兄貴、見守る。 作:キュウリ大好き人間
上空を覆うぶ厚い雲が、じわりじわりと光を遮っていく。
時折、大気を震わせるような重苦しい音が響いた。
ゴロゴロ、と。
「一雨来そうだな。虹の樹は背が高いから、雷が落ちたら大変だ。急がねぇと」
先頭を歩くトリコが、険しい表情で空を見上げる。 その隣には料理人の小松、そして――彼らを見守るように静かに歩を進めるリゼルの姿があった。
「はい!」
小松が元気よく返事をした、その時だった。
目指す目的地へ向かうには、ここからそれなりの高低差がある斜面を下りなければならない。
トリコは一気に距離を詰めようと、軽く地を蹴って跳躍した。
だが、着地した瞬間。
ドサリ、と不自然に地面が踏み抜ける。
「え?」
トリコの巨体が、一瞬にして地面の下へと消えた。
「落とし穴……!?」
あまりに場違いなトラップに、小松が素っ頓狂な声を上げる。
しかし、驚きに固まる暇など狂暴な大自然は与えてくれない。
――ガァアアアアアアン!!
頭上から狂暴な咆哮が降ってきた。
巨体を揺らし、凄まじい威圧感を放ちながら現れたのは――猛獣、トロルコング。
完全に獲物と認識されたのだろう。
トロルコングは近くの巨岩を軽々と引き抜くと、標的を小松へと定めて思い切り投げつけてきた。
風を切り裂き、迫り来る圧倒的な質量。
「ひ、ひえええええ!?」
小松の顔から一気に血の気が引く。
直撃すれば、人間の身体など容易く肉片に変えてしまう一撃。
だが、小松が恐怖に目を瞑るよりも早く、その前に一人の影が滑り込んだ。
「――っ」
リゼルだ。
迫る巨岩を前にしても、その佇まいは冷徹なほどに静かだった。
小松の前に立ちはだかり、飛来する岩を易々と防ぎ止める。
最初からこうなることが分かっていたかのように、リゼルは襲い来る猛獣へ視線すら向けない。
その瞳が見つめているのは、ただ一つ。
トリコが嵌まった、足元の落とし穴の闇だけだった。
トロルコングは小松とリゼルに向けて激しく威嚇の声を上げていたが、すぐに狂暴な動きを止めた。
リゼルがじっと見つめる同じ方向――落とし穴の闇の奥から、凄まじい気配が立ち上ったからだ。
その瞬間、土煙を吹き飛ばしてトリコが姿を現した。
その右手には、鈍く光るノッキングガンが握られている。
「ノッキング」
トリコは飛び退くトロルコングの懐へ一瞬で潜り込み、その銃口を正確に突き刺した。
――ガフッ……!
トロルコングが短い悲鳴を上げて巨体を震わせる。 そのままゆっくりと倒れ込む刹那、猛獣の大きな舌がトリコの全身をべろりと舐め上げた。
「すまねぇな。ノッキングガンで麻痺させた。しばらくすれば動けるようになるからよ」
トリコは全身を濡らしながらも、倒れたトロルコングへ向けて真っ直ぐに謝った。
「ノッキング……獲物を捕獲するために神経組織を針で刺激して麻痺させる技術……!」
小松がその光景を見つめながら、ぽつりと呟く。 横たわったトロルコングは、静かにその巨眸を閉じた。
「トリコさん、リゼルさん……ノッキングって……大丈夫ですか? やっつけなくて」
小松は不安げな表情で、トリコとリゼルの顔を見上げた。
「えっ? 別に命を奪う意味ねーだろ。俺らの目的は虹の実だしな」
トリコが事もなげに笑う。その隣で、リゼルが淡々と言葉を継いだ。
「それに、襲って来てもノッキングして気絶させるからな」
「えっ? ま、まあそうですけど……。リゼルさん、ありがとうございます」
大岩から守ってくれたリゼルへ、小松がぺこりと頭を下げる。リゼルは表情を崩さないまま、小さく頷くだけに留めた。
「さっ、行こうぜ、兄貴、小松。つーか、舐められて奴の匂いが染み付いちまったぜ」
トリコが濡れた身体を不快そうに揺らす。
「あ……」
小松はその様子を見て、どこか戸惑ったように声を漏らした。
