ぼっち・ざ・ろっく! B-Side Tracks 作:たこ焼き 龍月
ライブハウスを舞台に、廣井きくりの「忘れ物」を巡って、星歌とPAさんが振り回される日常コメディです。
空き瓶、使い込まれたピック、片方だけの靴下、そして書きかけの歌詞。他人から見ればただのガラクタでも、本人にとっては捨てられない思い出だったりします。
原作のゆるい空気感を大切にしつつ、星歌ときくりの長い付き合いだからこその掛け合いと、不器用な優しさが少しでも伝われば嬉しいです。
開店前のSTARRYは、いつもより少しだけ広く見える。
照明を半分落とした店内には、まだ誰の声も音楽もない。フロアの隅に積まれた椅子と、拭き上げられたばかりのテーブルの艶だけが、静かな時間の重みを伝えていた。伊地知星歌は雑巾を手にしたまま、カウンターの奥にある作り付けの棚と向き合っていた。
この棚を開けるのは、実のところ少し気が重い。経験上、良いものが出てきた試しがなかった。半年前は空の缶が山ほど出てきて、丸一日かけて片付けた記憶がある。それでも掃除は掃除だ。目を逸らして済ませられるほど、店の運営は甘くない。星歌は覚悟を決めるように一度肩を回してから、扉に手をかけた。
開けた瞬間、埃と一緒に古い匂いが鼻をついた。長らく開けていなかった証拠だ。星歌は眉をひそめながら、奥に押し込まれていた紙袋を引っ張り出す。中身を覗き込んで、思わず舌打ちが漏れた。
空になった一升瓶が、二本。
ラベルはすっかり色褪せていて、いつ持ち込まれたものかも判然としない。星歌はそれを持ち上げ、光にかざしてみた。底に薄っすらと残った澱が、揺れる。誰の仕業かなど、考えるまでもなかった。
「……廣井、テメェ」
低く呟いた声は、誰に届くでもなく店の空気に溶けて消えた。
棚の奥にはまだ続きがある。星歌は袋の底を探り、指先に硬いものが触れるのを感じた。
取り出してみると、それはすり減ったギターのピックだった。角が丸くなるほど使い込まれていて、持ち主の癖が刻まれているようにも見える。続いて出てきたのは、なぜか片方だけの靴下。色は覚えているが、対になるはずのもう片方は見当たらない。
さらに奥を探ると、くしゃくしゃに丸められたメモ用紙が一枚出てきた。広げてみると、そこには読み取りづらい走り書きの文字が並んでいた。歌詞の切れ端らしきものだが、途中で力尽きたように文章が切れている。
星歌はしばらくの間、それらを手のひらの上に並べて眺めていた。
いつもそうだ。片付けても片付けても、この店の隅からは廣井きくりの痕跡が湧いて出る。まるで店そのものに住み着いているみたいに。今度こそ、きちんとけじめをつけさせる。星歌はそう心の中で決めながら、深く息を吐いた。
空の段ボール箱をカウンターの下から引きずり出し、潰れた瓶も、ピックも、靴下も、メモも、迷うことなく箱の中へ放り込んでいく。捨てる。それだけのことのはずだった。
その一部始終を、少し離れたテーブル席からPAさんが眺めていた。
もともとは配線のチェックのために早めに店へ来ていただけで、星歌の掃除に付き合うつもりはなかった。ノートパソコンを開いたまま、画面と星歌の背中を交互に見ているうちに、いつの間にか手が止まっている自分に気づく。
「店長、朝から機嫌が悪そうですね」
声をかけると、星歌は振り返らずに答えた。
「見りゃわかんだろ」
「廣井さんの忘れ物、ですか」
「忘れ物にしちゃ量が多すぎるだろうが。ここは倉庫じゃねえんだよ」
箱に瓶を放り込む音が、少し乱暴に響いた。PAさんはその音に片方の眉を上げただけで、それ以上は何も言わなかった。巻き込まれるつもりはない。今日は開店準備をこなして、静かに一日を終える予定だった。少なくとも、自分の中ではそのはずだった。
だが視線は、どうしても星歌の手元から離れなかった。
