜群の運動神経で何度も身を翻しながらヒラリとかわしていく。
対するリゼルは、四方八方からぐにゃぐにゃと襲いかかってくるデーモンデビル大蛇の足に対し、ただ真っ直ぐに拳を突き出し続けた。
その殴り方は、かつてこの猛獣と対峙した時の深い根を今でも持っているのか、一発一発に凄まじいオーラと力を込めて、一切の容赦なく徹底的に殴り飛ばしていく。
「…………」
どれだけ殴り飛ばして足が千切れ飛んでも、次の瞬間には元に戻る。
リゼルはそんなデーモンデビル大蛇の無限の再生能力を逆手に取り、むしろ好都合だと言わんばかりに、完全に「真顔」のままで何度も何度も鉄拳を叩き込み続けていた。
デーモンデビル大蛇の足がどちらの方角から襲いかかってこようとも関係ない。
リゼルは超人的な体術でそのすべてを視線だけで捉え、日頃の
アリーナのリング上で、伸縮する手足を無限に再生させながら暴れ狂うデーモンデビル大蛇と、それを圧倒的な体術で迎え撃つトリコとリゼルの熾烈な攻防。
観客席のあちこちから悲鳴が響き渡る中、マンサムは腕を組んだまま、その激しい戦闘を険しい目で見据えていた。
「ったく、リンの奴!」
マンサムはトラブルを連れてきた身内に呆れるように、後頭部をガシガシと掻きながらそう毒付いた。
ふと、周囲の大金持ちたちが我先にと逃げ惑う中で、自分のすぐ隣に直立不動のまま佇んでいる小松へと視線を落とす。
「ん? 兄ちゃん、逃げないのか?」
マンサムは片方の眉毛をグッと上げ、不思議そうに小松の顔を覗き込んでそう問いかけた。
「えっ? あ、あはは……。トリコさんといると、いつもこんな感じですから。もう、なんだか慣れちゃいました。つーか、そんなことに慣れてる自分も、ちょっと怖いですけど……。それに、いつも後ろからリゼルさんが守ってくれますし!」
小松は突然声をかけられて一瞬ビクッと肩を揺らしたものの、すぐにマンサムを見上げて困ったような苦笑いを浮かべた。
後頭部に優しく手を乗せてはにかみながらも、その瞳には、どんな修羅場でも最後には自分たちを守り抜いてくれる最強のレジェンド・リゼルへの、絶対的な信頼の光が宿っていた。
「フッ……フハハハハッ! そいつはいい度胸だ!」
マンサムは小松のあまりにも肝の据わった言葉に驚き、すぐさま喉を鳴らして思いっきり豪快に笑い声をあげた。
その太い腕で小松の背中をガシガシと叩く。
「あそこの姉ちゃんや、あの男といい、お前ら大したモンだ。各国のトップがこのザマだってのによ。権力を振りかざす大金持ち共が……。丸腰じゃあ情けないモンだ」
マンサムは笑みをスッと引き締めると、命の誕生を真剣に見つめるティナ、バトルウルフ親子を労わりながらもリゼルの圧倒的な戦いぶりに憧れの視線を送るモーブの姿、さらには出産の疲労に必死に耐える親子の姿を次々と見つめていく。
どれだけ金や権力を持っていても、本当の危機の前に肉体一つで立ち向かう覚悟がない者たちの無様さを、マンサムは若者たちの気高さを通して、深く感心するように称えるのだった。