リゼルは隣にいる小松の顔を一瞥し、「どうした?」と無言のまま視線で問いかける。
そして、まだ少し緊張の抜けない小松の頭を大きな手でぽんぽんと撫でると、「ほら行くぞ」と促すように、静かに前へと歩き進めた。
その頃――。
IGO開発局長であるヨハネスが、正面の巨大な壁の前で二人の門番と話し合いを続けていた。
その隙を突き、物陰から素早く抜け出したのは、キャスターのティナだった。
トリコが力任せに抉り開けた、壁の巨大な穴へと滑り込む。
「よしっ……!」
ティナはカメラを構えたまま、獲物を狙う野生動物さながらの勢いで、壁の奥へと全力で走り去っていった。
――バサササッ、
ところ変わって、うっそうと生い茂るジャングルの奥深く。
歩を進めるトリコと小松の口元からは、だらだらと大量のヨダレが垂れ流されていた。
その隣を歩くリゼルにヨダレこそないものの、その美しい両頬は、微かに赤く上気している。
「なんとも言えない甘い匂い……!」
小松がうっとりとした表情で、鼻をひくつかせた。
「ああ。虹の実は近いみてぇだな。
虹の実の甘い香りは動物の理性を失わせて引き寄せると言う。肉食のトロルコングは虹の実は食わねぇが、実の香りに誘われてやってくる動物を食うために、虹の樹に巣を作ってるんだ」
トリコが鼻を鳴らしながら説明する。
小松はほっとしたように、満面の笑みを浮かべた。
だが、リゼルの表情は一変して真剣なものへと変わっている。
「でも、トロルコングはさっきノッキングしたから、安心して実は取れちゃいますね!」
「あぁ? 何言ってんだ。あいつは群れの一番下っ端。ただの偵察だ」
トリコの鋭い声に、小松の笑顔が凍りつく。
「さっきもトリコが言っていただろ? 群れで巣を作る、と」
リゼルが低い声で冷徹に事実を告げた。
二人の深刻な言葉を聞き、小松はみるみるうちに困惑の色を顔に浮かべていく。
「え? む、群れって……?」
トリコは歩みを止め、前方の一点を力強く指差した。
「ほーら、見えてきたぞ」
「え――っ!?」
――ガルルルル、ウガァアアアアアアン!!!
地響きと共に、無数のトロルコングが凶暴な声を上げて立ちはだかる。
「参ったなぁ。こんだけの数をどうすっか。俺には下っ端の匂いが染み付いてっから、本気で威嚇してもムダかもな。虹の実は目の前だってのに……」
トリコが頭を掻きながら、冷や汗を流す。 その光景を前に、小松は完全に顔の血の気を失わせていた。
「あ、終わった……。今、僕……三途の川が……ハッキリ見えます……」
「ん?」
リゼルが鋭い視線を向けた、その瞬間だった。
牙を剥いたトロルコングの群れが一斉に咆哮し、凄まじい質量となって三人に襲いかかってきた。
「俺は向こうからノッキングする。ここはお前に任せた」
「あぁ、任せろ! 兄貴も気をつけて……小松! 俺の背中にしがみつけ! 全身全霊でしがみつけよ! 百分の1秒でも力を緩めたら命はねぇと思え!」
「はい! っていうか、生きて戻れるんですかねぇ!?」
小松が涙目でトリコの背中に飛びつく。
「大丈夫だろ! 多分……」
リゼルが平然とした顔でそう言い残し、疾風のごとき速さで敵陣へと飛び込んでいく。
「知らん! 祈ってろ!」
トリコもまた、拳を握りしめて猛獣の群れへと突撃していった。
――ザザッ、
トリコたちが激戦を繰り広げているルートとは別の場所。
うっそうとした草むらをかき分けて進んでいたティナは、突如として目の前に現れた巨大な影に足を止めた。
「ううぁぁぁっ!?」
思わず尻餅をつくティナ。
しかし、目の前のトロルコングは威嚇してくる様子もなく、ぐうぐうと大きな寝息を立てて眠っている。
「じゃあこれ……ノッキングされている? 何でノッキングを……あ……」
ティナが不思議そうにカメラを向けた、その時だった。
――ドンッ!!!