箱の中身が増えていくたび、星歌の口から小さな独り言がこぼれる。「なんで靴下が片方だけあるんだよ」「このメモ、歌詞にすらなってねえじゃねえか」。ぶつぶつと文句を言いながらも、手つきは決して雑ではない。むしろ一つひとつを丁寧に確かめてから箱に収めているところに、PAさんは密かな矛盾を見つけていた。
本当に不要なものなら、確かめる必要などないはずだ。
その観察を口にするつもりはなかった。今はまだ。人の矛盾というものは、指摘した瞬間にかえって面白みを失ってしまうことをPAさんは経験上よく知っていた。黙って見ている方が、たいていの場合は得るものが多い。
星歌がこうして廣井きくりの私物にいちいち手を止めてしまうのを、PAさんは以前から知っていた。口では厳しいことを言いながら、結局は最後まで面倒を見てしまう。星歌自身がそれを自覚しているのかどうかは、いまだに判断がつかない。
棚の掃除が一段落したところで、星歌は箱の蓋を仮に閉じ、カウンターの端に置いた。あとで処分場に持っていくつもりだった。腕時計を確認すると、開店まではまだ時間がある。ひとまず一息つこうと、星歌はカウンターに寄りかかった。
その矢先だった。
からん、と店の裏口の扉が緩慢な音を立てて開いた。
「センパーイ」
間延びした声とともに現れたのは、廣井きくりだった。昼間だというのに目元はとろりと赤く、足取りもどこか覚束ない。片手には潰れた紙コップを提げていて、中身が何であるかは聞くまでもなかった。
星歌の眉間に、瞬時に皺が寄る。
「……テメェ、この時間から飲んでんのか」
「んー?ちょっとだけだぞー。挨拶代わりってやつ」
きくりはふらふらと店内を横切り、カウンターに近づいてくる。その視線が、蓋の閉じられた段ボール箱に留まった瞬間、動きがぴたりと止まった。
「あ」
短く漏れた声には、これまでの間延びした調子とは違う、妙な緊張が混じっていた。きくりは箱に歩み寄ると、蓋を持ち上げて中を覗き込む。
「これ、アタシのだぞー」
案の定、といった様子で星歌は腕を組んだ。
「知ってる。だから片付けてんだよ」
「片付けるって、捨てるってこと?」
「捨てる」
断言に、きくりの表情が一瞬だけ真剣になった。だがそれも束の間、すぐにいつもの緩んだ笑みに戻っていく。箱の中から一升瓶を取り出すと、抱きしめるようにして胸に寄せた。
「これはねー、思い出の品なんだぞー」
「空き瓶に思い出も何もあるか」
「あるんだって。この瓶、初めて志麻とサシで飲んだ夜のやつなんだから」
「じゃあその話は志麻さんの店でやれ。ここに置いてく理由になんねえよ」
きくりは唇を尖らせ、瓶を抱えたまま少し身をよじった。
「先輩、冷たすぎ」
「片付けろっつってんだよ、いつも」
やり取りを黙って見ていたPAさんは、無意識のうちにノートパソコンの画面から視線を外していた。面白い、という感情が、胸の奥でゆっくりと形を持ち始める。だがそれを表に出すのはまだ早い。今はただの観察者でいるべきだ、と自分に言い聞かせた。
きくりは瓶を渋々箱に戻すと、代わりにピックをつまみ上げた。すり減った角を指先でなぞりながら、しみじみとした声を出す。
「これは、初めてバンドを組んだ日に使ってたピックだぞー。もうボロボロだけど、捨てらんない」
「使えねえならただのゴミだろうが」
「思い出は、使えるとか使えないとかで測るもんじゃないんだよー」
言いながら、きくりはピックを両手で包み込むようにして胸に押し当てた。上目遣いで星歌を見上げる目には、うっすらと涙のようなものが滲んでいる。演技なのか本気なのか、その境目はいつも曖昧だった。
「先輩にも、大事なもの一つくらいあるでしょー?」
「あるけど、それを店の棚に何年も放置しねえよ普通は」
星歌はそう返しながらも、内心では少しだけ言葉に詰まっていた。SICK HACKが結成された頃のことは、噂程度になら聞いたことがある。志麻とイライザ、そしてきくり。三人が今のような形になるまでには、それなりの紆余曲折があったはずだった。目の前で大事そうに握られているピックの角が、その年月の分だけ丸くなっているのだとしたら、無下に扱うのも気が引ける。
だがそれと、店の棚を私物置き場にしていい理由とは、話が別だ。星歌は自分にそう言い聞かせながら、表情だけは崩さないようにした。
にべもない返しに、きくりは大袈裟に肩を落とした。だがすぐに立て直し、今度は距離を詰める作戦に出る。ピックを胸ポケットに滑り込ませたかと思うと、するりと星歌の隣に回り込み、腕にしなだれかかった。
「ねえ先輩、これくらい見逃してくれてもいいじゃん」
「離れろ、酒臭ぇんだよ」
「冷たいなー、先輩は昔からそうだよなー」
顔を寄せてくるきくりを、星歌は片手で押し返した。だが本気で振り払っているようには見えず、その加減の甘さにPAさんはますます興味を引かれていく。
箱の中から片方だけの靴下が取り出されたのは、その直後だった。きくりはそれを掲げ、湿った目でしみじみと見つめる。
「これはね」
「言っとくけど、靴下に思い出語られても困るからな」
「聞いてよ、これは伝説のライブの日に履いてたやつなんだぞー」
「もう片方はどこ行ったんだよ」
「知らない」
あっさりとした返答に、星歌はこめかみを押さえた。
「知らねえのに片方だけ後生大事に取っとくなよ」
「片方だけでも、履いてた事実は消えないんだから」
「じゃあもう片方はどこで事実を証明してんだよ」
「それは……どこかで元気にやってるはずなんだぞー」
「他人事みてえに言うな、自分の靴下だろうが」
きくりは腕を組み、うんうんと頷きながら考え込むふりをした。答えを探しているのか、それとも時間を稼いでいるだけなのか、傍から見ても判然としない。
理屈になっているようで、なっていない。だがきくりの口調はどこまでも自信満々で、聞いている側の方が根負けしそうになる不思議な力があった。星歌はそれを長年の付き合いで知っている。知っているからこそ、余計に苛立ちが募った。
「あのなあ廣井」
声のトーンが一段低くなる。店内の空気がわずかに張り詰めた。
PAさんは、その変化を見逃さなかった。星歌が本気で怒る手前の、独特の間。ここから先は、単なる小言では済まなくなる予感があった。ノートパソコンを閉じ、そっと椅子を引いて二人の方へ体を向け直す。もう傍観者ではいられそうにない、という諦めに似た感覚があった。
きくりは靴下を胸に抱いたまま、上目遣いのまま一歩にじり寄る。
「先輩、お願い。これだけは」
「これだけって、さっきから何個目だよ」
「今回が最後」
「さっきも同じこと言ってただろうが」
言い合いは堂々巡りの気配を帯び始めていた。それでも星歌が箱を取り上げる素振りを見せないのは、長年きくりに甘い自分自身をよく知っているからかもしれない。PAさんはその機微を見て取りながら、口元にだけ、ごくわずかな笑みを浮かべた。
「店長」
「今度は何だよ」
「いえ。お二人とも、意外と楽しそうだと思っただけです」
棒読みに近い声でそう告げられ、星歌は片眉を吊り上げた。
「楽しんでねえよ。片付けてんだよ」
「そうですか」
抑揚のない相槌が、かえって煽っているように聞こえる。星歌はPAさんを一瞥したが、それ以上は取り合わずにきくりへと向き直った。
箱の中には、まだ丸めたメモ用紙が残っている。星歌の手がそこへ伸びるのを見て、きくりの体がわずかに硬くなった。それまでの緩んだ空気とは違う、微かな緊張が肩のあたりに宿る。星歌はその変化に気づかないまま、メモを摘み上げて広げた。
「……これは何だよ」
紙面に並ぶのは、判読しづらいほど乱れた文字だった。歌詞のようでもあり、ただの走り書きのようでもある。途中で線が乱れ、最後の一行は何かを塗りつぶした跡だけが残っていた。
「あ、それは」