ジャングルの奥深くから、空気を激しく震わせる重低音が鳴り響いてきた。
広場で、リゼルとトリコはそれぞれ無数のトロルコングを相手に激しい立ち回りを演じていた。
リゼルへ向けて、同時に5匹のトロルコングが凶暴な牙を剥いて襲いかかる。
一見すれば包囲された窮地。
リゼルは僅かに苦戦の気配を見せたものの、それはほんの一瞬のことに過ぎなかった。
野生の猛獣ですら捉えきれない超絶的な体捌きで攻撃を躱すと、瞬く間にすべての個体をノッキングして沈めてしまう。
だが、それでも敵の数は一向に減らない。ノッキングしても、次から次へと新しい影がわんさかと押し寄せてくる。
(――威嚇で一気に圧をかけるか?)
リゼルの脳裏に、自身の『黄金の鬼』のオーラで場を支配する選択肢が一瞬だけよぎる。
しかし、冷静に戦況を見極め、その思考を即座に破棄した。
もし今ここで自分が圧倒的な威嚇を放てば、怯えた猛獣たちは自分を避け、一斉に別の標的へと流れていくだろう。
――すなわち、トリコの元へ。
下っ端の匂いが染み付き、威嚇が通じない今のトリコにこれ以上の敵が群がれば、背中の小松を守りきることは難しくなる。
リゼルは威嚇を止め、トリコの負担を少しでも減らすべく、目の前の猛獣たちを片端から正確にノッキングしていく道を選んだ。
その頃、トリコもまた死闘の真っ只中にいた。 何匹ものトロルコングに完全に囲まれ、四方八方から巨大な拳が容赦なく飛んでくる。
――ビュッ、ビュオッ!!!
トリコは背中の小松を庇いながら、紙一重のステップでそれらのパンチをことごとく回避していく。すぐさま死角から新しい拳が肉薄するが、トリコは淀みのない動きで隣へと身体を滑らせた。
空振りに終わった猛獣のわずかな隙を見逃さず、懐へ鋭く踏み込む。
――ドンッ
至近距離から放たれたノッキングガンが、一匹の動きを完全に止める。
トリコは息つく暇もなく、押し寄せる次の影へと向き直り、流れるような連続動作でノッキングを繰り返していった。
「ノッキング……!」
トリコの鋭い声と共にノッキングガンが撃ち込まれ、トロルコングが悲鳴を上げてその場に倒れ伏す。
トリコは素早い手付きで、手元のノッキングガンに次弾を補充した。
「トリコさん、リゼルさん! ノッキングって、そんな場合じゃないですよ!? これだけの数、やっつけなきゃ!」
背中にしがみついたまま、小松が悲痛な声を張り上げる。
「言っただろ? 俺たちの目的は虹の実だけだって」
トリコが息を整えながら、まっすぐに前を見据えた。
その隣に並び立ったリゼルが、倒れた猛獣の山を見つめながら淡々と言葉を添える。
「それに、見ろ。あんなに倒して命を奪うにしても、命が勿体ない……。この猛獣は、お肉が不味くてな」
「兄貴の言った通りだ。トロルコングの肉は筋っぽくて、食えたモンじゃねぇ」
「えっ……?」
小松が呆然と声を漏らす。トリコは真剣な眼差しを小松へと向け、自身の信念を刻みつけるように強く言い放った。
「俺は食う目的以外で、獲物の命は奪わねぇ。食わねぇなら命を奪わねぇし、命を奪ったんなら食う! それが俺のルールだ!」
「俺も、トリコと似たようなもんだな……」
リゼルが静かに目を細め、同意するように呟いた。
小松はただ、二人の美食屋が語ったその言葉の重みに、息を呑んで驚き呆然とするしかなかった。
――ざぁざぁと、激しい雨がジャングルに降り注ぎ始めた。 水滴に濡れる草むらの陰から、ティナは必死にカメラを構えて戦場を覗き込んでいた。
「あくまで虹の実が目当てってわけ? 美食屋トリコ、そしてレジェンドリゼル……。凄すぎて、記事にするのも命がけね」
ティナが息を呑んだ、その瞬間だった。
――ガルルルルッ!!!