きくりの声が、初めて明確に上ずった。慌てて手を伸ばすが、星歌はさっと紙を頭上に持ち上げてかわす。
「返せ返せ、それは見られたくないやつ」
「見られたくないって、お前が店に置きっぱなしにしといたんだろうが」
「置きっぱなしにしてたのと、見られていいのは別問題なんだぞー」
珍しく必死な様子のきくりに、星歌はかえって興味を引かれた顔になった。紙面に目を落とし、文字を追おうとする。だがあまりの乱れように、意味を拾うことすら難しい。
「字が汚すぎて読めねえよ。何のメモだこれ」
「歌詞の下書き。まだ完成してない、恥ずかしいやつ」
きくりは背伸びをして紙を取り返そうとするが、身長差のせいでうまく届かない。何度目かの跳躍が空を切ったところで、脇からPAさんの声が割り込んだ。
「廣井さん、それより先に瓶の話は片付いたんですか」
「今それどころじゃないんだぞー、PAさん」
珍しく取り乱した声色に、PAさんは静かにスマートフォンを構えた。画面越しに、必死に紙を取り返そうとするきくりの姿を収める。感情の起伏に乏しいはずのその顔に、ごくわずかな愉悦が浮かんでいた。
「店長、その紙、私にも見せてもらえます?」
「お前まで乗ってくんな」
星歌は呆れたように言いながらも、紙を持つ手を下ろした。三人の間に、束の間の静けさが落ちる。
メモの端には、消しかけた文字の下にもう一つ、別の走り書きが重なっていた。星歌はそこに目を凝らし、何かに気づいたように動きを止めた。表情の変化は一瞬だったが、隣で見ていたPAさんは見逃さなかった。
「店長?」
「……いや。何でもねえ」
星歌はメモを丁寧に折りたたみ、箱には戻さずにエプロンのポケットへしまい込んだ。きくりはそれを目で追いながら、何かを言いかけて、結局は飲み込んだ。
その代わりに、きくりはカウンターへとよろよろ近づき、椅子に腰を下ろした。両肘をつき、頬杖をついた姿勢のまま、ぽつりとつぶやく。
「あのメモがないと、次の曲書けないんだぞー」
「さっきまで下書きだって言ってたじゃねえか」
「下書きでも大事なんだよー。あそこから続き書くつもりだったのに」
星歌はポケットの上から、折りたたんだメモの感触を確かめるように手を当てた。すぐに突き返すつもりだったはずが、指先はなぜかそこで止まっている。長い付き合いの中で、きくりが本当に困っているときの声色は、大体わかるつもりでいた。今のはどちらなのか、正直なところ判断がつかない。
「……終わったら返す。今は預かっとくだけだ」
「ほんとに? 捨てない?」
「捨てねえよ、いちいち確認すんな」
きくりの表情が、ぱっと明るくなった。安堵したのか、あるいは新しい作戦を思いついたのか、その両方なのか。星歌には測りかねる笑顔だった。
PAさんはその一連のやり取りを、スマートフォンの画面越しに黙って見届けていた。声には出さないが、頭の中では既に次の展開への期待が膨らみ始めている。瓶、ピック、靴下、そしてメモ。今日だけでこれほどの品が出てくるのなら、この先まだ何かが出てくる可能性は十分にあった。
星歌がカウンターの奥へ伝票の整理に戻った隙を、きくりは見逃さなかった。椅子から音もなく立ち上がり、箱の縁に手をかける。狙いは、先ほど取り返しそこねたピックだった。
指先が箱の中身に触れかけたところで、背後から声が飛んだ。
「廣井さん、それ盗み返すのはさすがに反則じゃないですか」
振り向くと、PAさんがスマートフォンをこちらに向けたまま、いつもと変わらぬ平坦な顔で立っていた。きくりはびくりと肩を跳ねさせ、伸ばした手をとっさに引っ込める。
「べ、別に盗もうとしてないぞー。ちょっと確認してただけ」
「確認、ですか」
「そうだぞー。中身がちゃんとあるか、心配だから」
棒読みの言い訳に、PAさんは小さく頷いた。信じたわけではないことは、その口元に浮かぶ微妙な曲線から明らかだった。
「店長ー、廣井さんが箱に手を伸ばしてました」