激しい雨音を掻き消すようにトロルコングが吠え、もの凄いスピードで拳を突き出してきた。
押し寄せる怒涛の連続パンチ。
だが、トリコも負けてはいない。
猛烈な連打を紙一重の体捌きでことごとく躱し、時には自身の力強い足で強烈な蹴りを叩き込む。
その一瞬の隙を見逃さず、懐へ一気に踏み込んだ。
「ノッキング……!」
銃撃が命中し、硬直した個体からトリコはすぐにバックステップで距離を取る。
「キリがねぇな。奴らは完全な縦社会……ボスを倒さない限り、決着はつかねぇ!」
トリコが叫んだ直後、頭上から新たなトロルコングが狂暴に降ってきた。
トリコは即座に回避を試みるが、背後からも別のトロルコングが肉薄する。
引き金を引くよりも早く、巨大な拳がトリコの右腕を弾き飛ばし、ノッキングガンが遥か彼方へと吹き飛んでしまった。
さらに、別の個体がトリコの両腕をがっしりと掴み上げる。 ――ギリギリギリ、と肉の軋む嫌な音が響いた。
トリコが武器を失うと同時に、リゼルはすでに動いていた。
トリコの背後を突いたトロルコングの懐へ電光石火の速さで滑り込み、一瞬にしてノッキングで沈める。
そのままトリコを救出するべく地を蹴ったが、猛獣の群れが次々と壁になってリゼルの視界を遮る。
「奴らの握力が1トンをも超えるって言うのは、本当のようだぜ……!」
トリコが肉体を軋ませ、苦悶の表情を浮かべる。
「トリコさん……!」
背中の小松が悲鳴を上げた。
――グゥゥウウウオオオオオオオオンッ!!!!
目の前のトロルコングが勝利を確信したように、至近距離からトリコに向けて、鼓膜を激しく引き裂くような獰猛な咆哮を轟かせた。
大気がびりびりと震え、猛獣の口から凄まじい風圧と野生の凶気がトリコの顔へと叩きつけられる。
――だが。
トリコはその圧倒的な咆哮を、正面から冷徹な眼差しで睨み返した。
人間の枠を超えた、底知れない『捕食者』の眼光。
トリコの瞳の奥に、一瞬だけ恐るべき鬼の気配を見たトロルコングは、一転して恐怖のあまり「ウ、ウギャァ……っ!」と短い悲鳴を上げて戦慄した。
さっきまでの狂暴な咆哮が嘘のように、本能的な恐怖で全身をガタガタと震わせ、その腕から一気に力が抜けていく。
行く手を阻む敵をすべてノッキングで蹴散らし、リゼルがトリコの元へとたどり着いた時には――すでにトリコは睨み合いで恐怖させた猛獣の腕から、自力で脱出した後だった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!トリコのピンチに電光石火で動くリゼルと、トリコ自身の美食屋としての信念のシーンでした。クールでありながら、弟分たちをしっかり見守るリゼルの立ち回りが、原作の世界観に自然に馴染んでいたら幸いです。