容赦のない告げ口に、カウンターの奥から星歌の声が飛んでくる。
「テメェ廣井、こそこそすんじゃねえ!」
「ば、バレた!?」
慌てふためくきくりの姿に、星歌は伝票を置いてこちらへ戻ってきた。箱を抱え上げ、今度は自分の足元に置き直す。手の届かない位置に確保したつもりのようだったが、きくりはすかさずカウンターの向こう側から身を乗り出した。
「先輩、意地悪しすぎー」
「意地悪じゃねえよ、自業自得だろうが。人の目を盗んで自分の私物取り返そうとすんな」
「だってこれ、アタシのだもん」
「だから片付けてんだって言ってんだろうが、何回言わせんだよ」
同じやり取りが、形を変えながら繰り返されていく。それでも星歌の声には、最初ほどの棘がなくなっていることに、PAさんは気づいていた。怒っているというより、もはや呆れと苦笑の間を行き来しているように見える。
「おい」
「はい」
「お前さっきから何撮ってんだよ」
問われて、PAさんは悪びれる様子もなく画面をこちらに向けた。
「記録です」
「記録って何のだよ」
「お二人の攻防の記録です。あとで見返すと面白いので」
あっけらかんとした答えに、星歌は一瞬言葉を失った。それから深く息を吐き、こめかみを揉む。
「消せ」
「嫌です」
「嫌ですって、お前……」
初めて聞くはっきりとした拒否に、星歌の方が面食らったようだった。PAさんはいつもと変わらぬ声色のまま、淡々と続ける。
「店長も、そのメモのときだけ、少し違う顔をしてましたよね」
「……は?」
「いえ。何でもありません」
その一言に、星歌の表情が微かに強張った。何を見られていたのか、正確には把握できない。だが少なくとも、PAさんが自分の一挙一動を見逃していないことだけは、嫌というほど伝わってきた。
きくりはその隙にまた箱へ手を伸ばそうとしていたが、星歌の視線がすぐさま飛んできて、動きを止める。
「廣井、お前もいい加減にしろよ」
「へへ、バレたか」
「バレるに決まってんだろうが、堂々とやりすぎなんだよ」
呆れた声の奥に、微かな笑いが混じっていることに、きくり自身も気づいていたのかもしれない。悪びれる様子もなく、へらりとした笑みを返す。
「先輩がすぐ捨てようとするから悪いんだぞー」
「捨てようとしてるんじゃなくて、片付けようとしてんだよ。何回言えばわかるんだ」
「同じことじゃん」
「違えよ」
言い合いながらも、星歌の手は箱を完全に手放そうとはしなかった。腕の中に抱え込むようにして、蓋の上に軽く手を置いている。その仕草を見て、PAさんはひとつの結論に達しつつあった。星歌は本気で全部を捨てるつもりなど、最初からなかったのかもしれない。
開店時刻を示す時計の針が、あと少しで午後の区切りに触れようとしていた。フロアの照明が一段階明るく切り替わり、外の光が差し込む窓辺に埃が舞う。それはまるで、これから始まる長い攻防の予兆であるかのようだった。
星歌は箱を抱えたまま、小さくため息をついた。
「……とりあえず、開店の準備が先だ。この話はあとで続ける」
「続けるのかー」
「当たり前だろうが」
箱をカウンターの下に押し込みながら、星歌はきくりを一瞥した。その目には、まだ言い足りないことが山ほどあるという色が浮かんでいる。きくりはそれを察してか、椅子の上で肩をすくめ、へらりと笑うだけだった。
PAさんはスマートフォンをそっとポケットにしまい、何事もなかったかのように配線のチェックへと戻っていく。だが口元には、まだ小さな笑みが残っていた。今日はいつもより、記録すべき瞬間が多くなりそうだ。
きくりはカウンターに突っ伏すようにして、静かになっていた。眠っているのかと思いきや、薄目を開けて星歌の様子を窺っている。星歌はその視線に気づかないふりをしながら、カウンターの内側で片付けの続きに戻った。
エプロンのポケットに触れるたび、折りたたまれたメモの感触が指先に伝わる。字は読めなかったが、消しかけの一行の下に重なっていたもう一つの走り書きだけは、なぜか目に焼き付いていた。誰かの名前らしき文字列。それが誰を指すのか、確かめるつもりはなかった。確かめてしまえば、何かが変わってしまう気がした。
思えば、廣井きくりという人間はいつもこうだった。SICK HACKの現場でも、志麻やイライザから聞く話でも、几帳面さとは対極にある生き方をしている。それでいて、肝心なところでは誰よりも粘り強い。曲を書くときの執着も、酒の席での図々しさも、根っこは同じところから来ているのかもしれない。星歌はそんなことを考えながら、棚の扉をもう一度開けた。
中はもう空だった。当然だ、全部箱に移した。それなのに、扉を開けたときの癖でつい覗き込んでしまう自分に、星歌は小さく苦笑した。
「ーー先輩」
背後から、いつの間にか近づいていたきくりの声がした。振り返ると、さっきまでの湿った目とは違う、いくらか素面に近い表情がそこにあった。
「今日はありがと」
「……何がだよ、まだ何も終わってねえだろうが」
「うん。でも、捨てないでいてくれて」
短い言葉だったが、そこには珍しく飾り気がなかった。星歌は一瞬だけ言葉に詰まり、それを誤魔化すように箱の位置を直す。
「まだ捨てるかどうか決めたわけじゃねえよ。今日のところは、預かってやってるだけだ」
「それでいいんだぞー」
きくりはそう言って、いつもの緩んだ笑みに戻った。その切り替わりの早さに、星歌はやはり調子を狂わされる。怒りたいのか、呆れたいのか、それとも別の感情なのか、自分でもよくわからなくなってくる。
遠くでPAさんがマイクの位置を調整する音が響いた。淡々とした足音と、機材を確認する低い呟き。いつもと変わらない開店前の光景のはずなのに、今日はどこか違って聞こえた。
箱を隅に押し込みながら、星歌はふと動きを止めた。片方だけの靴下が、蓋の隙間からはみ出している。それを見て、聞くつもりのなかった問いが口をついて出た。
「……なあ、もう片方の靴下は結局どこ行ったんだよ」
「んー、それは秘密」
「秘密って何だよ、自分でも忘れてんだろ」
「忘れてないぞー。でも言わない」
悪戯っぽく笑うきくりに、星歌は追及するのをやめた。どうせ聞いたところで、まともな答えは返ってこない。だが妙に確信めいた口調が、かえって引っかかりを残した。もう片方の靴下がどこかに存在していて、それが今日中に見つかる予感が、なぜかした。
「PAさん、そろそろ表の看板出しますよ」
カウンターの奥から声を張ると、遠くで「了解です」という平坦な返事が返ってきた。その声の落ち着き方が、これから起こることを何も知らない者の余裕なのか、あるいはすでに何かを見越している者の余裕なのか、星歌には判断がつかなかった。
きくりは椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。紙コップの中身はいつの間にか空になっている。
「そんじゃ、アタシはちょっと休憩戻るぞー」
「休憩って、まだ何もしてねえだろうが」
「片付けの見届け、立派な仕事だぞー」
言うだけ言って、きくりはふらりと裏口へ向かっていった。扉が閉まる音を最後まで見送ってから、星歌は箱に視線を落とす。中に残っているのは、瓶と、ピックと、片方だけの靴下。メモだけがエプロンのポケットの中にあった。
開店を告げるように、外の通りから車の音が近づいて遠ざかっていく。星歌は箱の蓋を軽く押さえ、小さく息を吐いた。
カウンターの内側に立ち、フロア全体をゆっくりと見渡す。椅子はきちんと並び、テーブルは磨かれ、いつも通りの開店前の光景がそこにはあった。それなのに、足元の段ボール箱ひとつのせいで、店全体の空気がわずかにいつもと違って感じられる。
この一件が、今日一日で終わるとは、正直なところ思えなかった。